2005年度 センター試験【日本史B(追試)】問題
(解答番号【1】~【36】)
第1問 古代から近代までの食生活と食材の生産に関するA~Cの文章を読み,下の問い(問1~6)に答えよ。(配点 17)
A
平城京には東西に官営の市が設けられ,地方から運ばれてくる米・
鰹・ワカメ・
鮑(・塩などの産物や,官人の禄として支給される布や糸などが交換された。そこでの交易は,価格の公定,度量衡の管理など,
【ア】の監督の下に置かれた。
当時の食事は,下級官人の場合,玄米の主食に野菜・海草の一菜か二菜が普通であった。
(a)中世には,米をはじめとする農産物が増加し,食材も増えた。吉田兼好が著した『【イ】』には,北条時頼が
(を肴(に酒を飲んだという話もある。また,紀伊国隅田(荘で1512年に行われた地方武士の饗宴(の献立によれば,「塩引・鮑塩・焼物・湯漬・干鯛(・蒲鉾(」などが供されていたことがわかる。
問1 空欄【ア】【イ】に入る語句の組合せとして正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【1】
(1) ア 市 司 イ 方丈記
(2) ア 市 司
イ 徒然草
(3) ア 式部省
イ 方丈記
(4) ア 式部省
イ 徒然草
問2 下線部(a)に関連して,中世の食料生産に関して述べた次の文X~Zについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【2】
(1) X 正 Y 正 Z 誤
(2) X 正 Y 誤 Z 正
(3) X 誤 Y 正 Z 誤
(4) X 誤 Y 誤 Z 正
問3 空欄【ウ】【エ】に入る語句の組合せとして正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【3】
(1) ウ 分地制限令
エ 節 句
(2) ウ 分地制限令
エ 盂蘭盆会
(3) ウ 田畑勝手作の禁令 エ 節 句
(4) ウ 田畑勝手作の禁令
エ 盂蘭盆会
問4 下線部(b)に関して,近世の開発や農業・漁業について述べた文として謝っているものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【4】
C 近代になると,(C)
殖産興業政策の一環として明治政府は農業の振興にも力を尽くした。洋式農業の導入の試みはほとんど失敗に終わったが,品種改良や金肥の使用などによって生産力の増加がはかられた。
農村における日常の食生活は,穀物・野菜・

・
醤油(など自給品が中心だったが,商品経済が広まるとともに食料の購入も少しずつ増加した。一方,都市では明治期の後半になると飲食店の数が急増し,洋食を提供する店も珍しくなくなった。
産業革命期には機械制生産により工業の急速な発展がみられたが,農業生産の伸びは工業と比べ立ち遅れた。(d)
農家の多くは零細経営であり,農村では地主制が拡大し,多くの小作農は地主に高い小作料を納めなければならなかった。
問5 下線部(c)に関連して,1870年代末までに起こった出来事について述べた文として誤っているものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【5】
問6 下線部(d)に関連して,明治期の農村について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【6】
第2問 古代における人の一生に関するA・Bの文章を読み,下の問い(問1~6)に答えよ。(配点 17)
A 出雲
真土売(は良民の女性で,691年,おそらく
山背(国
愛宕(評(現在の京都市)の有力氏族の家に生まれた。(a)
彼女は,数え年で5歳か6歳のとき,はじめて戸籍に登録され,そののち口分田を与えられたと考えられる。
真土売は10代で結婚した。夫となったのは同族の出雲
川内(で,彼にとっては再婚だったらしく,年齢は21歳離れていた。726年の史料によれば,2人には何人もの子供が生まれ,また川内は戸主になっていた。
真土売の村には,都に働きに出る人々もいたが,この夫婦はそうせず,農業を主な生業としていた。春の田打ち,(b)
夏の種まき,秋の収穫,冬の納税という毎年くり返される作業に,真土売も深くかかわったことだろう。
(c)
真土売がいつ亡くなり,どのように葬られたかはわからない。やがて都がすぐ近くに
遷(ってくると,子孫たちの生活は大きく変化することになった。
問1 下線部(a)について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【7】
(1) この戸籍は,
庚寅年籍とよばれる。
(2) こののち真土売は,毎年新しい
戸籍に登録された。
(3) 律令制の原則によれば,真土売には
口分田1段120歩が与えられる。
(4) 律令制の原則によれば,真土売には
口分田2段が与えられる。
問2 下線部(b)について述べた文として誤っているものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【8】
問3 下線部(c)に関して,真土売の時代の死や葬儀について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【9】
B
後三条天皇は1034年に生まれた。父は後朱雀天皇,母は
禎子(内親王である。彼は12歳で皇太子となり,1068年にようやく即位した。ながらく天皇になれなかったのは,母が藤原摂関家の出身でなかったためである。
(d)
