2005年度 センター試験【日本史B(追試)】解説
第1問 古代から近代までの食生活と食材の生産に関する問題
A 古代・中世の民衆の生活
問1「市司と徒然草」(正文組合せ択一) 1 正解は(2)
p.64 「京内は、 おもに貴族や官人たちの居住区域で、 東市・西市がおかれ、市司の管理のもとに各地の産物が取引された。」
p.89 「食生活は比較的簡素で、 朝・夕2食、年貢として上納された米を蒸し飯(強飯)として常食した。家畜である牛馬の肉は食べなかったが、猪鹿の獣肉は好まれた。しかし平安末になるとケガレ観が獣肉にまでおよんで、貴族の食膳からしだいに遠ざけられた。」
p.120 「鎌倉末にでた吉田兼好も無常観をもとに『徒然草』をあらわした。 」

東・西の官営の市の交易の監督とあるところから市司が念頭に浮かび上がり、吉田兼好とくれば『徒然草』が自然に出てこなければならない。
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問2「中世の食料生産」(正誤文の組合せ) 2 正解は(2)
p.138 「灌漑・排水の技術も改良され、乾田化がおこなわれて、関東地方にも二毛作がひろまっていった。……肥料として刈敷・下肥・草木灰が使われて、近郊野菜の栽培もおこなわれた。」
p.192 「農業技術の改良もすすみ、 深耕に適した鍬(とくに備中鍬)、脱穀用の千歯扱、選別具のなどの農具が普及し、竜骨車・踏車などの灌漑具も使用された。」

二毛作の普及、下肥の使用は中世の農業生産力の向上を招来したが、千歯扱の普及は近世の農業技術の発展に関係するものである。
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B 近世における耕地の拡大と農業技術の進歩に伴う農業生産力の向上
p.191 「近世になると、前代にくらべて治水・灌漑技術が飛躍的に高まり、大規模な耕地開発が可能になった。」
問3「田畑勝手作の禁令と節句」(正文組合せ択一) 3 正解は(3)
p.176の注(1) 「飢饉時などには、商品作物の作付けを制限することもあった(田畑勝手作りの禁)」

五穀以外の栽培を制限したとあることから田畑勝手作りの禁令が、端午や七夕(教科書に記載はないが)とあることから節句が当然思い浮かんでくる。」
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問4「近世の開発や農業」(誤文択一) 4 正解は(1)
p.211 「(意次は)新田開発にも力を入れ、利根川水系の印旛沼・手賀沼の干拓にも着手したが、完成にはいたらなかった。」
p.191の注(4) 「(前略)このほか、箱根芦ノ湖の水をトンネルで富士山麓にひくために開削された箱根用水が知られる。」
p.194 「多数の漁夫を雇用しておこなう地引網・船引網・定置網などの大規模漁業が増えた。」
p.192 「農業技術の改良もすすみ、深耕に適した鍬(とくに備中鍬)、脱穀用の千歯扱、選別具のなどの農具が普及し、……」

印旛沼・手賀沼の干拓事業に着手したのは、柳沢吉保ではなくて田沼意次であることがわかれば簡単である。
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C 明治政府による農業振興策と地主制の拡大
問5「1870年代末までに起こった出来事」(誤文択一) 5 正解は(4)
p.248 「北海道開拓では1869(明治2)年に設置された開拓使が官営工場の設立や炭鉱・鉄道建設をおこなうとともに、アメリカ式大農場の移植をはかり、札幌農学校を設立した。 」
ナシ(旧版p.237 「政府が1877年に東京でひらいた第1回内国勧業博覧会で産業技術の発展に寄与した。 」)
p.247渋沢栄一が中心となって国立銀行条例を制定し、 民間の資本で兌換紙幣を発行させようとしたが、 うまく機能しなかった。 」
p.284 「海運では1885年に半民半官の日本郵政会社を成立し、国内航路をおさえた。同社はその後、航海奨励法(1896年制定)などの政府の海運保護政策もあって、 しだいに遠洋航路にのりだしていった。 」

