2005年度 センター試験【世界史A】問題
(解答番号【1】~【36】)
第1問 歴史上の出来事を記念した建造物や祝祭・儀礼は,民衆の心のよりどころとされるとともに,政治的な意味を持つこともあった。各地の建造物や祝祭・儀礼について述べた次の文章A~Cを読み,下の問い(問1~9)に答えよ。(配点 25)
A (1)1890年代初め,アメリカ合衆国のシカゴで万国博覧会が開催された。「白い都市ホワイト=シテイ」と命名された中心会場の建物群に,来場者は驚嘆した。当時のシカゴでは,新しい世代の建築家たちが,(2)19世紀後半に実用化が進んだ鋼鉄材による建築を発展させ,近代的な高層ビルを建設して注目を集めていたのに対し,「白い都市」は,古代ローマなどのふるい時代の建築様式を模していたからである。この「白い都市」の様式は大人気を博した。その理由の一つは,(3)海外へ勢力を拡大しつつあったアメリカ合衆国のイメージが,ローマ帝国の栄光と重ねられたためと考えられる。また,心のよりどころとしての過去がヨーロッパに求められたという面もあった。

「白い都市」。左側の建物には,古代ローマの様式が取り入れられている。右側へ伸びるコロネード(柱廊)も,古代ギリシアやローマでよく使われたものである。
問1 下線部(1)の博覧会は,ある歴史上の出来事の400周年を記念して計画されたものである。その出来事について述べた文として最も適当なものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【1】
(1) コロンブスが,西インド諸島に到達した。
(2) イギリスが,北アメリカで最初の植民地を建設した。
(3) 北アメリカの13の植民地が,イギリスからの独立を宣言した。
(4) アメリカ合衆国憲法が制定された。
問2 下線部(2)の時期の,アメリカ合衆国やヨーロッパの文化・社会について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【2】
(1) アメリカ合衆国では,ラジオ放送やジャズなどの大衆文化が発展した。
(2) アメリカ合衆国のフルトンが,蒸気船を実用化した。
(3) フランスのディドロとダランベールは,『百科全書』を編集した。
(4) イギリスのダーウィンは,進化論を唱え,『種の起源』を著した。
問3 下線部(3)について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【3】
(1) セオドア=ローズヴェルト大統領の下で,グアムを獲得した。
(2) 植民地獲得のため,セシル=ローズをアフリカへ派遣した。
(3) パン=アメリカ会議を開き,ラテンアメリカ諸国への影響力を強めた。
(4) フランスからキューバを購入した。
B 2003年春に(4)イラクのサダム政権が倒れると,【(5)】派住民は,従来禁止されていた祭りのために,カルバラーと呼ばれる地を訪れた。そこは,預言者ムハンマドの孫フサインが殉教(680年)したことで知られる場所である。【(5)】派は,ムハンマドの従弟アリーとその子孫を,イスラム世界の正統な支配者とみなす。特にその主流派は,アリーとファーティマ(ムハンマドの娘)との間に生まれたフサインの血統を重視した。フサインはウマイヤ朝軍に殺害されたが,【(5)】派の人々は,この殺害を正義に対する弾圧として意識し,「正しい支配」を実現するために,歴史上,(6)様々な政権の樹立を試みた。現代に至るまで,フサインの死を悼む儀礼は,彼らにとって「正しい支配」を要求する精神の源となっている。
問4 下線部(4)の国の歴史を示した次の年表の空欄【ア】【イ】に入れる国の名とその位置を示す地図中のa~cとの組合せとして正しいものを,下の(1)~(6)のうちから一つ選べ。【4】
1932年 イギリス委任統治から独立
1967年 第3次中東戦争に参加
1980年 【ア】との戦争を開始(~88年)
1990年 【イ】へ侵攻
1991年 湾岸戦争

(1) ア-イラン-a  -クウェート-b
(2) ア-イラン-b  -クウェート-c
(3) ア-イラン-c  -クウェート-a
(4) ア-クウェート-a  -イラン-b
(5) ア-クウェート-b  -イラン-c
(6) ア-クウェート-c  -イラン-a
問5 文章中の空欄【(5)】に入れる宗派名として最も適当なものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【5】
(1) スンナ (2) ワッハーブ (3) ネストリウス (4) シーア
問6 下線部(6)に関連して,イスラム王朝・国家について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【6】
(1) 13世紀に,アウラングゼーブが北インドに奴隷王朝を建てた。
