2010年度 センター試験【日本史A】解説
第1問 会話文による主題学習「東京駅と周辺の歴史」の問題
問1 東京駅に関係する人物 1 正解は3
平民宰相 原敬
P.120「原敬は爵位をもたない平民だったので,民衆は大きな期待をよせた。」
岡倉天心
P.99「1878年に来日したアメリカ人フェノロサが日本の美術を再認識するよう訴え,これにこたえて岡倉天心らが日本美術復興の運動をすすめた。」
浜口雄幸 浜口雄幸
「浜口首相は,右翼青年に東京駅で狙撃され重傷を負った。」
日本銀行本店・
東京駅を設計した人物は、イギリスの建築家コンドルに学んだ
辰野金吾。岡倉天心はアメリカの美術研究家フェノロサとともに東京美術学校を創設し、日本美術の復興に尽力。
原敬・
浜口雄幸ともに首相の際に東京駅でテロに遭う。ここでは
平民宰相がヒントとなる。
問2 アジアにおける日本の外交 2 正解は1
北清事変 P.87「1900年,北京の列国公館を包囲した。日本軍を主力とする列国連合軍は北京を攻撃して占領し,ロシアは大兵力で満州を占領した(義和団戦争,北清事変)。」
ポーツマス条約 P.93「1905年8月,アメリカのポーツマスで講和会議がひらかれた。9月にポーツマス条約が調印され,ロシアは日本に南樺太を割譲し,旅順・大連地区(関東州)の租借権および長春以南の東清鉄道支線とそれに付属する権利を譲渡し」
二十一か条の要求 P.107「1915年,日本は,中国政府に21か条要求をつきつけた。その内容は,山東省のドイツ権益の継承,旅順・大連の租借地と南満州鉄道の権益の99年間の延長,中国政府への日本人顧問の採用などで,単なる経済的要求にとどまらず,中国の主権を著しく侵害するものであった。」
北清事変とは1900年に起こった「扶清滅洋」をスローガンに掲げた義和団事件に際して日本・ロシアをはじめとする8カ国連合軍の鎮圧戦争のこと。
ポーツマス条約は、1905年に調印された
日露戦争の講和条約。
袁世凱政府への
二十一か条の要求は1915年。第一次世界大戦が勃発した際の第二次大隈重信内閣が要求した。
問3 大正から戦前までの大衆文化 3 正解は4
雑誌「キング」 P.119雑誌『キング』の表紙と説明文「創刊号(1925年1月)は74万部発行。代表的な大衆娯楽誌。」
ラジオ放送 P.119「1925年にはラジオ放送がはじまり」およびラジオ本放送初日の番組表と説明文「東京放送局は1925年7月12日から本放送を開始した。当時の受信契約数は4500余。」
トーキー P.119「無声映画(活動写真)が娯楽の王者となり」および注「無声だったため,弁士がセリフをしゃべり情景を説明した。1930年ころには発声映画となった。」
横浜毎日新聞 P.75最初の日刊紙と説明文「1870年12月,横浜で創刊された『横浜毎日新聞』」

最初の日刊新聞
横浜毎日新聞は1870年に創刊された。明治期の文化。
大衆雑誌『キング』の創刊は1925年、
ラジオ放送も1925年から開始され、1926年にNHK(日本放送協会)も設立された。トーキーと呼ばれる有声映画の上映は1931年に始まる。いずれも、大正から昭和初期の文化。
第2問 幕末から明治前期にかけての政治・社会に関する問題
問1 版籍奉還と家禄 4 正解は1
戊辰戦争 P.62「王政復古の大号令によって,京都には天皇(1)のもとに総裁・議定・参与の三職をおく新しい政権が誕生した。1868(慶応4)年1月,旧幕府側は兵士を京都に進撃させたが,鳥羽・伏見の戦いで薩長軍に敗れた。新政府は徳川慶喜を「朝敵」として,征討の軍を江戸に向け,4月,江戸を開城した。東北と北越の諸藩は奥羽越列藩同盟をつくって新政府に対抗したが,9月,新政府軍にやぶれた。さらに翌年5月には,箱館の五稜郭で抗戦を続けていた榎本武揚ら旧幕府軍もやぶれ,約1年5か月におよんだ戊辰戦争は終結した。」
版籍奉還 P.63「1869(明治2)年1月,薩摩・長州・土佐・佐賀(肥前)の4藩主にはたらきかけ,版(土地)と籍(人民)を朝廷に返すことを申し出させた。ほとんどの藩主もこれに続き(版籍奉還)」
家禄 金禄公債証書
P.68注「政府は版籍奉還後も士族の家禄を減額して支給していたが,財政を圧迫したので,1876年,年賦償還の金禄公債を与えて,家禄を廃止した。士族の多くは公債の利子では生活できずに窮乏化した。」