(1)・(2)・(3)は明治政府の殖産興業政策の一環として行われたものであることが解れば、容易に解答できる。
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問6「明治時代の農村」(正文択一) 6 正解は(2)
p.259  「インフレはおさまったが、物価は逆にデフレとなり深刻な不況となった(松方デフレ)。」
p.286 「小作地率は松方デフレ以後も増加し、土地を集積した大地主は農業経営からはなれ寄生地主化した。地主層はその収益を企業に投資したり、みずから企業をおこしたりして資本主義経済とむすびつくようになった。」
p.246 「(地租改正)条例の骨子は、 (中略) (3)地価の3%を地租として金納させる、であった。」
p.283 「綿業は開港以後、輸入品との競争で大打撃をうけたが、紡績業と織物業はしだいに苦境を脱し発展しはじめた。」
p.286 「開港以後、 安価な輸入品のため綿花・菜種・藍などの生産は急速に衰えるいっぽう、生糸輸出の増大により桑の栽培や養蚕は急成長した。」

松方財政の特色とその影響、寄生地主制の進展、幕末から明治期の絹糸紡績業と綿糸紡績業の推移をしっかりまとめておこう。
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第2問 古代における人の一生に関する問題
A 山背国愛宕評の戸籍
p.58の木簡のキャプション 「(前略)7世紀末まで「郡」ではなく「評」の字が用いられていたことがわかった。」
問1「戸籍と口分田」(正文択一) 7 正解は(3)
p.58 「689年に飛鳥浄御原令が施行され、 太政官を中心とする政治組織、 税制・兵制や班田収授の法なども整備され、690年には庚寅年籍がつくられた。 」
p.61 「人々は戸に編成され、 6年ごとに作成される戸籍に登録された。」
p.61~62 「良民に対しては、 6歳以上の男子に田2段(約24a、1段は360歩)、同じく女子にはその3分の2を、それぞれ目標として口分田として授け、本人が死ぬと6年ごとの班年を待って回収した。これを班田収授法という。」

庚寅年籍が690年に作成されたこと、 戸籍は6年ごとに作成されること、良民の女子の口分田は男子(2段)の2/3、つまり1段120歩であることに留意しよう。
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問2「農業を巡る一年」(誤文択一) 8 正解は(1)
p.35~36 「開田や耕作のさいには木製の鍬、 鋤、 田下駄、 大足などが用いられ、 籾を直播する方法と田植法とがあった。 」
p.50 「村々では、 春は穀物の豊作を神にいのる祈年の祭り、 秋は収穫した新穀を神にささげる新嘗の祭りがおこなわれた。 」
p.62調・庸は青年男子に対して課され、調は絹・麻布または海産物などの郷土の産物をおさめ、庸は1年10日の都での労働(歳役)のかわりに、麻布や米などをおさめさせた。」

田植法は弥生時代後期から見られた(p.36の注(1) 「岡山県百間川遺跡の弥生時代後期の水田で発見された稲株の痕跡の並びかたから、田植えの存在が明らかとなった。」)
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問3「白鳳期の死や葬儀」(正文択一) 9 正解は(4)
p.87 「仏教は摂関時代に貴族社会に本格的に定着した。(中略)仏教を振興しなければ戦乱の世になるという末法思想を説いて、仏教の盛衰によって国家の命運が決まると主張した。」
p.35 「朝鮮南部と共通する支石墓や環濠集落が九州北部にあること、 (後略)」
p.46 「この(大型古墳)内部には長い木棺をおさめ、 銅鏡、 勾玉や管玉などの玉類、 碧玉製腕飾り、鉄製の武器や農工具などを多量に埋葬している。 」
p.58 「この時代(白鳳期)の仏教は朝廷の保護を受けて、 大官大寺(のちの大安寺)・薬師寺などの大寺院が官寺として建立され、それらの寺では国家の安泰をいのることを重要な使命とした。また地方の豪族層が仏教を受けいれ、地方寺院がさかんに建立された。」

