2010年度 センター試験【日本史B】解説
第1問 主題学習『歴史の考察』に関する問題(武士の歴史に関するレポートから)(配点 12点)
■ 主題学習『歴史の考察』の中の「歴史の追究」の内の1テーマ
A 古代~近世の武家社会について
→教科書 P.159の3~4行目 「多くの戦国大名は,家臣団の統制と農民支配のために,家法・壁書などといわれた分国法を制定した。」
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問1「源氏の東国における勢力拡大の過程」(古い順に年代配列択一) 1 正解は(2)
→ 教科書 P.102の15~17行目 「1028(長元元)年,房総半島で桓武平氏の一族である平忠常の乱がおこったとき,清和源氏の源頼信がこれをしずめ,これ以後源氏は関東地方に影響力をもつようになった。」
→ 教科書 P.103の28行目~P.104の1行目 「1156(保元元)年, 鳥羽法皇の死をきっかけに,ついに都における合戦にまで発展した。 崇徳上皇と(源)頼長は, 源為義・平忠正らを味方にして政権をにぎろうとしたが,後白河天皇と(藤原)忠通は, 源義朝・平清盛らをまねいてこれをうたせ,合戦は後白河天皇側の勝利に終わった(保元の乱)。」
→ 教科書 P.102の17~19行目 「1051(永承6)年, 陸奥で安倍頼時・貞任らが反乱をおこすと, (源) 頼信の子の頼義と孫の義家は東国の武士をひきいて, 1062(康平5)年これを平定した(前九年合戦)。
point
源氏の東国基盤の形成過程や平氏勢力の伸張過程を略年表にまとめておこう。
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問2「御恩と奉公」(正しいものの組合せ択一) 2 正解は(4)
→ 教科書 P.111の8~9行目 「鎌倉時代の御家人は, 将軍の御恩に対して,幕府の命令に従い, 交替で京都大番役や鎌倉番役をつとめ, また実際の軍役に従うなどの奉公にはげんだ。 」
→ 教科書 P.110の26行目~P.111の3行目 「頼朝は東国御家人たちに,彼らが先祖から受けついできた所領の支配を保証(本領安堵)するとともに,謀叛人などから没収した各地の所領をわけ与えて新恩給与), その地の地頭にした。」
→ 教科書 P.109の14~17行目 「守護は国地頭の権限を縮小されて,もっぱらその国の御家人たちを指揮し,……頼朝が没するころには大番催促と謀叛人・殺害人の逮捕の三つが大犯三カ条とよばれて,守護の最も重要な仕事になっていった。」
point
将軍と御家人との主従関係,守護・地頭・国司のそれぞれの権限をしっかりまとめておこう。
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問3「戦国大名による武士への統制の強化」(正しいものの択一) 3 正解は(3)
→ 教科書 P.179の5~6行目 「幕府の直轄領(天領)は18世紀には約400万石で, 畿内・関東などの 要地に多く,…… 」
→ 教科書 P.146の1~6行目 「(百姓たちは,)近江などの経済的先進地帯にみられるように惣掟(村掟)をつくり,掟にそむく者を村から追放するなどして自検断をおこない,みずから警察権を行使して,彼らの村を守った。」
→ 教科書 P.159の5~7行目 「これら(分国法)は,家臣どうしが勝手に兵を動かす私合戦をきび しく禁止し,喧嘩両成敗を適用して領内の平和を確保するとともに,所領の相続・売買や婚姻などを規制したり,農民の逃散を禁じたりしている。」
→ 教科書 P.169の3~6行目 「(秀吉は)太閤検地とよばれる全国的な土地調査をおこない,土地一区画ごとに,田畑の等級を定め,また新たな基準で面積をはかり,石高を明らかにした。」
point
戦国大名の武士への統制策にはどのようなものがあるか。
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B 中世~近世の武士道の変遷
問4 「鎌倉時代の武家社会」(正しいものの択一) 4 正解は(4)
→ 教科書 P.159の12~14行目 「戦国大名の居城も従来の山城から,交通の便利な平野部へ進出する気配を示し,その周辺に商工業者が集まって北条氏の小田原,朝倉氏の一乗谷,上杉氏の春日山など各地で城下町の形成をみた。」
→ 教科書 P.123の6~7行目 「(鎌倉時代の)困窮した御家人たちはしだいに財産の分割相続を改め, 惣領の単独相続に切りかえていった。」
→ 教科書 P.158の11~12行目 「有力な家臣を寄親とし,多くの寄子を配した寄親・寄子の制度が, 戦国大名の軍事力を形づくった。」
→ 教科書 P.116の14~16行目 「(鎌倉時代の)武士たちのあいだでは,犬追物・笠懸・流鏑馬(騎射 三物)などの武芸を競う習慣が強く,……… ,質素なうちにも力強い生活態度が奨励された。」
point
鎌倉・南北朝・室町・戦国時代のそれぞれの武家社会の特色をしっかりまとめておこう。
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問5「江戸時代の思想・教育」(誤っているものの択一) 5 正解は(1)
→ 教科書 P.211の6~8行目 及び 下注(6) 「近江聖人といわれた中江藤樹は,外面的な規範を重視する朱子学に対し,実践による認識(知行合一)を重んじる陽明学を受容して陽明学派をうちたて,門下からは……熊沢蕃山が出た。」 及び 「蕃山は幕府政治を批判したため下総古河に幽閉され,そこで死んだ。