廃藩置県 P.63「1871年2月,新政府は薩長土3藩の兵士合計1万人を東京に集めて「御親兵」をつくり,政府直属の軍隊とした。そして7月,この軍事力を背景に,261の藩を廃止して府県をおく廃藩置県を断行」

明治新政府は藩を廃止し権力を中央の政府に集めるために、1969年に
版籍奉還、さらに1971年に
廃藩置県を断行した。そして、幕府や藩の構成員であった武士(士族)に対しては1976年の廃刀令とともに、同年より家禄の給付を受ける権利を廃止する
秩禄処分が実施された。
問2 戊辰戦争 5 正解は3
鳥羽・伏見の戦い P.62「1868(慶応4)年1月,旧幕府側は兵士を京都に進撃させたが,鳥羽・伏見の戦いで薩長軍に敗れた。」
奥羽越列藩同盟 P.62「東北と北越の諸藩は奥羽越列藩同盟をつくって新政府に対抗したが,9月,新政府軍にやぶれた。」
戊辰戦争の終結 P.62「箱館の五稜郭で抗戦を続けていた榎本武揚ら旧幕府軍もやぶれ,約1年5か月におよんだ戊辰戦争は終結した。」
戊辰戦争は1868年1月の
鳥羽・伏見の戦いから始まった。4月江戸城の開城と上野戦争、7月
奥羽越列藩同盟の越後長岡城の落城、9月奥羽越列藩同盟の主力であった会津藩の降伏を経て、1869年5月の
箱館五稜郭の戦いで旧幕府軍が降伏し集結する。奥羽越列藩同盟は新政府に対抗した東北・北越の諸藩。
問3 明治期に活躍した幕臣とその子弟 6 正解は4
榎本武揚 P.21「箱館の五稜郭で抗戦を続けていた榎本武揚ら旧幕府軍もやぶれ」
岸田俊子 P.77「民権運動には,岸田俊子,景山英子らの女性も加わり,男女同権などを訴えた。」
津田梅子 P.71「最年少の女子留学生は津田梅子(かぞえ年8歳)で,のちに津田英学塾(津田塾大学)を設立して女子教育に貢献した。」
榎本武揚は幕府では海軍奉行を務め、箱館五稜郭の戦いで新政府軍に抵抗。その後駐露公使として、
樺太千島交換条約を締結。逓信大臣など明治政府でも活躍。
西周は幕府の蕃書調所教授。維新後は
明六社に参加し国際法などを紹介。
軍人勅諭の起草に参画。旧幕臣の子
津田梅子は6歳で1871年の岩倉使節団に従いアメリカに留学。帰国後女子英学塾(現在の津田塾大学)を創設。
岸田俊子は自由民権運動に参加した婦人運動家で民権論と男女平等を唱えた。自由党副総裁の中島信行と結婚。
問4 幕末期の開国と攘夷 7 正解は2
物価の高騰
P.59「経済変動によって物価ははねあがり,下級武士や下層農民,都市民の生活を窮迫させていった。」
安藤信正
P.60注「老中安藤信正は,孝明天皇の妹和宮を14代将軍家茂の夫人に迎えたが,尊王攘夷派の志士に襲われて負傷し(坂下門外の変),失脚した。」
8月18日の政変 P.61「公武合体派は会津・薩摩両藩の兵力によって,尊攘派の公卿7人と長州藩を中心とする志士を京都から追放した(8月18日の政変)。」
生糸は開港後日本の最大の輸出品。輸出の増大は国内の物資の不足を招き、また、国内と国外での金銀比価が異なり、大量の金が国外に流出、洋銀が流入するなどの経済的変動により、物価は高騰し下級武士・下層農民・都市民の生活が圧迫された。勅許なしに
日米修好通商条約を調印したのは
井伊直弼。1863年の
八月十八日の政変で京都を追われたのは長州藩。
問5 世直し一揆・地租改正一揆・秩父事件 8 正解は3
地租改正反対一揆 P.68「1876年には地租改正反対一揆が茨城県・三重県などでおこり,翌年,政府は地租の率を100分の2.5に引き下げざるをえなかった。農民の地租軽減の願いは,その後の自由民権運動にひきつがれた。」
世直し一揆 P.61「1866年6月,幕府は第2次長州戦争の軍をすすめた。その負担と物価騰貴とがあいまって民衆の不満は高まり,世直し一揆,打ちこわしが最高潮に達した。」
秩父事件 P.79「埼玉県秩父地方の困民党が,借金返済の長期延期,各種の税の引き下げなどを求めて武装蜂起した。彼らは警察・郡役所・高利貸などを襲撃し,革命本部を設けて3日間にわたって秩父郡を支配下においた。」

1876年
地租改正反対一揆が茨城県(真壁騒動)・三重県(伊勢暴動)などで起こっている。1866年の第2次長州征討(戦争)のなか、各地で世直しを唱える一揆(
世直し一揆)や
打ちこわしが頻発している。
秩父困民党に自由党員の一部が加わって、借金返済の長期延期、税の引き下げを求めて武装蜂起した