(2) 15世紀に,西アフリカではソンガイ王国に替わってマリ王国が興った。
(3) 16世紀に,オスマン朝がアナトリア(小アジア)に興った。
(4) 20世紀に,イラン革命の結果,ホメイニがイランの指導者となった。
C 1980年代のフランスでは,諸文明の継承者であるという自負を示すかのように,ルーヴル美術館の中庭のガラス製ピラミッドや,パリ近郊のデファンス地区の「ラ=グランド=アルシュ」(下図参照)など,(7)古代文明の建造物を現代風にアレンジした建築物が造られた。「ラ=グランド=アルシュ」は,人類を乗せて未来へ旅立つ「大きな箱舟」を意味するとともに,現代の(8)凱旋門として,古代ローマ文明とつながるフランスの歴史の流れをも人々に想起させる。さらに1989年に,革命200周年記念式典の準備を進める会合が,【(9)】で開催され,著名な洞窟壁画の見学会がうやうやしく行われた。その壁画は,フランス最古の「モニュメント」であり,【(9)】は人類の先史文明を象徴する場とされたのである。

問7 下線部(7)に関連して,世界の歴史的な建造物や遺跡について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【7】
(1) インダス文明下のモヘンジョ=ダロ(モエンジョ=ダーロ)では,大浴場(沐浴場)が建設された。
(2) 古代のギリシアでは,ペルセポリスの宮殿(王宮)が建設された。
(3) フランスのシャルトルの大聖堂は,宗教改革を記念して建設が始められた。
(4) ウィーンの聖ソフィア(ハギア=ソフィア)聖堂は,後にイスラム教のモスクに改修された。
問8 下線部(8)について述べた次の文章中の空欄【ア】【イ】に入れる人の名の組合せとして正しいものを,下の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【8】
 凱旋門は,ローマ市内に今も残る4世紀の【ア】帝のものが有名だが,近代にも国威発揚のため,ヨーロッパ各地で建造された。例えばベルリンのブランデンブルク門は,オーストリア継承戦争を戦った国王【イ】の死後に建設され,強国プロイセンを誇示する代表的な建造物となった。
(1) ア-ユスティニアヌス  イ-フリードリヒ2世
(2) ア-ユスティニアヌス  イ-ヴィルヘルム2世
(3) ア-コンスタンティヌス  イ-フリードリヒ2世
(4) ア-コンスタンティヌス  イ-ヴィルヘルム2世
問9 文章中の空欄【(9)】に入れる地名として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【9】
(1) マチュ=ピチュ
(2) アルタミラ
(3) ラスコー
(4) ネアンデルタール
第2問 国境を越える人の移動の歴史を振り返ると,国境で区切られた一国史には収まらない,世界史のもう一つの顔が明らかになる。近代以降の人の移動について述べた次の文章A~Cを読み,下の問い(問1~9)に答えよ。(配点 25)
A 近代以降の国際的な人の移動の歴史において,アメリカ合衆国は,多種多様な人々を吸引する巨大な磁石のような役割を果たしてきた。例えば,(1)出入国の統計を取り始めて以来,自らの意思で渡米した移民の数は,今日までに5000万人を超えた。これ以外にも,(2)黒人奴隷のようにアフリカから強制的に連れてこられた人々や,出身国における戦乱などの結果,難民として流入する者もいた。地理的にも,ヨーロッパやアフリカだけでなく,(3)カリブ海域・中南米,アジアなどからの人の流れもあった。こうした様々な歴史的背景を持つ人々から構成される国家として,アメリカ合衆国は民族間,人種間の対立・抗争の歴史を乗り越える努力をしつつ,今日の多文化社会を築いてきた。
問1 下線部(1)に関連して,次のグラフと文はそれぞれ,1821年から1920年までの間にアメリカ合衆国に流入した移民の出身地別の数を示したものと,そのグラフから読み取れる傾向について述べたものである。空欄【ア】【イ】に入れる語の組合せとして正しいものを,下の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【10】

□ 【ア】出身の移民
■ 【イ】出身の移民
 移民の流れは,19世紀半ばから後半にかけて多く流入した【ア】出身の人々と,19世紀末から20世紀初頭に大量に流入した【イ】出身の人々に大別できる。
(1) ア-西欧・北欧  イ-東欧・南欧
(2) ア-東欧・南欧  イ-中南米
(3) ア-北欧・南欧  イ-西欧・東欧
(4) ア-東欧・北欧  イ-中南米
問2 下線部(2)に関連して,黒人や奴隷制度について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【11】