仏教が地方に伝播するのは白鳳期以降である。 支石墓は弥生文化、 碧玉製腕飾りは古墳文化、 末法思想は平安中期の国風文化以降に隆盛した。
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B 後三条天皇の一生
p.94 「摂関家を外戚としない後三条天皇が即位し、摂関家に不満をもつ中級貴族(受領層)を結集し、大江匡房らの近臣の補佐をえて親政をおこなった。」
問4「上皇と堀河天皇」(正語組合わせ択一) 10 正解は(3)
p.95 「つぎの白河天皇は、 1086(応徳3)年に堀河天皇に譲位した後も、 上皇として院庁を拠点に政治の実権を行使した。 ここに院政がはじまり、 つづく鳥羽上皇・後白河上皇も院政をおこなった。」

生前譲位した天皇を上皇という。その上皇の執政形態を院政といい、白河上皇がその最初の人物である。
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問5「大和政権期の政治の推移」(古いものから年代順に配列) 11 正解は(2)
p.47 「5世紀になると、濠をめぐらした巨大な古墳が平野部に多くつくられるようになる。なかでも大阪府にある誉田御廟山古墳(現応神陵)や大山陵古墳(現仁徳陵)は、墳丘の長さが400mをこえる最大規模の前方後円墳であり、(後略)」
p.52 「(前略)6世紀の末、大臣の蘇我馬子は大連の物部守屋を滅ぼし、さらに592年、 崇峻天皇を暗殺させて、 権力をますます強大なものとした。 」
p.51 「6世紀前半、大連の大伴金村が対朝鮮政策の失敗によって失脚したあと、欽明天皇のもとで大臣の蘇我稲目と大連の物部尾輿が権力をにぎり、中央集権の強化をはかった。」

倭の五王以後、 大和政権内部では大伴・物部・蘇我氏ら豪族による覇権争いが展開され、その中から蘇我氏が台頭した。
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問6「後三条天皇親政」(正文択一) 12 正解は(1)
p.94 「それとともに(後三条天皇は)公定の枡(宣旨枡)の制定やのちの大田文作成の前提となる耕地の調査などをおこなった。」
p.96 「1028(長元元)年、 房総半島で桓武平氏の一族である平忠常の乱がおこったとき、 清和源氏の源頼信がこれをしずめ、 これ以後源氏は関東地方に影響力をもつようになった。 」
p.98 「清盛は、 安芸国の音戸の瀬戸の開削をおこなって瀬戸内海の航路をととのえ、摂津国の大輪田泊(兵庫港)を修築して日宋貿易をさかんにするなど、積極的な政策もうちだした。」
p.95 「3上皇はともに深く仏教に帰依し、出家して法皇となった。そして莫大な財力を傾けて六勝寺建立など多くの造寺、造仏事業などをおこない、しばしば熊野・高野に参詣した。」

後三条親政の特色は、 延久の荘園整理令の発令、 記録荘園券契所の設置、 宣旨枡の制定にある。
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第3問 中世の政治・宗教・外交に関する問題
A 鎌倉時代の仏教
問1「『興禅護国論』と蘭渓道隆」(正語組合わせ択一) 13 正解は(1)
p.117栄西は入宋してそれ(禅宗)をつたえ、『興禅護国論』をあらわして禅による護国の必要を説いた。(中略)さらに鎌倉幕府は中国から多くの禅僧をまねき、蘭渓道隆は北条時頼の帰依をうけて建長寺をひらき、無学祖元は時宗の保護で円覚寺を建立した。」