→ 教科書 P.211の9行目~P.212の3行目 「中国宋代の朱子学も明代の陽明学も, ともに後代の学者の解釈にすぎないとして退け, 直接孔子・孟子の原典にかえろうとする古学派もおこった。 山鹿素行,京都堀川に古義堂を開いた伊藤仁斎とその子東涯,江戸に学塾けん園をひらき,古文辞学を提唱した荻生徂徠らがこの派に属する。」
→ 教科書 P.198の4~7行目 「(綱吉は)江戸の湯島に孔子をまつる大成殿(湯島聖堂)をたて, 林信篤(鳳岡)を大学頭に任じた。」
→ 教科書 P.238の7~8行目 「このころ(18世紀中頃)になると,多くの藩で藩政改革がおこなわれ,人材育成の必要から藩校(藩学)がさかんに設立された。
point
江戸幕府の武断主義から文治主義への政策転換により,朱子学を始めとする諸学問が発達したことに注意する。
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問6「明治時代の思想界の動向」(正誤の組合せとして正しいものの択一) 6 正解は(1)
→ 教科書 P.303の3~8行目及び下注(6) 「明治10年代後半,欧化主義が政府の主導によりさかんになるが,20年代にはこれに反発する思想が登場し, 徳富蘇峰は平民主義の立場から欧化を説き, 三宅雪嶺や陸羯南は日本の自立や日本文化の保存を主張した。」 及び 「1888年に政府の欧化政策に反対して退官して, 以後,新聞『日本』を刊行し,日本の自主独立と国民固有の思想の回復を説く,国民主義を唱えた。
→ 教科書 P.303の下注(7) 「高山樗牛は雑誌『太陽』で日本主義を説いて,帝国主義的進出を主張した。
point
明治政府の欧化主義政策に対して,これに反発する種々の思想が登場した。これらは呼称も類似しており,思想家とその思想内容を丁寧に整理しておこう。
第2問 古代の政治や文化に関する問題(配点 18点)
A 史料(『日本書紀』から)
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問1「大連物部守屋暗殺と二つの寺院の建立」(正しいものの組合せ択一) 7 正解は(4)
→ 教科書 P.54の7~9行目 「6世紀前半,大連の大伴金村が対朝鮮政策の失敗によって失脚したあと, 欽明天皇のもとで大臣の蘇我稲目と大連の物部尾輿が権力をにぎり,中央集権の強化をはかった。」
→ 教科書 P.55の3~6行目 「587年,大臣の蘇我馬子は大連の物部守屋を滅ぼし, さらに592年, 崇峻天皇を暗殺させて, 権力をますます強大なものとした。」
→ 教科書 P.57の1~3行目 「なかでも蘇我氏による飛鳥寺(法興寺),厩戸皇子(聖徳太子)による斑鳩寺(法隆寺),彼の発願と伝えられる四天王寺などは,この時代の代表的な寺院である。」
point
この史料自体は,どの教科書にも掲載されていない。しかし,リード文と史料から,蘇我馬子がある皇子(厩戸皇子=聖徳太子)と共同して有力豪族(大連の物部守屋)を滅ぼすにあたり,それぞれが寺院を建立することを祈願した内容であることが理解できる。
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問2「廐戸皇子の国政」(正しいものの組合せ択一) 8 正解は(1)
→ 教科書 P.55の15~16行目 及び 下注(6) 「厩戸皇子と蘇我馬子は,603年に冠位十二階の制を定め, 功績に応じて冠位を個人に与えた。」 及び 「徳・仁・礼・信・義・智を,それぞれ大小にわけて十二階とし冠の色や飾りで区別した。 これは氏に対して与えられる姓とはちがい, 個人に対して与えられ, それぞれの人物の朝廷における地位を明確に示した。」
→ 教科書 P.45の4~7行目 「『宋書』倭国伝などの中国の史書によると,5世紀はじめからほぼ1世紀のあいだに,倭の5人の王(倭の五王)がつぎつぎに中国の南朝に朝貢し,朝鮮半島南部の支配権をもつことを示す称号をえようとしたという。
→ 教科書 P.42の8~10行目 「日本では2世紀の後半に戦乱がつづいたので,諸国は共同して卑弥呼という女王をたて,邪馬台国を中心とする約30国からなる連合体をつくった。
→ 教科書 P.73の2~5行目 「712(和銅5)年に『古事記』ができた。天武天皇が稗田阿礼に誦み習わせた『帝紀』『旧辞』を,のちに太安万侶(安麻呂)が筆録したものである。
point
「倭国」内の小国の分立から「日本国」が成立するまでの過程を要領よくまとめておこう。
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問3「氏姓制度の変遷」(誤っているものの択一) 9 正解は(4)
→ 教科書 P.47の9~10行目 「臣・連のうちとくに有力な氏の代表者は,大臣・大連に任じられ,国政にあたった。
→ 教科書 P.59の1~3行目 「翌646(大化2)年正月には,改新の詔を出して新政の大綱を示した。 『日本書紀』に記されているおもな内容は,(1)皇族や豪族のもつ私有地(田荘)・私有民(部曲)を廃して公地・公民とし,…… 」
→ 教科書 P.47の16~17行目 「大王家や豪族は, 部民のほかに奴(奴婢)というさらに身分の低い隷属者を所有した。
→ 教科書に記載はないが,史料中の下線部bをよく読めば,これが誤っていると判断できる。
point
改新の詔では,豪族所有の田荘・部曲,皇族所有の屯倉・子代の民の廃止し,公地・公民の原則が提示されている。皇族・豪族・寺院などは奴・土地を所有することが認められていた。