(1) 18世紀に,スペインは世界の奴隷貿易を支配していた。
(2) アメリカ合衆国憲法の成立により,奴隷制度の即時廃止が定められた。
(3) トゥサン=ルヴェルチュールに指導された黒人たちにより,ハイチの独立が達成された。
(4) 19世紀のラテンアメリカ諸国の独立は,黒人と白人の混血であるメスティーソが指導した。
問3 下線部(3)に関連して,キューバ危機が起こったときのアメリカ合衆国大統領の名として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【12】
(1) トルーマン
(2) アイゼンハウアー
(3) ケネディ
(4) ジョンソン
B 現在の中国東北部からロシア領極東部に及ぶ地域は,清朝政府にとって,王朝発祥の地という特別な意味を持っていた。そのため,清朝政府は,この地域への入植をしばしば制限したが,18世紀以降,生活の糧を求めて万里の長城以南から移住する人々が増えていった。また,(4)19世紀後半以降は,朝鮮から移り住む人々も目立つようになり,さらには,ロシアの影響も強まった。各地から(5)中国東北地域に移住した人々とその子孫は,その後,この地域への日本の勢力拡張に伴う政治的混乱に巻き込まれることになる。一方,朝鮮から,ロシア領極東部へ移住した人たちは,ソ連の独裁的な指導者となっていた【(6)】の政策によって,1930年代後半に中央アジアに移住させられた。
問4 下線部(4)に関連して,19世紀後半の朝鮮の政治や対外関係について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【13】
(1) 日朝修好条規によって,釜山など3港の開港が決定された。
(2) 甲申政変(事変)は,清の支援によって決行された。
(3) 甲午農民戦争を契機にして,清と日本は朝鮮から全面的に撤兵した。
(4) 日本と第二次日韓協約を締結した。
問5 下線部(5)の地域で起こった出来事について述べた文として誤っているものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【14】
(1) 軍閥の張作霖が爆殺される事件が起こった。
(2) 南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が起こった。
(3) 中国共産党が長征を行い,奉天に根拠地を移した。
(4) リットン調査団が派遣され,調査を行った。
問6 文章中の空欄【(6)】に入れる人の名として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【15】
(1) レーニン
(2) トロツキー
(3) スターリン
(4) フルシチョフ
C 次の文章は,少年期に難民となったある青年の回想である。(奴田原睦明の訳による。引用文は一部書き改め,省略したところがある。)
 1947年までに,(7)ユダヤ人移住者の数は,数百人から幾万人もへと急増しました。彼らはついに(8)私たちの国の総人口の三分の一になり,国土のおよそ7パーセントほどを所有するようになりました。その土地の一部は彼らが購入したものですが,大部分は公用地でイギリス当局からもらいうけたものでした。その次の年に,イギリスは私たちの国から撤退することになりましたが,いずれにしろ,その時すでにイギリスは(9)ユダヤ人の民族的郷土をうち建てるという約束を果たしてしまったのです。私たちが難民となったのは,1948年5月12日でした。それは,祖国で暮らした最後の日となってしまったのです。
問7 下線部(7)に関連して,歴史上「ユダヤ人」として迫害されてきた人々の移住について述べた文として波線部の正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【16】
(1) ヘレニズム諸国を征服したアケメネス朝の支配下で国を追われ,各地に離散した。 (2) 国土回復運動(レコンキスタ)の進んだイベリア半島を追われ,一部はアムステルダムやイスタンブルに移住した。 (3) 19世紀後半,ロシア皇帝アレクサンドル1世の暗殺などをきっかけに,激しい迫害(ポグロム)が起こると,ロシアから大量に出国した。 (4) シオニズムを支持した人々は,ヨーロッパ共同体(EC)が1947年に採択した分割案(分割決議)に基づき,移住先で建国した。
問8 次の地図中の地域a~dのうち,下線部(8)で「私たちの国」と呼ばれている地域を示すものとして最も適当なものを,下の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【17】

(1) a  (2) b  (3) c  (4) d