『立正安国論』は日蓮の主著、義堂周信は南北朝・室町時代の臨済宗の禅僧で五山文学で有名。
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問2「鎌倉幕府の支配力僧の強化」(正文択一) 14 正答は(4)
p.109 「(前略)北条時房・泰時六波羅探題として京都にとどまり、朝廷を監視し、西国諸国の御家人を統轄するようになった。」 同上 注(2) 「六波羅探題は従来の京都守護の任務をひきつぐとともに、尾張以西(のち三河以西)の西国を管轄し、執権・連署につぐ重職として北条氏が世襲した。」
p.126 「紛争が激化するなか、 幕府は1317(文保元)年、両統から交替で天皇を出す両統迭立の方式を提案し(文保の和談)、翌年大覚寺統の後醍醐天皇が即位した。」
p.109 「(承久の)乱の結果、後鳥羽上皇は隠岐へ流され、土御門・順徳の両上皇も土佐・佐渡に配流された。
p.124 「このとき(文永の役)地頭・御家人ばかりではなく、本所一円地の武士たちも動員する体制が整えられた。」 同上 注(1) 「地頭・御家人がいなくて、幕府の支配権の及ばない荘園。この地の武士たちはもともと御家人ではなかったが、これ以後九州では幕府が非御家人をも支配するようになった。」

京都所司代は江戸幕府の朝廷統制機関である。また、正中の変(1324年)で配流されたのは後醍醐天皇の側近である日野資朝である。
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問3「幕府の成立と新仏教の拡大が旧仏教に及ぼした影響」(正誤文択一) 15 正答は(3)
p.120 「九条家から天台座主となった慈円『愚管抄』のなかで、武家政権の出現にいたる歴史を「道理」の観念でとらえて幕府との協調を訴えた。」
p.117 「真言律宗の西大寺叡尊(思円)と忍性(良観)も、新しい戒律と密教をかかげて、社会の底辺にいた非人や病人などの救済につとめた。」
p.117 「まず貞慶(解脱)と高弁(明恵)はそれぞれ法相宗・華厳宗を革新しながら戒律の尊重を唱え、(後略)」

鎌倉新・旧仏教の諸宗派を一覧表にしてまとめておこう。
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B 南北朝・室町政治・外交・宗教・文化の推移
PⅠ32 「征西将軍懐良親王の活躍でいちじ南朝方に制圧されていた九州も、 九州探題として下向していた今川貞世(了俊)が、1372(応安5)年に大宰府を制してからは北朝の勢力下にはいって安定にむかった。 」
問4「後亀山天皇と五山・十刹の制」(正語組合わせ択一) 16 正解は(4)
p.132 「1392(明徳3)年、 義満の斡旋を受けて、 南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位して、ここに両朝の合体が実現した。」
p.145 「また義満は南宋の官寺の制にならった京都・鎌倉の五山・十刹の制もととのえ、春屋妙葩が禅僧を取り締まる僧録となって禅寺を統制し、住職の任免、寺領の管理にあたった。」

南北朝の合一は足利義満の斡旋で、南朝の後亀山天皇と北朝の後小松天皇との間で神器の授受が交わされた。室町幕府は臨済宗を篤く保護し、鎌倉五山・京都五山を確定し、南禅寺を別格寺院と位置付けた。
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問5 「室町時代の外交」(古いものから年代順に配列) 17 正解は(2)
p.134 「1368年に元を北方に追ってをたてた朱元璋(太祖洪武帝)は、翌年、日本(征西将軍懐良親王)に入貢をうながすとともに倭寇の取り締まりを要求した。」
p.135 「その後は(勘合貿易は)大内氏が実権をにぎり、1551(天文20)年の大内義隆の滅亡まで続けられた。 」
p.136 「ついで中山王の尚巴志は山南・山北を倒し、1429年に琉球王国をたてて都を首里におき、沖縄を統一した。 」