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B 古代の宮(平安京・平安宮)
問4「平安京(宮)での国家儀礼・宗教と治安の維持」(誤っているものの択一) 10 正解は(3)
→ 教科書 P.67の1~3行目 「中央北部には,宮城(大内裏)があり, そのなかに天皇の住居を中心 とする内裏や, 政治の中心である朝堂院や諸官庁などがあった。」 (これは平城京〈宮〉の記述だが, 平安京〈宮〉においても差異はない。)
→ 教科書 P.63の6~8行目 「中央には,神々の祭祀をつかさどる神祇官と,一般の政務を統轄する太政官の二官があり ,太政官には八省が所属して,政務を分担した。」
→ 教科書 P.85の2~3行目 「畿内近国の武士のなかには,宮中の警備をする滝口の武士などになる者もあった。」
→ 教科書 P.78の9~10行目 「京都の治安を維持するために, 検非違使がおかれた。」及び下注(3) 「はじめは左衛門府・右衛門府のなかにおかれ,京内の犯罪人の検挙などにあたったが,やがて検非違使庁として独立の官庁になり,令制の衛門府・弾正台・刑部省・京職の治安維持や裁判に関するしごとを吸収して重要な役所となった。」
→ 教科書 P.79の18~20行目 「空海のもたらした真言密教は,即身成仏が可能であること,また秘密の呪法(加持きとう)を通じて仏の世界に接することができることを説き, 現世利益を願う貴族の欲求にこたえようとした。
point
平安新仏教の特色は,宗派仏教・貴族仏教・山岳仏教にある。奈良仏教・鎌倉仏教とも比較して,しっかりまとめておこう。
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問5「『伴大納言絵巻』(絵画資料)から」(正しいものの組合せ択一) 11 正解は(4)
→ 教科書 P.7の上段の絵画資料。
→ 教科書 P.86の21~22行目 「藤原氏(北家)は,969(安和2)年,醍醐天皇の皇子で左大臣の源高明を失脚させた(安和の変)。
→ 教科書 P.82の下注(2) 「866(貞観8)年,大納言伴善男は左大臣源信をおとしいれる目的で応天門に放火した。しかしこの陰謀は発覚し,善男とその加担者の紀豊城らが流罪となった。
→ 教科書 P.82の5~7行目 「(良房は)応天門の変によって伴・紀などの諸氏が没落したのち正式に摂政となり,藤原氏の政治的地位はますます強まった。」
→ 教科書 朱雀門の屋根については記載なし。しかし,甲の絵画資料から瓦葺きであったことは明白である。
→ 教科書 P.94の上段の挿絵参照。 さらに写真資料甲・乙・丙を参考にする。
point
常日頃から,教科書の挿絵や補助教材としての図録,さらにはそのキャプションを丁寧に見て読む習慣を身につけよう。
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問6「古代の政治機構の変遷」(古い順に年代配列択一) 12 正解は(5)
→ 教科書 P.86の22行目~P.87の1行目 「これ(安和の変)によって藤原氏の政治的地位は安定し,常置されるようになった摂政・関白の地位を独占することになった。
→ 教科書 P.101の14~16行目 「院政のもとで, 上皇の意思を伝える院宣が権威をもち, 摂政・関白の地位も上皇に左右されるようになった。」
→ 教科書 P.78の5~7行目 「嵯峨天皇は,あらかじめ腹心の藤原冬嗣(北家)を蔵人頭に任命して,天皇の命令をすみやかに太政官に伝えさせた。
point
律令体制の変質としての, 蔵人所の設置(810年)→摂関常置(969年)→院政の開始(1086 年)のプロセスとその内容をしっかりまとめておこう。
第3問 中世の文化・政治・社会に関する問題 (配点 18点)
A 鎌倉新仏教と各種の芸術の新傾向について
問1「日蓮宗と禅僧の肖像画(頂相)」(正しいものの組合せ択一) 13 正解は(3)
→ 教科書 P.127の1~3行目 「浄土宗をひらいた法然は, 『選択本願念仏集』をあらわして,南無阿弥陀仏の念仏をとなえること(専修念仏)だけが極楽往生の道であると説いた。」
→ 教科書 P.130の14行目~P.131の1~2行目 「絵画では藤原隆信・信実父子が出て写実的な似絵を描き,禅宗の世界でも高僧の肖像画である頂相が描かれた。」
→ 教科書 P.174の7~9行目 「これら(障壁画)は華麗な色彩, 雄大な構図をもつものが多く,とくに金地に濃い色彩(金碧)の装飾風の画は濃絵といわれて, この時代の特色を示した。 」
→ 教科書 P.127の14~15行目 「日蓮は法華経だけが正しい仏法であると主張し, すべての人は南無妙法蓮華経の題目を唱えることによってのみ救われると説いた。」
point
鎌倉(新・旧)仏教史や絵画史はよく出題されるので, しっかり丁寧にまとめておこう。

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問2「法然が活躍した時期の政治状況」(正しいものの択一) 14 正解は(2)
→ 教科書 P.100の14~17行目 「白河天皇は, 1086(応徳3)年に堀河天皇に譲位した後も, 上皇として院庁を拠点に政治の実権を行使した。 ここに院政がはじまり, つづく鳥羽上皇・後白河上皇も院政をおこなった。 」
→ 教科書 P.107の13~14行目 「北陸道に進出した義仲は, 各地の源氏を指揮しながら, 1183(寿永2)年, 頼朝に先だっていちはやく京都を制圧した。