秩父事件は1884年に起こっている。
問6 幕末から明治にかけての宗教 9 正解は2
大教宣布の詔 P.67「政府は大教宣布の詔を出し,さらに神社の格を定めて神社の序列をつくり,神職を政府が任命するなど,国家神道の体制を固めようとした。」
五榜の掲示 P.63「幕府の高札にかえた5枚の立て札(五榜の掲示)では,幕府と同様,儒教道徳をすすめ,徒党・強訴・逃散とキリシタンを禁止した。」
廃仏毀釈 P.67「1868年には神仏分離令をきっかけに各地に廃仏毀釈の運動がおこり,寺院や仏像が破壊された。」

明治政府は神道国教化をめざし、1870年
大教宣布の詔を発した。新政府より1868年に民衆に出された
五榜の掲示は幕府の民衆支配政策を引き継ぐもので、キリスト教は禁止していた。キリスト教が許されるのは(黙認)1873年のこと。1868年に出された
神仏分離令をきっかけに、寺院や仏像を破壊する
廃仏毀釈の運動が起こった。江戸後期に起こった黒住教・天理教・金光教など教派神道は明治期になると、その平易な教えを説くことで生活不安を抱く民衆の中に浸透していった。
第3問 明治前期の産業・経済に関する問題
問1 不換紙幣とインフレーション 10 正解は4
内務省 P.71「大久保は帰国後,殖産興業と行政警察を柱とする内務省を新設して,みずから内務卿に就任し,内政の最高実力者となった。」
不換紙幣の乱発 銀行券の流通 はげしいデフレーション
P.78「政府は西南戦争の戦費調達のため不換紙幣を乱発した。このため通貨が膨張し,物価が高騰した。これに対して,明治14年の政変後,大蔵卿となった松方正義は,不換紙幣を整理し,正貨を蓄える政策をすすめた。1882(明治15)年に日本銀行を創設して紙幣発行権を一本化し,1885年,銀本位制にもとづく兌換制度を実現した。いっぽう,1882年の壬午軍乱をきっかけに,軍備を拡張するための大増税政策をすすめた。
こうした政策は,はげしいデフレーションをまねき(松方デフレ),各地を深刻な不況がおそった。米価や繭価は下落し,重税に苦しむ農民のあいだでは,借金を返せず小作農になったり,離村するものがふえた。いっぽう,値下がりした田畑を買い集めたり,高利貸の担保にとったりして地主となる者もふえた。」

紙幣流通量が増大すると、紙幣の価値が下がり物価が上がるインフレーション状態となる。西南戦争以後の日本経済では不換紙幣の増発のため急速なインフレーションが進行していた。1882年蓄積した正価をもとに中央銀行として
日本銀行を設立し、1885年からは銀本位に基づく兌換券である日本銀行券を発行した。
問2 内務省に関する問題 11 正解は3
初代内務卿 P.71「大久保は帰国後,殖産興業と行政警察を柱とする内務省を新設して,みずから内務卿に就任し,内政の最高実力者となった。」

殖産興業政策および地方行政や警察組織を管轄し、政府の中心となった
内務省は1873年に創設され、初代の内務卿は
大久保利通。第二次世界大戦後、1947年にGHQの指示により廃止された。
問3 殖産興業に関する問題 12 正解は1
茶の生産 P.59「輸出の中心は生糸・茶であった」
八幡製鉄所 P.90「政府は,日清戦争の償金でえた金貨を兌換準備にあて,1897年に金本位制を実施した。また償金の一部を官営八幡製鉄所設立の資金に使った。」
ガラ紡は
臥雲辰致明が発明した紡績機で、1877年に開催された第1回内国勧業博覧会に出展され、各地に普及した。開港以来
「茶」は
「生糸」とならぶ重要な輸出品。内国勧業博覧会は内務省の主催で第1回が1877年に上野で開催された。官営の製鉄所である
八幡製鉄所は
日清戦争の賠償金で創設されている。日露戦争では賠償金は獲得できなかった。
問4 政商から財閥 13 正解は5
開拓使官有物払下げ P.77「1881年8月,折しも暴露された北海道開拓使官有物払い下げ事件をめぐって,世論ははげしく政府を攻撃し」
血盟団事件 P.128「1932年には急進的右翼の血盟団員が,前蔵相井上準之助と三井合名理事長団琢磨を暗殺した(血盟団事件)。」
台湾出兵 P.72「1874年に清国領の台湾に出兵し,琉球が日本領であることを清国に示した(台湾出兵)。」
開拓使官有物払い下げ事件は1881年。
明治十四年の政変のきっかけとなった。血盟団事件は1932年。前蔵相の井上準之助や三井財閥の団琢磨が井上日召が率いる血盟団によって暗殺された。
