問9 文章中の空欄【(9)】に入れる地名として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【9】
(1) マチュ=ピチュ
(2) アルタミラ
(3) ラスコー
(4) ネアンデルタール
第2問 国境を越える人の移動の歴史を振り返ると,国境で区切られた一国史には収まらない,世界史のもう一つの顔が明らかになる。近代以降の人の移動について述べた次の文章A~Cを読み,下の問い(問1~9)に答えよ。(配点 25)
A 近代以降の国際的な人の移動の歴史において,アメリカ合衆国は,多種多様な人々を吸引する巨大な磁石のような役割を果たしてきた。例えば,(1)出入国の統計を取り始めて以来,自らの意思で渡米した移民の数は,今日までに5000万人を超えた。これ以外にも,(2)黒人奴隷のようにアフリカから強制的に連れてこられた人々や,出身国における戦乱などの結果,難民として流入する者もいた。地理的にも,ヨーロッパやアフリカだけでなく,(3)カリブ海域・中南米,アジアなどからの人の流れもあった。こうした様々な歴史的背景を持つ人々から構成される国家として,アメリカ合衆国は民族間,人種間の対立・抗争の歴史を乗り越える努力をしつつ,今日の多文化社会を築いてきた。
問3 下線部(3)に関連して,キューバ危機が起こったときのアメリカ合衆国大統領の名として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【12】
(1) トルーマン
(2) アイゼンハウアー
(3) ケネディ
(4) ジョンソン
B 現在の中国東北部からロシア領極東部に及ぶ地域は,清朝政府にとって,王朝発祥の地という特別な意味を持っていた。そのため,清朝政府は,この地域への入植をしばしば制限したが,18世紀以降,生活の糧を求めて万里の長城以南から移住する人々が増えていった。また,(4)19世紀後半以降は,朝鮮から移り住む人々も目立つようになり,さらには,ロシアの影響も強まった。各地から(5)中国東北地域に移住した人々とその子孫は,その後,この地域への日本の勢力拡張に伴う政治的混乱に巻き込まれることになる。一方,朝鮮から,ロシア領極東部へ移住した人たちは,ソ連の独裁的な指導者となっていた【(6)】の政策によって,1930年代後半に中央アジアに移住させられた。
問6 文章中の空欄【(6)】に入れる人の名として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【15】
(1) レーニン
(2) トロツキー
(3) スターリン
(4) フルシチョフ
C 次の文章は,少年期に難民となったある青年の回想である。(奴田原睦明の訳による。引用文は一部書き改め,省略したところがある。)
1947年までに,(7)ユダヤ人移住者の数は,数百人から幾万人もへと急増しました。彼らはついに(8)私たちの国の総人口の三分の一になり,国土のおよそ7パーセントほどを所有するようになりました。その土地の一部は彼らが購入したものですが,大部分は公用地でイギリス当局からもらいうけたものでした。その次の年に,イギリスは私たちの国から撤退することになりましたが,いずれにしろ,その時すでにイギリスは(9)ユダヤ人の民族的郷土をうち建てるという約束を果たしてしまったのです。私たちが難民となったのは,1948年5月12日でした。それは,祖国で暮らした最後の日となってしまったのです。
問9 下線部(9)は,第一次世界大戦中にイギリスが与えた約束の一つである。これに関連して,第一次世界大戦中のイギリスの政策について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【18】
第3問 統治者や支配階級の劇的交代をもたらす革命においては,それぞれの国の抱えていた問題が一挙に顕在化することが多い。フランス,中国,ロシアの革命について述べた次の文章A~Cを読み,下の問い(問1~9)に答えよ。(配点 25)
A (1)1793年10月,革命裁判所において,王妃マリ=アントワネットは,国費の浪費や,(2)外国との通謀などの件で,起訴された。オーストリアと交戦中のフランス革命政府にとって,敵国出身で浪費癖のあった彼女は旧体制や反革命の象徴となった。既に革命前から多くのパンフレットが彼女の素行や人格を非難しており,国王逃亡事件が彼女の主導で行われたと誇大に伝えられると(下図参照),国民の王妃に対する信頼はさらに失われた。王妃を非難する背景には,革命期の女性の政治参加に対する,共和主義者の男性の反発もあった。彼らは,(3)公的活動を行う女性を悪い母,放蕩の妻とみなし,その一例としてマリ=アントワネットを提示したのだった。

国外逃亡を図るルイ16世一家を描いた当時の風刺画
問3 下線部(3)に関連して,女性や女性の活動について述べた文として波線部の正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【21】
(1) 1789年10月,女性たちは
ヴェルサイユに赴き,国王に対し自分たちの要求の実現をせまった。
(2) 1792年9月の
国民議会の招集においては,女性には選挙権が与えられず,男性にのみ普通選挙権が与えられた。
(3) エカチェリーナ2世は,『女性と女性市民の権利宣言』(『女性の権利宣言』)を発表した。
(4) マリア=テレジアは,ナポレオンによって皇后の冠を授けられた。
B 革命家孫文は,国際的な視野を持つ人物だった。1911年10月に【ア】において,辛亥革命の口火となる軍隊の蜂起が起こったとき,彼は革命宣言と資金調達のためにアメリカ合衆国に滞在していた。このことは,(4)革命運動が留学生や華僑の支持を受け,国際的な広がりを持っていたことを,背景としていた。革命勃発の報を受けた孫文は,いったんヨーロッパへ向かい,ロンドン・パリを経て帰国している(下図参照)。これは,いち早く革命への(5)列強の支持をとりつけるためだった。革命勢力は,孫文の帰国を待って,1912年初めに,【イ】で新国家たる中華民国を成立させることになる。

辛亥革命時の孫文の帰国ルート(数字は到着の日付を示す)