日元貿易・日明(勘合)貿易・日朝貿易・琉球貿易、さらには南蛮貿易の経緯をしっかりまとめておこう。
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問6 「禅宗が室町文化に及ぼした影響」(誤文択一) 18 正解は(3)
p.145のキャプション 「『瓢鮎図』 ひょうたんでなまずをおさえるという禅問答を表現したもの。」
同上 「鹿苑寺金閣 北山山荘は、 義満の死後に鹿苑寺となり、 その後金閣をのこすだけとなっていた。 寝殿造と禅宗様を折衷した様式からなる。 」
p.149 「南北朝時代から公武を問わず、 また庶民のあいだでも連歌がさかんとなった。 二条良基『菟玖波集』は勅撰に準ぜられ、 連歌の規則書『応安新式』ができた。 」
p.147 「寺院や住宅には、 自然の景観をいかした庭園がしつらえられ、 石組と白砂を用いて深山幽谷を含む大自然を表現した枯山水がつくられた。竜安寺・大徳寺大仙院や西芳寺の庭園はその代表的なものである。」

南北朝期の文化、 北山文化、 東山文化からなる室町文化を分野ごとに要領よくまとめておこう。
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第4問 近世の政治・社会や文化に関する問題
A 武断政治~文治政治への転換
p.189 「平和が到来し政権が安定したことにより、幕府政治は、このころ(4代家綱以降)から、武力だけにたよらず儒教をもとに徳をもっておさめることを政治理念とする文治主義的傾向が強まった。」
問1「末期養子の禁の緩和と殉死の禁」(正文組合わせ択一) 19 正解は(3)
p.188 「幕府はこの事件(由井正雪の乱・慶安事件)をきっかけに、 末期養子の禁をゆるめるなど、牢人の増加に歯止めをかけた。また、大名に対しては、人質を出させること(証人の制)をやめ、手伝普請も軽減した。その他、1663(寛文3)年には当時さかんにおこなわれていた殉死を禁じた。 」 

いわゆる「寛文の治」について、その特色と内容をしっかりまとめておこう。
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問2「藩主(名君)と顧問儒学者」(正語組合せ) 20 正解は(1)
p.202 「(陽明学)門下からは岡山の池田光政に仕えた熊沢蕃山(了介)が出た。」

この当時のいわゆる「名君-顧問儒学者」の例としては、保科正之(陸奥会津)-山崎闇斎、徳川光圀(常陸水戸)-朱舜水、前田綱紀(加賀金沢)-木下順庵などがいる。
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問3「17~18世紀の対外関係」(誤文択一) 21 正解は(1)
p.183 「1641(寛永18)年には、 平戸のオランダ商館をポルトガル人の去ったあとの長崎出島に移した。 こうしていわゆる鎖国が完成した。 」
p.180 「1609(慶長14)年、 島津氏は家康の許可を得て琉球を征服したが(琉球征服)、明の冊封は継続されたため、日明両属の形をとることになった。」
p.227 「18世紀のはじめごろ西川如見や新井白石が西洋の知識を紹介したが、 その後徳川吉宗が漢訳洋書の輸入制限をゆるめたことによって、 洋学が本格的に発達するようになった。 」
p.191 「さらに幕府は、 朝鮮通信使の国書に、 それまでの「日本国大君」にかえて「日本国王」と記させ、待遇も簡素化して将軍の権威を高めようとした。」

江戸初期~幕末までの外交の推移を要領よくまとめておこう。
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B 江戸時代の文化の推移
問4「江戸時代の学問」(誤文択一) 22 正解は(3)
p.204注(1) 「江戸前期には、 吉田光由の『塵劫記』などの和算書がひろくよまれた。」
p.204 「天文学では安井算哲(渋川春海)が新しい暦をつくり、(後略)」  同上の注(2) 「(前略)算哲は元の授時暦をもとに自身の観測結果を加えて新暦をつくった。これは貞享暦として採用された。この功績により、算哲は幕府天文方に任ぜられた。」
p.204 「幕府歌学方に任ぜられた北村季吟は『源氏物語』『枕草子』の研究をおこない、 また僧の契沖は『万葉集』の考証により、のちの国学の成立に大きな影響を与えた。」
p.204の注(3)本草学は自然物(動物・植物・鉱物)を人間に役立たせるための学問で、薬物学が中心であったが、のち博物学としても発展した。」