かつて倭国の大王(天皇)には成人の王族が就任し,死ぬまでその地位にあった。この慣例は,皇極天皇が孝徳天皇に生前譲位したことで破られ,律令国家の
【ア】の制度に受け継がれたが,天皇にはやはり執政能力が求められた。しかし,9世紀半ばになると幼年の天皇が出現し,それ以降は,たとえ成人であっても,天皇は摂関の意向を重んじるのが習いとなっていた。
(e)
即位した後三条は,摂関家の干渉を排して,さまざまな政策を展開した。ところが,彼は5年足らずで退位する。それは病気のためとも,思いどおりの皇位継承を実現するためともいわれる。1073年,後三条は死去した。
彼の長男が,8歳の【イ】天皇に譲位して院政をはじめたのは,その13年後のことである。
問4 空欄【ア】【イ】に入る語句の組合せとして正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【10】
(1) ア 法 王
イ 堀 河
(2) ア 法 王
イ 後一条
(3) ア 上 皇
イ 堀 河
(4) ア 上 皇
イ 後一条
問5 下線部(d)に関して述べた次の文I~IIIについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,下の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【11】
(1) I-II-III
(2) I-III-II
(3) II-I-III
(4) III-I-II
問6 下線部(e)について述べた文として正しいものを,次の
(1)~(4)のうちから一つ選べ。
【12】
第3問 中世の政治・宗教・外交に関するA・Bの文章を読み,下の問い(問1~6)に答えよ。(配点 17)
A 鎌倉時代に出現した新仏教のなかで,幕府の指導者たちに受け入れられたのが禅宗である。臨済宗の開祖
栄西は,12世紀末ころ,宋に渡り本格的に禅宗を日本にもたらし,『
【ア】』を著した。また,
【イ】のように,幕府に招かれて中国から来日した禅僧もいた。
しかし一方で,鎌倉幕府は旧仏教とも密接な関係を有していた。また朝廷の貴族たちも,(a)
鎌倉幕府の支配力が強まるにつれて政治力や経済力を弱めていったとはいえ,依然として旧仏教の有力な擁護者であった。さらに,(b)
幕府の成立や新仏教の広がりは,旧仏教の側にも新たな動きを引き起こした。
問1 空欄【ア】【イ】に入る語句の組合せとして正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【13】
(1) ア 興禅護国論 イ 蘭渓道隆
(2) ア 興禅護国論
イ 義堂周信
(3) ア 立正安国論
イ 蘭渓道隆
(4) ア 立正安国論
イ 義堂周信
問2 下線部(a)について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【14】
問3 下線部(b)に関連して述べた次の文X~Zについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【15】
X
慈円は,『禁秘抄』を著して道理による歴史解釈を試みた。
Y
忍性は,貧困や難病で苦しんでいる人々のために救済事業を行った。
Z
高弁(明恵)は,華厳宗を学んで旧仏教の復興に尽力した。
(1) X 正 Y 正 Z 誤
(2) X 正 Y 誤 Z 誤
(3) X 誤 Y 正 Z 正
(4) X 誤 Y 誤 Z 正
B 南北朝の動乱のなかで,九州では1361年南朝方が大宰府を奪取し,以後10余年にわたり勢力を保っていた。(c)
南朝方は明とも交流があり,室町幕府は外交権の掌握のためにも,九州の南朝方を制圧する必要があった。1372年に至って,
九州探題が大宰府を陥落させ,これにより九州では,幕府の勢力が強まった。そして1392年,足利義満は南朝の
【ウ】天皇によびかけて
南北朝の合体を実現し,内乱に終止符を打った。
明との国交を開いた義満の下,禅僧は幕府の外交の顧問として活躍し,禅宗と幕府の関係はさらに密接になった。南宋の官寺の制に倣った
【エ】の制が整えられたのも義満の時代である。このような幕府との関係を背景に,(d)
禅宗はさらに興隆し,室町文化にも大きな影響をおよぼした。
問4 空欄【ウ】【エ】に入る語句の組合せとして正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【16】
問5 下線部(c)に関連して述べた次の文I~IIIについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,下の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【17】
(1) I-II-III
(2) I-III-II
(3) III-I-II
(4) III-II-I
問6 下線部(d)について述べた文として誤っているものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【18】
(1) 『瓢鮎図』は,禅宗の思想を表現した水墨画である。
(2) 鹿苑寺金閣は,寝殿造と禅宗様を折衷している。
(3) 禅僧の間で流行した漢詩文が

にまとめられた。
(4) 大徳寺大仙院庭園は,枯山水の様式で造られている。
第4問 近世の政治・社会や文化に関するA・Bの文章を読み,下の問い(問1~6)に答えよ。(資料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 17)