問9 下線部(9)は,第一次世界大戦中にイギリスが与えた約束の一つである。これに関連して,第一次世界大戦中のイギリスの政策について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【18】
(1) エジプト王国の独立を認めた。
(2) フサイン=マクマホン協定により,ユダヤ人の国家建設を認めた。
(3) フランス及びアメリカ合衆国との間で,オスマン帝国領の分割を約束した。
(4) インドに戦後の自治を約束した。
第3問 統治者や支配階級の劇的交代をもたらす革命においては,それぞれの国の抱えていた問題が一挙に顕在化することが多い。フランス,中国,ロシアの革命について述べた次の文章A~Cを読み,下の問い(問1~9)に答えよ。(配点 25)
A (1)1793年10月,革命裁判所において,王妃マリ=アントワネットは,国費の浪費や,(2)外国との通謀などの件で,起訴された。オーストリアと交戦中のフランス革命政府にとって,敵国出身で浪費癖のあった彼女は旧体制や反革命の象徴となった。既に革命前から多くのパンフレットが彼女の素行や人格を非難しており,国王逃亡事件が彼女の主導で行われたと誇大に伝えられると(下図参照),国民の王妃に対する信頼はさらに失われた。王妃を非難する背景には,革命期の女性の政治参加に対する,共和主義者の男性の反発もあった。彼らは,(3)公的活動を行う女性を悪い母,放蕩ほうとうの妻とみなし,その一例としてマリ=アントワネットを提示したのだった。

国外逃亡を図るルイ16世一家を描いた当時の風刺画
問1 下線部(1)の年に議会の主導権を握ったジャコバン派(山岳派)について述べた文として最も適当なものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【19】
(1) 物価の統制を行った。
(2) 公安委員会を廃止した。
(3) テルミドールの反動(クーデタ)でミラボーを逮捕した。
(4) ロベスピエールを第一統領とする統領政府を組織した。
問2 下線部(2)に関連して,フランス革命・ナポレオン時代の国際関係について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【20】
(1) フランスは,ワーテルローの戦いで,オーストリア・プロイセン軍に勝利した。
(2) イギリスの首相ピットの提唱で,第1回対仏大同盟が結成された。
(3) ロシアは,トラファルガーの海戦で,フランスに敗れた。
(4) 総裁政府の下で,フランスは,アメリカ合衆国との交易を禁止する大陸封鎖令を発した。
問3 下線部(3)に関連して,女性や女性の活動について述べた文として波線部の正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【21】
(1) 1789年10月,女性たちはヴェルサイユに赴き,国王に対し自分たちの要求の実現をせまった。
(2) 1792年9月の国民議会の招集においては,女性には選挙権が与えられず,男性にのみ普通選挙権が与えられた。
(3) エカチェリーナ2世は,『女性と女性市民の権利宣言』(『女性の権利宣言』)を発表した。
(4) マリア=テレジアは,ナポレオンによって皇后の冠を授けられた。
B 革命家孫文は,国際的な視野を持つ人物だった。1911年10月に【ア】において,辛亥革命の口火となる軍隊の蜂起が起こったとき,彼は革命宣言と資金調達のためにアメリカ合衆国に滞在していた。このことは,(4)革命運動が留学生や華僑の支持を受け,国際的な広がりを持っていたことを,背景としていた。革命勃発の報を受けた孫文は,いったんヨーロッパへ向かい,ロンドン・パリを経て帰国している(下図参照)。これは,いち早く革命への(5)列強の支持をとりつけるためだった。革命勢力は,孫文の帰国を待って,1912年初めに,【イ】で新国家たる中華民国を成立させることになる。

辛亥革命時の孫文の帰国ルート(数字は到着の日付を示す)
問4 文章中の空欄【ア】【イ】に入れる都市の名の組合せとして正しいものを,下の(1)~(6)のうちから一つ選べ。【22】
(1) ア-北京  イ-南京
(2) ア-北京  イ-武昌
(3) ア-武昌  イ-北京
(4) ア-武昌  イ-南京
(5) ア-南京  イ-北京
(6) ア-南京  イ-武昌
問5 下線部(4)に関連して,中国の変革を求める運動と外国との関係について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【23】
(1) 変法自強運動(戊戌の変法)は,列強による中国分割への危機感を背景としていた。
(2) 康有為は,東京で中国同盟会を結成し,革命勢力の結集を図った。
(3) 中華民国は,「連ソ・容共・扶助工農」を主な内容とする憲法大綱を発布した。