江戸時代の諸学問について、人物とその業績内容をきめ細かくまとめておこう。
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問5「浮世絵版画(図版)」(正文組合せ) 23 正解は(4)
p.205のキャプション 甲: 「『見返り美人図』 菱川師宣の肉筆画。 ふりかえった女性の姿をみごとにとらえている。 」
p.155の扉絵 乙:「喜多川歌麿『婦女人相十品』」

常日頃から図版をしっかり見る習慣を身につけ、代表的作品は脳裏に焼き付けておこう。
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問6「江戸時代中期以降に起こった出来事」(正文組合せ) 24 正解は(2)
p.221 「1843(天保14)年、(水野)忠邦は幕府権力の強化や海防・年貢増収をねらって江戸・大坂周辺を幕府直轄地とする上知令を発した。」
p.208 「(吉宗は)評定所や京都・大坂などに目安箱を設置して民意を反映させるとともに、公事方御定書を編纂して裁判や刑罰の基準を定めた。」
p.228 「1811(文化8)年、幕府は天文方に蛮書和解御用を設け、蘭書の翻訳にあたらせた。」
p.240 「さらに、 1867(慶応3)年の後半には「ええじゃないか」の乱舞がおき、社会情勢は騒然としていった。  同上の注(1) 「伊勢神宮のお札がふったということで、 同年の秋から暮れにかけて、 京都・大坂など各地で発生した民衆の熱狂的な乱舞。 」

目安箱を設置して民意を収集して政治に反映させたのは、8代将軍の吉宗である。蛮書和解御用は幕府の洋書翻訳機関で、その後、洋学所→蕃書調所→洋書調所→開成所→大学南校となった。
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第5問 幕末から近代にかけて活躍した人物に関する問題
A 仮名垣魯文の活動
問1「安愚楽鍋」(正語択一) 25 正解は(2)
p.294の注(1) 「江戸文学の手法を受けつぎ、 仮名垣魯文らが文明開化の風俗を描いた。 」

『学問のすすめ』は福沢諭吉、『破戒』は島崎藤村、『小説神髄』は坪内逍遙の代表作である。
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問2「開港後に外国とのかかわりによって生じた事柄」(誤文択一) 26 正解は(1)
p.233 「1854(嘉永7)年1月、ペリーはふたたび来航し、きびしく回答を求めたので、幕府は、ついに日米和親条約(神奈川条約)に調印した。
p.235 「さらに、 江戸湾に台場(砲台)をきずき、大船建造を解禁し、江戸に講武所や洋学所、長崎に海軍伝習所を設立して洋式兵制の導入をはじめた。」
p.238 「同(1864・元治元)年8月、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊の報復攻撃が長州の下関にくわえられた(四国連合艦隊下関砲撃事件)。」
p.234 「1859(安政6)年、自由貿易が開始されると日本の貿易額は急速に増大した。取り扱い量は横浜が圧倒的に多く、相手国はイギリスが優位をしめた。」

日米和親条約調印の時のアメリカの代表はペリー、日本側はである。パークスは駐日イギリス公使である。
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問3「明治政府の宗教政策」(正誤組合せ択一) 27 正解は(3)
p.254 「1868(明治元)年、祭政一致と神祇官再興を布告するとともに、神仏分離(神仏判然)令を出し、これまで続いてきた神仏習合を否定した。
p.254 「1870年には大教宣布の詔を発し、 さらに伊勢神宮を頂点とする神社制度や皇室行事を中心とする国家の祝祭日を定めた。  同上の注(2) 「1873年には、 皇室中心の行事である新年節・紀元節・天長節を祝日とし、原始祭・神嘗祭などを祭日とした。」
p.254~255 「政府は維新後もキリスト教を禁止し、 信徒に迫害を加えていたが、 欧米諸国からの抗議を受け、 1873年、 キリシタン禁制の高札を撤去した。 」