→ 教科書 P.115の13~16行目 「裁判制度の整備につとめた時頼は,1249(建長元)年に御家人の訴訟を専門に扱う引付を設置し, 評定衆から選ばれた頭人のもとに引付衆を分属させて, 裁判を迅速におこなうこととし, 御家人層の要望にこたえた。 」
→ 教科書 P.121の6~9行目 「幕府(北条時宗)は,九州に所領をもつすべての御家人を各地から動員してこれ(元)をむかえうったが, 火器をともない集団戦を得意とする元・高麗軍のために苦戦をしいられた。」
point
法然(1133~1212)が活躍した時期は, 源平の争乱から鎌倉初期である。 源平の争乱から幕府の滅亡までを略年表にまとめておこう。
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問3「天竺(大仏)様の東大寺南大門」(正しいものの択一) 15 正解は(2)
→ 教科書 P.80の15~18行目 「天台・真言両宗の寺院の多くは山中にたてられ,大和の室生寺のように,伽藍も地形に応じて自由に配置された。
→ 教科書 P.80の左上の写真「室生寺金堂」 及び キャプション
→ 教科書 P.130の4~6行目 「重源は寄付集めの責任者(大勧進)となって東大寺の再建にあたり,宋人陳和卿の協力を得て大陸から新たに大仏様(天竺様)の技法をとりいれた。
→ 教科書 P.131の右上の写真「東大寺南大門」 及び キャプション
→ 教科書 P.92の8~10行目 「藤原道長は阿弥陀堂を中心として壮麗な法成寺(御堂)を創建したし,頼通も平等院鳳凰堂を建立した。
→ 教科書 P.92の左上の写真「平等院鳳凰堂」 及び キャプション
→ 教科書 P.130の10~11行目 「建築では,鎌倉中期に禅宗様(唐様)がもたらされ, 円覚寺舎利殿な どの禅寺の建築に用いられた。
→ 教科書 P.131の左上の写真「円覚寺舎利殿」とキャプション
point
各時代の代表的な建築物を取り上げて,その特徴をまとめておこう。
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B 南北朝・室町時代の政治動向について
問4「綸旨中心主義と『神皇正統記』」(正しいものの択一) 16 正解は(4)
→ 教科書 P.101の14~16行目 「院政のもとで, 上皇の意思を伝える院宣が権威をもち,摂政・関白の地位も上皇に左右されるようになった。」
→ 教科書 P.149の17~19行目 「歴史書では,『増鏡』が源平の争乱から後醍醐天皇までの歴史を公家の立場でとらえ, 『梅松論』は武家の側にたって足利尊氏の活躍を描いた。」
→ 教科書 P.149の19~20行目 「北畠親房は伊勢神道を背景にして,『神皇正統記』をあらわし,天皇の歴史をたどりながら南朝の正統性を訴えた。」
→ 教科書 P.132の10~12行目 及び 下注(2) 「(後醍醐)天皇は綸旨によって所領の安堵をおこない, 天皇の意志をすみずみまでゆきわたらせようとした。 」 及び 「天皇の命令を奉じて蔵人が出す文書。 平安中期からみられるが, 発布の手続きが簡単であったため, しだいに数多く使われるようになり, 南北朝時代にはとくに多く使用された。 」
point
院宣と綸旨, 『梅松論』と『神皇正統記』の差異をしっかり理解しておこう。
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問5「室町時代の戦乱」(古い順に年代配列) 17 正解は(4)
→ 教科書 P.147の14~15行目 「(細川)勝元と(山名)宗全は幕府の実力者であったため, 1467(応仁元)年, 幕府内部を二つにわけた争いに発展していった(応仁の乱)。 」
→ 教科書 P.137の11行目~P.138の1行目 「(足利)義満は, ……,1391(明徳2)年に山陰の山名氏清を一族の内紛に乗じて倒し(明徳の乱),1399(応永6)年に周防の大内義弘を敗死させて(応永の乱), 権力の集中をはかった。 」
→ 教科書 P.147の8~10行目 「1441(嘉吉元)年に(足利)義教は,彼の強硬策に反感をもつ播磨の守護赤松満祐の屋形で謀殺され, 満祐は領国播磨へくだったが,まもなく幕府勢に滅ぼされた(嘉吉の乱)。 」
point
南北朝~室町時代の戦乱の過程を略年表にまとめておこう。
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問6「室町時代の都市」(正しいものの組合せ択一) 18 正解は(1)
→ 教科書 P.160の11~13行目 「堺・平野・博多などの都市は, 戦国大名間の対立を利用しながら都市の独立を保ち,会合衆・年寄・年行司などを選出して,町衆による自治をおこなった。
→ 教科書 P.159の12~14行目 「戦国大名の居城も従来の山城から,交通の便利な平野部へ進出する気配を示し,その周辺に商工業者が集まって北条氏の小田原,朝倉氏の一乗谷,上杉氏の春日山など各地で城下町の形成をみた。
point
室町時代に発達した港町・門前町・寺内町・城下町のほか,自由都市などについて地図と一体化してまとめておこう。
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第4問 近世の政治・社会に関する問題(配点 17点)
A 文治政治(主義)の推進について
問1「4代家綱・5代綱吉の政治」(正しいものの組合せ択一) 19 正解は(1)