(4) ワシントン会議に抗議して,北京で五・四運動が起こった。
問6 下線部(5)に関連して,欧米諸国と中国の関係について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【24】
(1) アメリカ合衆国は,モンロー宣言によって,中国での門戸開放と機会均等を求めた。
(2) イギリスは,列強の権益獲得競争の中で,威海衛を租借地とした。
(3) フランスは,貿易の拡大を求めて,マカートニーを中国に派遣した。
(4) ロシアは,ドイツ・オーストリアとともに,日本が獲得した遼東半島を清に返還させた。
C 次の文章は,1917年にロシアで起こった十一月(ロシア暦十月)革命を現地で目撃したジョン=リードが,その様子を記した『世界をゆるがした十日間』の一節である。(原光雄訳による。引用文は一部書き改めたところがある。)
 広大なロシアは解体の状態にあった。早くも(6)1905年にその過程ははじまっていた。(7)三月(ロシア暦二月)革命はたんにそれを促進しただけで,新秩序の一種の予報を出しつつも,旧秩序の空虚な建物をただ永存させることをもって終了してしまった。しかし,いまや(8)ボリシェヴィキが,煙霧をふきとばすように,一夜にしてそれを四散させてしまった。ふるいロシアはもはや存在しなかった。人間社会は原始熱のなかでけてながれ,波立ちさわぐほのおの海から,階級闘争が決然と無慈悲に出現しつつあった。
問7 下線部(6)の年にロシアで起こった出来事について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【25】
(1) デカブリストの反乱が起こった。
(2) 「血の日曜日」事件が起こった。
(3) 日本が革命に干渉した結果,日露戦争が起こった。
(4) ケレンスキーを首班とする臨時政府が組織された。
問8 下線部(7)に関連して,世界各地の革命や政権交代について述べた文として誤っているものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【26】
(1) キューバでは,カストロらの指導の下,革命が起こった。
(2) フィリピンでは,マルコス政権が打倒され,アキノ政権が樹立された。
(3) ソ連では,1991年のクーデタによって,エリツィン政権が打倒された。
(4) ルーマニアでは,1989年に,チャウシェスク政権が打倒された。
問9 下線部(8)の政党について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【27】
(1) コミンテルンの指導の下,ロシアの政権獲得に成功した。
(2) ロシアの政権を獲得すると同時に,農業の集団化を開始した。
(3) ロシアの政権を獲得すると,ドイツと単独講和を結んだ。
(4) ロシアの政権を獲得すると,国際連盟設立の中心となった。
第4問 経済政策は,人々の生活に密接にかかわる。そのため,経済政策をめぐって,歴史上様々な利害の対立と調整がみられた。経済政策の歴史について述べた次の文章A~Cを読み,下の問い(問1~9)に答えよ。(配点 25)
A 17・18世紀のヨーロッパ諸国は,高率関税によって輸入を統制するなど,(1)重商主義的な貿易政策を採っていた。しかし,産業革命の進行を背景に,まずイギリスで,(2)重商主義を批判し,自由貿易を求める動きが強まり,19世紀半ばまでに,自由貿易政策が実施されるようになった。さらに,(3)イギリスはインドや中国などのアジア諸地域にも,これらの地域にとっては不利な自由貿易の受け入れを強いた。また,他の多くのヨーロッパ諸国も同様に自由貿易政策を採るようになった。こうしてイギリスを中心とする国際的な自由貿易体制が成立したのである。
問1 下線部(1)について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【28】
(1) オランダは,18世紀に東インド会社を設立した。
(2) イギリスの航海法廃止をきっかけに,英蘭戦争が起こった。
(3) プロイセンでは,コルベールが重商主義政策を実施した。
(4) イギリス本国は,北アメリカ植民地の茶貿易に関して,茶法を制定した。
問2 下線部(2)に関連して,重商主義批判や自由貿易政策について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【29】
(1) イギリスのアダム=スミスは,『資本論』を著した。
(2) フランスのベンサムは,自由放任主義を主張した。
(3) イギリスでは,19世紀に,地主の利益を保護する穀物法が廃止された。
(4) 18世紀後半に,ドイツ関税同盟が結成された。