神仏分離令の発令により、仏教を排撃する廃(排)仏毀釈運動が各地でおき、仏教は大きな打撃を受けた。
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B 高橋由一の活動
問4「蕃書調所と三島通庸」(正語組合せ択一) 28 正解は(3)
p.228の注(1) 「蛮書和解御用は1855(安政2)年に天文方より独立して洋学所、さらに1856(安政3)年に蕃書調所、1862(文久2)年に洋書調所となった。」
p.260 「(前略)民権運動派の拠点であった福島では県令三島通庸が河野広中以下の福島自由党員を逮捕した(福島事件)。」

東京美術学校は1887(明治20)年、フェノロサ・岡倉天心らの尽力により設立され、日本画の再興など近代美術の発展に大きな役割をはたした。当初絵画科は日本画のみ。大井憲太郎は自由党左派の東洋自由党を組織し、大阪事件(1885年)に関与した。
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問5「明治期の洋画」(正文択一) 29 正解は(4)
p.295日本画は文明開化の風潮のもとで衰えていたが、 フェノロサの活躍と東京美術学校長となった岡倉天心らによる日本の伝統美再評価のもとで、活躍の場をえた狩野芳崖と下村観山らにより新たな発展をみせた。」
p.295 「明治中期になると、 フランスから帰国した黒田清輝が印象派の明るい画風(外光派)をもたらし、白馬会を組織した。」

日本画家狩野芳崖の代表作は『悲母観音』、洋画家黒田清輝の代表作は『湖畔』(出題図版)・『読書』などがある。その他の画家・彫刻家の作品なども図版を見てまとめておこう。
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問6「自由民権運動の激化事件」(誤文択一) 30 正解は(1)
p.260自由党は板垣退助を党首として急進的自由主義を主張し、 士族や豪農・商工業者に支持された。」
p.262 「1885(明治18)年 、 大井憲太郎や女流民権家の景山(福田)英子ら旧自由党の左派の一部が、朝鮮の内政改革のための挙兵を計画し、朝鮮に渡ろうとしたところを大阪で逮捕された(大阪事件)。
p.257 「(前略)翌1880年には愛国社を母体に新たに大阪で結成された国会期成同盟が2府22県の署名を集めた請願書を政府に提出するまでになった。 」
p.262 「(前略)第1次伊藤内閣は1887年に保安条例を出し、 民権派を首都から追放するいっぽう、運動の指導者である大隈重信や後藤象二郎を入閣させる譲歩をおこなった。

自由党総裁は板垣退助、立憲改進党総裁は大隈重信、立憲帝政党総裁は福地源一郎である。自由民権運動と政府の対応を丁寧にまとめておこう。
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C 添田坊の活動
問7「近代の芸能や娯楽」(正誤組合せ択一) 31 正解は(2)
p.224 「(前略)幕末から明治にかけ小悪党を主人公とする白浪物で活躍した河竹黙阿弥が有名である。」
p.303 「(前略)明治末にお目見えした映画が、たちまち人気の娯楽となり、レコードやラジオの普及にともなって流行歌もうまれた。」
p.302~303 「文化や情報を伝えるメディアも発達した。 『大阪朝日新聞』など発行部数100万部を越える巨大新聞があらわれ、 『週刊朝日』や『サンデー毎日』などの週刊誌、『キング』などの大衆雑誌、円本などの低価格本が誕生した。」

大正時代の庶民の情報・娯楽の媒体は、新聞・雑誌・円本・映画・ラジオであった。
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問8「日露戦争から大正期にかけての思想・文化」(誤文択一) 32 正解は(4)
p.318~319 「(前略)新しいタイプの民主主義を促進する言論が展開され、黎明会や新人会などの啓蒙団体も生まれた。」
p.318滝田樗陰らの『中央公論』や山本実彦の『改造』、鳥居素川・長谷川如是閑らを擁する『大阪朝日新聞』などを舞台に、その新しいタイプの民主主義を促進する言論が展開され、(後略)」
p.319 「哲学の分野では、 『善の研究』で一躍脚光をあびた西田幾多郎が、個人と社会の新たな結合のあり方をめざして、東洋思想と西洋思想の統一をはかり(後略)」
p.294 「市民的自由が認められない当時(明治期)の状況のなかで、個人の内面の自由を説くロマン主義もひろがった。雑誌『文学界』を創刊した北村透谷らが中心であったが、小説では樋口一葉・らが知られ、詩歌では島崎藤村や与謝野晶子らが作品を残した。」