→ 教科書 P.196の下注(1) 「このころ(家綱治世下)都市では,異様な服装で徒党を組み,反社会的な行動に走る者があとをたたなかった。彼らは「かぶき者」といわれ,幕府の弾圧の対象となった。」
→ 教科書 P.198の12~13行目 「(綱吉は)捨子,捨牛馬の禁止や犬愛護など,生類全般に対する憐みを強制した(生類憐みの令)。」
→ 教科書 P.196の7~9行目 「幕府はこの事件(由井正雪の乱・慶安事件)をきっかけに, 末期養子の禁をゆるめるなど, 牢人の増加に歯止めをかけた。 」
→ 教科書 P.225の12~17行目 「この(文化文政)時代には, 外圧の高まりとともに,国内では農民層分解がいっそう進展し,とくに関東農村では農民の耕作放棄や離村により荒廃地が増大した。博徒や無宿人になる農民も多く,治安が悪化した。」
point
寛文の治・天和の治の施策についてしっかりまとめておこう。
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問2「正徳の治の施策」(正誤の正しい組合せ択一) 20 正解は(3)
→ 教科書 P.199の14~16行目 「幕府(新井白石)は, 朝鮮通信使の国書に,それまでの「日本国大君」にかえて「日本国王」と記させ, 待遇も簡素化して将軍の権威を高めようとした。 」
→ 教科書 P.199の19~20行目 「家宣・家継の時代にも,皇統保持のため閑院宮家の創設を認めたり, 家継と皇女との結婚を計画するなどして融和がはかられた。」
point
新井白石による正徳の治の施策内容についてしっかりまとめておこう。
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問3「元禄文化における絵画と芸能」(正しいものの組合せ択一) 21 正解は(4)
→ 教科書 P.213の上段の美術作品 「燕子花図屏風」 及び キャプション
→ 教科書 P.213の6~8行目 「絵画では, 朝廷絵所の土佐派から住吉如慶・具慶父子が出て住吉派をおこした。
→ 教科書 P.213の11~13行目 「京都では町人出身の尾形光琳が大和絵の俵屋宗達の画風を受け,新たな装飾風の美をうみだし, 琳派をうちたてた。
→ 教科書 P.210の14~15行目 「(歌舞伎では,)上方では恋愛などを優美に演じる和事の名手坂田藤十郎, 女形の芳沢あやめらの名優が出た。 」
→ 教科書 P.210の2~7行目 「演劇では,17世紀後半に竹本義太夫が大坂道頓堀に人形浄瑠璃の竹本座を創設し, 浄瑠璃の諸流を総合して義太夫節を完成させた。 」
point
乙の資料を見て,操り人形を使った芸能であることを察知する。元禄文化・化政文化をジャンル別に要領よくまとめておこう。
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B 幕末における海防の強化
問4「アヘン戦争と幕府による軍事教育の推進」(正しいものの択一) 22 正解は(4)
→ 教科書 P.242の下注(1) 「(イギリスは)フランスと組んで第2次アヘン戦争(アロー戦争,1856~60)をおこし, 九竜半島を割譲させた。 」
→ 教科書 P.264の下注(1) 「蕃書調所は1862(文久2)年には洋書調所と改称され,翌年には開成所とされ欧米事情や自然科学・兵学を教授する機関となった。」
→ 教科書 P.246の4~7行目 「(幕府は)江戸湾に台場(砲台)をきずき, 大船建造を解禁し,江戸に講武所や洋学所,長崎に海軍伝習所を設立して洋式兵制の導入をはじめた。 」
→ 教科書 P.242の11~16行目 「アヘン戦争により欧米諸国の軍事的優位が明らかになると,これを知った幕府は異国船打払令を改めて,1842(天保13)年に薪水給与令を発した。 」
point
アヘン戦争とアロー戦争,講武所と開成所の違いを理解しておく。
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問5「江戸中後期における西洋の情報の摂取」(古い順に年代配列) 23 正解は(2)
→ 教科書 P.236の11~12行目 及び 下注(2) 「18世紀のはじめごろ西川如見や新井白石が西洋の知識を紹介した…… 」 及び 「白石は,1708(宝永5)年に大隅国に上陸して捕らえられたイタリア人宣教師シドッチを尋問して『采覧異言』『西洋紀聞』を書き,ヨーロッパなどの地理・歴史を紹介した。」
→ 教科書 P.237の17~19行目 「1811(文化8)年,幕府は天文方に蛮書和解御用を設け,蘭書の翻訳にあたらせた。
→ 教科書 P.217の12~13行目 「吉宗はまた,実学奨励の立場から,キリスト教関係以外の漢訳洋書の輸入を認め, 野呂元丈・青木昆陽にオランダ語の習得を命じた。 」
point
洋学(蘭学)研究の進展の過程をさらに深くまとめておこう。
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問6「幕府の政治改革(文久の改革)」(正しいものの択一) 24 正解は(1)
→ 教科書 P.247の13~19行目 「薩摩藩では藩主の父の島津久光が1862(文久2)年に上京し,藩内の急進的な尊攘派を弾圧したうえで(寺田屋事件),勅使大原重徳とともに江戸に下り,公武合体のための改革を幕府に要求した。
→ 教科書 P.247の19~24行目 「幕府はこれ(久光の要求)をいれ, 一橋慶喜を将軍後見職に,松平慶永を政事総裁職に,会津藩主松平容保を京都守護職に任じるとともに, 参勤交代制を緩和した(文久の改革)。 」