問3 下線部(3)に関連して,19世紀のアジアにおけるイギリスの政策について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【30】
(1) イギリス東インド会社を解散した。
(2) アロー戦争(第2次アヘン戦争)に勝利した結果,清と南京条約を結んだ。
(3) ペリーを派遣し,日本に開国を要求した。
(4) ヴェトナムとサイゴン条約を結んだ。
B (4)1929年に勃発した世界恐慌に対応するために,欧米の資本主義諸国は,従来の自由主義的経済政策からの転換を図ったが,その転換過程は,試行錯誤の連続であった。まず,経済政策において国家が果たす役割には,諸国の間に違いがあった。アメリカ合衆国のニューディール政策では,市場の自動調節機能の作用を前提としつつ国家が経済に介入したのに対し,ナチス=ドイツでは,国家による強力な経済統制が行われた。また,各国の経済政策の決定・実施過程は,恐慌による混乱を背景に台頭してきた(5)ファシズムの問題が絡み,複雑な様相を呈した。さらに,(6)諸国は,経済的に深く関連していたにもかかわらず,恐慌対策において国際協調をうまく図ることはできなかった。
問4 下線部(4)への欧米諸国の対策について述べた文として誤っているものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【31】
(1) イギリスが,金本位制を停止した。
(2) フランスが,オタワ会議を主宰した。
(3) ニューディール政策では,農産物の生産調整と価格安定が図られた。
(4) ナチス=ドイツが,公共事業や軍需生産によって失業の解消を図った。
問5 下線部(5)に関連して,1930年代のヨーロッパ諸国の政治情勢について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【32】
(1) コミンフォルムの方針転換により,スペインの人民戦線内閣が成立した。
(2) イギリスでは,ロイド=ジョージが,挙国一致内閣を組織した。
(3) ドイツでは,ヒトラーがミュンヘン一揆を起こした。
(4) フランスでは,ブルムを首班とする人民戦線内閣が成立した。
問6 下線部(6)に関連して,二つの世界大戦の戦間期における,欧米諸国の経済関係について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【33】
(1) イギリス軍によるルール地方占領が,ドイツ経済を混乱させた。
(2) フーヴァー=モラトリアムが,宣言された。
(3) ナチス=ドイツが,ドーズ案を提示した。
(4) ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)が,解散した。
C (7)ヴェトナム戦争が激化していた最中に結成された(8)ASEAN(東南アジア諸国連合)は,当初東南アジアにおける社会主義勢力に対抗することを目的とした。その後,1970年代に入ると,ASEANは,域内の政治・経済的結束の強化をも図り始めた。とりわけ,(9)1980年代に,モノやカネの動きが地球的規模で加速するという新しい世界経済の動きが顕著になり,東西冷戦が終結すると,この傾向が一層強まった。そのため,1980年代後半以降に市場経済の導入に積極的となったヴェトナム社会主義共和国も,1995年にASEANへの加盟が認められた。
問7 下線部(7)の戦争について述べた文として誤っているものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【34】
(1) パリ和平協定(ヴェトナム和平協定)により,アメリカ軍はヴェトナムから撤退した。
(2) ヴェトナム民主共和国は,ソ連や中華人民共和国の支援を受けた。
(3) ヴェトナム戦争に反対してアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開催された。
(4) トンキン湾事件の後に,アメリカ合衆国は北爆を開始した。
問8 下線部(8)の連合に結成当初から加わっていた国の名として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【35】
(1) ビルマ(ミャンマー)
(2) マレーシア
(3) ラオス
(4) カンボジア
問9 下線部(9)の時期に展開された経済政策について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【36】
(1) ソ連では,ゴルバチョフによって経済の建て直しが図られた。
(2) アラブの産油国が,アラブ石油輸出国機構(OAPEC)を設立した。
(3) ヨーロッパ共同体(EC)諸国が,通貨統合を目指すワルシャワ条約に調印した。
(4) 中華人民共和国では,自由市場経済を認める大躍進政策が採られた。