明治~大正期の思想・文化を分野別に要領よくまとめておこう。
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第6問 近現代の政治と社会に関する問題
A 戦前から戦後期の労働・農民運動の発展
問1「労働農民党と三・一五事件」(正しい組合せ択一) 33 正解は(1)
p.316 「田中内閣はどちらかといえば積極財政政策をとり、 積極外交を展開して、 無産政党運動や社会主義運動に対して三・一五事件をひきおこすなど抑圧的姿勢でのぞんだ。」
p.316の注(1) 「普通選挙法が施行されると無産政党結成の動きが活発化したが、 左派の労働農民党、中間派の日本労農党、 右派の社会民衆党に分裂した。 (中略)最初の普通選挙では、3党あわせて8人の代議士を誕生させることに成功した。」

虎の門事件(1923年)は、 甘粕事件などに憤る無政府主義者難波大助に裕仁親王(のちの昭和天皇)が東京市虎ノ門で狙撃された事件。 日本協同党は1945年12月、 船田中らが結党した戦後の政党で、 協同組合主義、 労使協調を標榜した中間的保守政党。 委員長は山本実彦。
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問2「第二次世界大戦後の労働運動」(正誤の組合せ択一) 34 正解は(3)
p.324 「社会運動では国家社会主義が台頭し、 無産政党の社会大衆党でも軍部に接近する動きがはじまった。 」  同上の注(1) 「1932年7月、全国労農大衆党と社会民衆党とが合同して結成された。」
p.345 「政治的、 市民的自由の抑圧が撤廃され、 労働組合法も制定されて、 労働組合運動が急激に発展し、 (後略)」  同上の注(1) 「1946年、 右派の日本労働組合総同盟(総同盟)と左派の全日本産業別労働組合会議(産別会議)が結成された。
p.346 「1947年には官公庁労働者を中心に数百万人が参加する二・一ゼネストが計画されたが、マッカーサーの命令で中止された。」

明治~戦後期の社会主義・労働運動・市民運動の推移を丁寧にまとめておこう。
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B 政党内閣の終焉から政党内閣の復活へ
問3「日中戦争開始から日本の敗戦までの時期に起こった出来事」(誤文択一) 35 正解は(3)
p.329 「経済統制略年表 1940年6月 国民服制定、砂糖・マッチ切符制実施 」
同 上 「生活必需品が不足し、 配給制・切符制により消費を制限され、インフレーションの進行も加わって、国民生活は圧迫された。」
p.282 「(前略)第2次桂内閣は、1908年に戊申詔書を出し、 国民に勤労と節約を説くとともに地方改良運動をすすめるいっぽう、 (後略)」
p.333 「占領地では軍政と日本語使用強制などの皇民化政策のもとに、 圧制と収奪をおこなった。 」

戦時下の国民生活について、具体的な事例を調べてまとめてみよう。戊申詔書は明治期の国民統合にむけての一つの国家政策である。
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問4「自由民主党の結成」(正文択一) 36 正解は(1)
p.352 「同(1955)年、 日本社会党の統一が実現すると、 これに対抗し、 財界の支援をえて民主・自由両党による保守合同が実現し、自由民主党が結成され(55年体制の成立)、保革対立が激化した。」  同 上の注(2) 「保守合同後、 鳩山内閣は小選挙区制法案・新教育委員会法案などを提出し、野党のはげしい反対にあつたが、新教育委員会法は成立し、教育委員は公選制から任命制にかわった。」

戦後の政党の変遷史を要領よくまとめておこう。
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