→ 教科書 P.230の9~10行目 「1843(天保14)年, (水野)忠邦は幕府権力の強化や海防・年貢増収をねらって江戸・大坂周辺を幕府直轄地とする上知令を発した。
point
文久の改革の要点をしっかり理解しておこう。
第5問 明治前期の産業・経済に関する問題 (配点 12点)
→ 教科書 P.254の22行目~P.255の3行目 「軍隊については,士族のみより編成するか,国民皆兵とするかが問題となったが,兵部省は後者の考えにたち 1872(明治5)年11月徴兵告諭を,翌年1月には徴兵令を公布し,満20歳に達した男子に兵役の義務を課した。
→ 教科書 P.266の9~10行目 「高等教育については, 政府は外国人教師を雇うとともに,多くの留学生を海外に送り,西洋の学問・技術の受容につとめた。
→ 教科書 P.259の11~12行目 「殖産興業政策の中枢となったのは,最初は工部省で,1873年以降は内務省であった。」
→ 教科書 P.263の19~21行目 「不平士族の最後の拠点となった鹿児島県の私学校派は,1877年,西郷隆盛を擁して挙兵した。 しかし,兵力・軍備にまさる政府は,苦戦しながらもこれをやぶり(西南戦争)ここに士族反乱は終わった。」
→ 教科書 P.271の1~6行目 「政府は官営事業の赤字解消のため,軍事工場以外の官営工場や鉱山の民間払い下げをすすめた。 三井・三菱などの政商は, 払い下げ事業を核に財閥に成長していった。」
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問1「西南戦争とインフレーション」(正しいものの組合せ択一) 25 正解は(4)
→ 教科書 P.258の5~7行目 「渋沢栄一が中心となって国立銀行条例を制定し,民間の資本で正貨である金と交換できる兌換紙幣を発行させようとしたが,うまく機能しなかった。」
→ 教科書 P.270の3~5行目 「1881(明治14)年,政変後に大蔵卿に就任した松方正義は軍事費をのぞいて徹底した緊縮財政を実行し,この危機の乗り切りをはかった(松方デフレ)。」
→ 教科書 P.269の22~23行目 「西南戦争以後の日本経済では不換紙幣の増発のため急速なインフレが進行していた。
point
経済用語としての兌換紙幣と不換紙幣, インフレーションとデフレーションの差異をしっかり理解しておこう。
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問2「内務省の機能」(誤っているものの択一) 26 正解は(3)
内政の中心官庁として内務省が創設された。初代内務卿には大久保利通が就任した。以後, 時期によって管轄する分野に変更はあったが,戦前期の日本で内務省は一貫して地方行政と警察制度を支配し,中央集権的国家体制の中枢であり続けた。そのために1947年12月,GHQの命令によって内務省は解体された。
point
戦前の日本において, 内務省が果たした歴史的役割は多大なものがあったことを認識しておこう。
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問3「国産品奨励や製造技術の改良」(正しいものの組合せ択一) 27 正解は(1)
→ 教科書 P.294の6~7行目 及び 下注(2) 「1870年代末に機械紡績機であるガラ紡が発明され, 普及した。」 及び「臥雲辰致が発明した足踏み,または水車を動力とする紡績機。明治10年代に普及した。」
→ 教科書 P.244の19~21行目 「輸出品は,生糸・茶・蚕卵紙・海産物など半製品や食料品が中心であり, 輸入品には毛織物・綿織物のほか武器・艦船などの工業品が多かった。」
→ 教科書 P.259の下注(5) 「殖産興業を目的として,内務省の主催により1877年に第1回内国勧業博覧会が上野で開かれた。第2回(81年)・第3回(90年)上野,第4回(95年)京都,第5回(1903年)は大阪が開催地となった。」
→ 教科書 P.295の5~7行目 「政府は日清戦争後,重工業の基盤である鉄鋼業の国産化をめざし,官営八幡製鉄所を建設して, 1901(明治34)年に操業を開始した。」
point
明治時代の殖産興業政策は, 政府主導による上からの産業の保護育成により推進されたことに留意しよう。
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問4「政商から財閥へ」(古い順に年代配列択一) 28 正解は(5)
→ 教科書 P.269の15~21行目 「1881(明治14)年,北海道開拓使の官有物払い下げをめぐる汚職疑惑が新聞で報道され,民権派の政府批判はいっそう勢いを増した(開拓使官有物払い下げ事件)。 ……世論をおさえるため,開拓使官有物の払い下げを中止するとともに,10年後の国会開設を約束する詔勅(国会開設の勅諭)を出した(明治十四年の政変)。」
→ 教科書 P.335の下注(9) 「(1932年2~3月)井上日召の指導する血盟団員が一人一殺主義で前蔵相井上準之助, 三井合名理事長団琢磨をあいついで射殺した。血盟団はさらに政財界要人多数の殺害を計画していた。」 
→ 教科書 P.259の7~8行目 及び 下注(4) 「海運は,最初は外国の会社におさえられていたが, 岩崎弥太郎の三菱会社が政府の保護を受け成長した。」 及び 「台湾出兵の輸送を請け負って以後, 政府の手厚い保護のもとに急速に発展し, 国内航路で欧米の海運会社を圧倒するようになった。」