A 幕府政治は,国内では,17世紀半ば以降,これまでの強圧的な武断政治から,
儒教的徳治主義にもとづく文治政治へ転換していった。(a)
この時期諸藩では,いわゆる名君が儒学者を顧問にして藩政の改革を進めた。一方で,幕府は
【ア】を緩和して大名家の断絶を減らし,牢人(浪人)の増加を防いだ。また,主君の死に際して,
【イ】を禁じた。これは家臣が,主君個人よりも,主君の家に奉公するように改めたものである。
対外的には,17世紀初頭にはさかんに貿易が行われたが,キリスト教への警戒などから,しだいに日本人の海外進出や貿易を制限する政策が実施された。また,朝鮮などとの(b)
外交関係もしだいに整えられた。その結果,国内外ともに幕府の政治基盤は安定し,幕藩体制が強化された。
問1 空欄【ア】【イ】に入る語句の組合せとして正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ,【19】
(1) ア 上げ米
イ 家臣の殉死
(2) ア 上げ米
イ 家臣からの人質(証人)
(3) ア 末期養子の禁 イ 家臣の殉死
(4) ア 末期養子の禁
イ 家臣からの人質(証人)
問2 下線部(a)に関連して,藩主とその顧問儒学者の組合せとして正しいものを次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【20】
(1) 藩主:池田光政,儒学者:熊沢蕃山
(2) 藩主:池田光政,儒学者:藤田東湖
(3) 藩主:徳川光圀,儒学者:熊沢蕃山
(4) 藩主:徳川光圀,儒学者:藤田東湖
問3 下線部(b)に関連して,17~18世紀の対外関係について述べた文として誤っているものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【21】
B 幕藩体制が確立して社会が安定すると,文化は新たな展開をみせた。(c)古典や自然科学の研究では実証的,合理的な探求がなされ,美術や芸能では現実的で華麗なものが現れた。とくに,17世紀後半には,豊かな経済力を背景とした上方の町人らを中心とする文化が開花した。
18世紀後半から19世紀初めになると,文化の中心はしだいに上方から江戸へ移っていった。都市生活が多様化し,新しい知識や技法などが取り入れられて,学問・文芸・(d)絵画などの各分野で,多種多様な成果が現れた。(e)政治や社会の出来事を題材としたもののなかには,風俗を乱すとして幕府の厳しい統制を受け,一時的に衰退するものもあった。
問4 下線部(c)に関して,江戸時代の学問について述べた文として誤っているものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【22】
問5 下線部(d)に関連して,次の甲・乙に関して述べた文a~dについて,正しいものの組合せを,下の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【23】
(1) a・c
(2) a・d
(3) b・c
(4) b・d
問6 下線部(e)に関連して,江戸時代中期以降に起こった出来事に関して述べた次の文a~dについて,正しいものの組合せを,下の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【24】
(1) a・c
(2) a・d
(3) b・c
(4) b・d
第5問 幕末から近代にかけて活動した人物に関するA~Cの文章を読み,下の問い(問1~8)に答えよ。(配点 21)
A
仮名垣魯文は,1829年,江戸の魚屋の長男として生まれた。彼は,1855年に起こった大地震に際して,ルポルタージュ『安政見聞誌』を執筆し,戯作者として頭角を現した。さらに(a)
開港後に流れ込んできた外国の情報や風俗を作中に取り入れて,幕末戯作界に新風を吹き込んだ。
明治と改元されると,魯文は文明開化の新風俗を巧みに盛り込んだ『【ア】』などの代表作を発表して,戯作文学の健在を示した。一方,明治政府が(b)
神道の国教化をはかる政策を打ち出すと,彼は政府の政策に忠誠を示すことを誓う文章を提出し,民衆教化のための活動を行った。
問1 空欄【ア】に入る作品名として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【25】
(1) 学問のすゝめ
(2) 安愚楽鍋
(3) 破 戒
(4) 小説神髄
問2 下線部(a)に関連して,この時期に外国とのかかわりによって生じた事柄を述べた文として誤っているものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【26】
問3 下線部(b)に関して,明治政府が行った政策を述べた次の文X~Zについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【27】
(1) X 正 Y 正 Z 誤
(2) X 正 Y 誤 Z 誤
(3) X 誤 Y 正 Z 正
(4) X 誤 Y 誤 Z 正
B 高橋由一は,幕末に洋学の教育機関として幕府によって設立された
【イ】内の画学局に入学し,洋画を学んだ。明治になると,高橋は私塾を開いて洋画法を教授するかたわら,写実的な洋画作品を精力的に制作し,(c)
日本近代洋画の開拓者となった。
また高橋は,明治になって新しく作られた道路や橋,トンネルなどの土木事業を描いた作品も数多く残している。それらは,
山形県令,福島県令などを歴任した【ウ】の依頼を受けて,その業績を描いたものであった。
【ウ】は,産業の育成と地域振興をめざして,道路開発を積極的に推進した。しかし,地域住民に重い負担を強いるその強引な方策は,福島事件の原因ともなり,(d)
自由民権運動を激化させた。
問4 空欄【イ】【ウ】に入る語句の組合せとして正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【28】
(1) イ 東京美術学校
ウ 三島通庸
(2) イ 東京美術学校
ウ 大井憲太郎
(3) イ 蕃書調所 ウ 三島通庸
(4) イ 蕃書調所
ウ 大井憲太郎
問5 下線部(C)に関して,次に掲げた明治期の洋画について述べた文として正しいものを,下の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【29】
(1) この絵を描いた
狩野芳崖には,ほかに『悲母観音』という代表作がある。
(2) この絵を描いた狩野芳崖は,印象派(外光派)の画風を伝えた。
(3) この絵を描いた
黒田清輝には,ほかに『悲母観音』という代表作がある。
(4) この絵を描いた黒田清輝は,印象派(外光派)の画風を伝えた。
問6 下線部(d)に関して述べた文として誤っているものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【30】
C (e)
近代の民衆芸能の一つである演歌は,1880年代後半に民権運動家たちの間で発達し,庶民の生活や世相を巧みに歌に織り込んで普及した。
明治から大正にかけて演歌師として活躍した人物に,
添田
坊(がいる。彼は,1890年ころから街頭で政府批判や時事問題を扱った歌を歌いはじめ,(f)
日露戦争後には社会主義的な立場から世相を描く演歌を作った。それは「ああ金の世や金の世や 地獄の
沙汰(も金次第」といったものであった。
問7 下線部(e)に関連して,近代の芸能や娯楽に関して述べた次の文X~Zについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【31】
(1) X 正 Y 正 Z 誤
(2) X 正 Y 誤 Z 正
(3) X 誤 Y 正 Z 正
(4) X 誤 Y 誤 Z 誤
問8 下線部(f)に関連して,日露戦争後から大正期にかけての思想・文化について述べた文として誤っているものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【32】
第6問 近現代の政治と社会に関するA・Bの文章を読み,下の問い(問1~4)に答えよ。(配点 11)
A 第一次世界大戦後には労働・農民運動が発展した。これにともない普選運動も高揚し,労働者・農民の利益を代表する無産政党の結成準備が進められた。その結果,1926年には
【ア】などの無産政党が結成され,第1回普通選挙では無産政党からの当選者が出た。社会運動の激化や無産政党の議会進出に,政府は対決姿勢を示した。1928年には,日本共産党員などが一斉に検挙される
【イ】が起こった。
第二次世界大戦後,労働者の権利を保障する法律が制定されると,(a)
労働運動は空前の盛り上がりをみせた。しかし,当初は労働組合結成を奨励していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は,やがて労働運動を抑制するようになった。
問1 空欄【ア】【イ】に入る語句の組合せとして正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【33】
(1) ア 労働農民党 イ 三・一五事件
(2) ア 労働農民党
イ 虎の門事件
(3) ア 日本協同党
イ 三・一五事件
(4) ア 日本協同党
イ 虎の門事件
問2 下線部(a)に関連して,第二次世界大戦後の労働運動に関して述べた次の文X~Zについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【34】
(1) X 正 Y 正 Z 誤
(2) X 正 Y 誤 Z 誤
(3) X 誤 Y 正 Z 正
(4) X 誤 Y 誤 Z 正
B 政党・財界の要人へのテロやクーデタ未遂事件があいつぐなかで,1930年代初頭には,政党内閣の時代が
終焉(した。その後,1930年代半ばから軍部の発言力が著しく増大し,(b)
日中戦争がはじまると,戦争遂行・軍需生産が最優先され,国民生活に対する統制が強化された。
第二次世界大戦が終わると,軍国主義の一掃がはかられ,政党政治が復活した。しかしその後,冷戦の本格化にともない,いわゆる「逆コース」の動きが顕著となり,革新政党の危機感が高まった。一方,1955年には保守政党が合同し,
(c)自由民主党が結成されるに至った。
問3 下線部(b)に関連して,日中戦争開始から日本の敗戦までの時期に起こった出来事について述べた文として誤っているものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【35】
問4 下線部(c)について述べた文として正しいものを,次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。【36】
(1) この政党の初代総裁には,
鳩山一郎が就任した。
(2) この政党は,自由党と社会民主党が合同して結成された。
(3) この政党と日本共産党の二大政党を中心に,保守・革新の対立が続いた。
(4) この政党は,1970年代に野党となったことがある。