→ 教科書 P.260の19~21行目 「征韓論政変で西郷(隆盛)らが下野したため,士族の不満はいっそう高まった。 政府はこれをそらすため1874(明治7)年, 台湾へ出兵した。
point
政・財界の癒着が,歴史上どのような結末をもたらしたか。
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第6問 渋沢栄一・敬三の生きた時代 (配点 23点)
A 栄一の誕生(1840年)から帝国議会の設立(1890年)について
問1「第一国立銀行と大阪紡績会社の創設」(正しいものの択一) 29 正解は(4)
→ 教科書 P.271の1~6行目 「政府は官営事業の赤字解消のため,軍事工場以外の官営工場や鉱山の民間払い下げをすすめた。 三井・三菱などの政商は, 払い下げ事業を核に財閥に成長していった。
→ 教科書 P.271の右上「主要な官営工場・鉱山の払い下げ」表→ 教科書 P.294の7~9行目 及び 下注(3) 「1883(明治16)年に開業した大阪紡績会社が,最新のイギリス製機械を導入して1万錘の大規模操業をおこない成功すると,以後,機械紡績会社の設立があいつぎ,ガラ紡は衰退した。」 及び 「渋沢栄一が中心となり華族や木綿問屋の資本を集めて創設した。
→ 教科書 P.258の5~7行目 「渋沢栄一が中心となって国立銀行条例を制定し,民間の資本で正貨である金と交換できる兌換紙幣を発行させようとしたが,うまく機能しなかった。」
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渋沢栄一の業績にはどのようなものがあるか。第一国立銀行・王子製紙・大阪紡績会社 ・日本郵船などの設立など。
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問2「第1次大隈重信(隈板)内閣について」(正しいものの択一) 30 正解は(3)
→ 教科書 P.282の8~10行目 「1892(明治25)年の第2回総選挙で政府(第1次松方正義内閣)は民党をやぶるためにはげしい選挙干渉をおこなったが,民党の優位はくずれなかった。
→ 教科書 P.280の3~5行目 「外相となった大隈重信は,……その交渉案(大隈重信案)は,外国人裁判官の任用を大審院にかぎったが,基本的には井上案とかわらなかった。」
→ 教科書 P.286の22~24行目 及び P.287の下注(2) 「同(1898・明治31)年6月,伊藤(博文)内閣は総辞職し,最初の政党内閣である第1次大隈重信内閣(隈板内閣)が成立した。」 及び 「大隈首相, 板垣内相以下, 軍部大臣以外は政党人が大臣となった。
→ 教科書 P.310の2~4行目 「日本(第2次大隈重信内閣)も,日英同盟を理由に参戦し, ドイツの勢力範囲であった中国山東省や,赤道以北の太平洋に散在するドイツ領南洋諸島を攻撃し,(1915年)11月には山東省の中心都市青島を占領した。」
point
大隈の条約改正交渉案,第1次(隈板)・第2次大隈内閣の施策をそれぞれしっかりまとめておこう。
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問3「日本の運輸・通信の近代化」(正しいものの組合せ択一) 31 正解は(4)
→ 教科書 P.295の15~17行目 及び 下注(6) 「民営鉄道も1881年設立された日本鉄道会社の成功以後,次々と建設されるようになり, 1889年には民営の営業距離が官営を追いぬくまでになった。」 及び 「華族の金禄公債を資金として設立された日本最初の民営鉄道会社。
→ 教科書 P.259の9~10行目 「1871年には飛脚にかわって官営の郵便事業が前島密の建議によりはじまった。
→ 教科書 P.295の17~18行目 「1906年,鉄道国有法が制定され,主要な民営鉄道が買収されて, 国有鉄道がしめる比重が圧倒的なものになった。
→ 教科書 P.301の5~7行目 「学制により近代的学校教育がはじまったが,その普及は容易ではなく,法令もしばしばかわり,文相森有礼が1886(明治19)年に公布した学校令でようやく安定した。
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明治新政府の三大スローガンである富国強兵・殖産興業・文明開化の内容をしっかりまとめておこう。
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問4「明治時代の議会制度成立過程」(古い順に年代配列択一) 32 正解は(2)
→ 教科書 P.268の1~3行目 「西南戦争の最中の1877(明治10)年,片岡健吉らの立志社が国会開設を求める建白を提出した(立志社建白)。
→ 教科書 P.281の10~13行目 及び 下注(5) 「憲法と同時に制定された衆議院議員選挙法は,選挙権・被選挙権に制限を設けており, 1890(明治23)年に実施された第1回総選挙の有権者数は約45万人で, 総人口の1.1%にすぎず,ほとんどが地主層であった。」 及び 「直接国税15円以上をおさめる満25歳以上の男子に選挙権, 同様の納税額の満30歳以上の男子に被選挙権を与えるのみだった。」
→ 教科書 P.269の19~21行目 「世論をおさえるため, 開拓使官有物の払い下げを中止するとともに, 10年後の国会開設を約束する詔勅(国会開設の勅諭)を出した(明治十四年の政変)。
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自由民権運動と絡めて, 帝国議会発足までの動向を丁寧にまとめておこう。
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B 第1次世界大戦~戦後までの政治・経済・文化
問5「第一次世界大戦期における日本の政治・外交」(正しいものの択一) 33 正解は(3)
→ 教科書 P.335の12行目~P.336の1行目 「この事件(五・一五事件)ののち,元老西園寺公望は後継首班に海軍大将斎藤実をおし,官僚を中心とする「挙国一致」内閣がつくられた。
→ 教科書 P.287の4~7行目 及び 下注(6) 「山県(有朋)は政党勢力のいっそうの拡大には反対で,国家機構に政党の影響が浸透するのをふせぐため,1899(明治32)年には文官任用令を改正し, 1900年には軍部大臣現役武官制を制定した。」 及び 「陸海軍大臣の任用を現役の大将・中将に限定する制度。
→ 教科書 P.311の7~10行目 「1917年4月,アメリカが大戦に参戦すると,日本政府は,11月に石井-ランシング協定をむすんで, 中国における日本の『特殊権益』を認めさせるいっぽう,アメリカが主張する中国の領土保全・門戸開放の原則を確認して,アメリカとの融和につとめた。
→ 教科書 P.318の13行目~P.319の2行目 「平塚らいてうら,1911年に結成された青鞜社に集う人々であった。 彼女らは, 最初こそ『新しい女』という悪評をもって迎えられたが,やがて家庭のかかえるその矛盾を深くえぐるようになり,…… そして一部は積極的に政治運動を展開し, 1920年には平塚・市川房枝・奥むめおらを中心に,婦人参政権(婦選)の獲得や, 女性の政治集会への参加を禁じた治安警察法第5条の撤廃を求めて新婦人協会を結成した。
→ 教科書 P.359の13~16行目 「(1945年)12月の新選挙法によって女性にも参政権が与えられ,選挙権が20歳にひきさげられた。1946年4月,戦後初の総選挙が実施され,39名の女性代議士が誕生した。」
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女性に参政権が与えられたのは戦後間もなくのことである。大正デモクラシー期の政治動向と市民文化をしっかりまとめておこう。
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問6「1929年から1934年頃の日本経済の特徴」(正しいものの組合せ択一) 34 正解は(1)
→ 教科書 P.334の8~10行目 「(1931年)4月に民政党内閣を継承していた第2次若槻(礼次郎)内閣は,関東軍の行動がアメリカ・イギリスとの協調をそこなうことを恐れ, 不拡大方針を唱えたが, 関東軍は次々と戦線を拡大した(満州事変)。
→ 教科書 P.328の14~18行目 「当時世界経済自体も,日本経済同様, 第一次世界大戦中と戦後の過剰生産をかかえており,1929年10月,ニューヨーク株式市場の株価大暴落をきっかけに世界恐慌に突入した。 その結果, 世界恐慌の影響が浜口内閣の緊縮政策と重なり, 日本経済は深刻な経済不況(昭和恐慌) におちいった。
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満州事変(1931年)と昭和恐慌(1930年)を基軸として, 統計表の鉄鋼(粗鋼)生産量・民営工場実収賃金・農産物生産価格の数字を一つ一つ項目毎に検証していく。
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問7「戦後復興期から高度経済成長期の社会」(古い順に年代配列択一) 35 正解は(5)
→ 教科書 年表8の「政治・経済・社会 1964 東海道新幹線開通
→ 教科書 P.376の14~16行目 「田中首相は内政では『日本列島改造計画』を唱え, いっそうの高度経済成長を追及した結果, 激しい地価や物価の高騰をまねくことになった。」
→ 教科書 P.378の17~18行目 及び 下注(1) 「マスメディア,とくにテレビ放送の発達は, 大衆文化のあり方に大きな影響を与え, 大衆文化の大量生産と画一化をもたらした。」 及び 「1953年にテレビ放送が開始され, 70年代にはほとんどの家庭にカラーテレビが普及した。」
point
戦後の経済発展史をしっかりまとめておこう。
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問8「戦後における日本の文化・教育・学術」(誤っているものの択一) 36 正解は(3)
→ 教科書 P.363の13~15行目 「1946(昭和21)年に来日したアメリカ教育使節団の勧告を受け,翌年,教育基本法・学校教育法が制定された。
→ 教科書 P.364の15~17行目 「1949年に法隆寺金堂の壁画が焼失して, 1950年には有形・無形の文化財などをひろく保存する文化財保護法が制定された。
→ 教科書 P.332の13~15行目 「柳田国男は民俗学を確立し,『貧乏物語』で反響をよんだ河上肇は,社会政策学者福田徳三との論争を通じて,マルクス主義経済学の確立へすすんだ。
→ 教科書 P.364の12~13行目 「1949年の湯川秀樹の日本人初のノーベル賞受賞は,国民に大きな励ましを与えた。」
point
戦後の生活・文化史を丁寧にまとめておこう。