台湾出兵は1874年。土佐出身で三菱を起こす
岩崎弥太郎が軍事輸送を請け負い、その後は政府の保護を受け三菱は財閥へと発展する。
第4問 第一次世界大戦から太平洋戦争にかけての政治と社会
問1 小作争議とプロレタリア文学 14 正解は1
小作争議 P.113「農村では小作料の軽減や耕作権の確保を求める小作争議が激増し」
プロレタリア文学 P.134「プロレタリア文学運動の発展もめざましく,1928(昭和3)年に結成された全日本無産者芸術連盟(ナップ)とその機関誌『戦旗』を舞台に,小林多喜二の『蟹工船』,徳永直の『太陽のない街』,中野重治の『春さきの風』などが発表された。」
自然主義 p.118「日露戦争後には,田山花袋・島崎藤村らの自然主義の文学運動がひろがった。」
血税一揆は徴兵反対一揆のことで、地主の土地取り上げに抵抗する農民の闘争は小作争議。労働者などの無産階級の立場で変革を求めるのはプロレタリア文学。小林多喜二の『蟹工船』など。
問2 外交史と政治史 15 正解は4
ロンドン海軍軍縮会議 P.124「政府は,同年のロンドン海軍軍縮会議で,海軍軍令部の主張をおさえて,補助艦の比率を米10,英10,日6.975とする条約に調印した。」
国際連盟 P.108「第1次世界大戦は,1918(大正7)年11月,ドイツが連合国に降伏して終結した。翌年,パリで開かれた講和会議に,日本はイギリス・アメリカ・フランス・イタリアとともに5大国の一つとして参加した。
講和会議の結果,ヴェルサイユ条約が調印され,ドイツは植民地などの放棄と巨額の賠償金を課せられ,日本は山東省にあったドイツの権益を継承した。さらにアメリカ大統領ウィルソンが提唱した平和のための14か条の原則にある民族自決主義にもとづいて,かつてのロシア帝国,オーストリア・ハンガリー帝国,ドイツ帝国が領有していた地域に多くの独立国が誕生した。平和維持の国際的機構として国際連盟も創設された。日本は,赤道以北のドイツ領南洋諸島について,国際連盟から委任統治権を獲得した。こうして戦後のヨーロッパでは,イギリス・フランスを中心に勢力均衡をはかるヴェルサイユ体制が形成された。」
貴族院に基礎をおく内閣 P.121「1924年1月,枢密院議長の清浦奎吾が,貴族院に基礎をおく内閣をつくった。」
ロンドン海軍軍縮条約は1930年。補助艦の保有量が限された。日本の全権は若槻礼次郎で、
統帥権干犯問題が起こる。アメリカ大統領のウイルソンにより提唱された国際連盟は1920年に創設。日本はイギリス・フランス・イタリアとともに常任理事国となる。アメリカは議会の反対で不参加。
第二次護憲運動が起こるのは1924年。貴族院に基盤に成立した清浦奎吾内閣に
憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の護憲三派が総選挙で圧勝し、加藤高明内閣が成立。
問3 日中戦争と太平洋戦争 16 正解は3
真珠湾の艦隊を攻撃 P.136 「1941年12月8日,陸軍はイギリスの植民地であるマレー半島のコタバル,タイのシンゴラに奇襲上陸し,海軍はハワイ真珠湾を奇襲した。」
石油の対日禁輸 P.131「1940年9月の仏領インドシナ北部に続いて,翌年7月には,フィリピンとマレー半島の米英利権に脅威を与える仏領インドシナ南部に軍をすすめた。これに対しアメリカは,日米通商航海条約の廃棄に続いて,くず鉄・鉄鋼の対日輸出を禁止し,1941年にはイギリス・オランダとともに在外日本資産を凍結し,石油類の対日輸出を全面的に禁止した。」
真珠湾攻撃(1941年12月8日)をきっかけに始まったのは
太平洋戦争。
日中戦争は1937年の
盧溝橋事件から始まる。中国との戦争が長期化したため南進政策を進め、1941年7月に
南部仏印進駐を行うと、アメリカは日本資産を凍結し、
日本への石油輸出を禁止した。
問4 資料「東京市隣組回報」を読み解く問題 17 正解は2
隣組 P.131「大政翼賛会では,農村に部落会,都市部に町内会をつくり,そのもとに隣組をつくった。隣組では,定期的に常会をひらいて話し合ったり,ラジオ番組をきいたり,回覧板をまわしたりして,政府からの情報を民衆に伝えた。」
米の配給 P.141「砂糖やマッチの切符制にはじまり,翌年からは米穀も配給になり,以後ほとんどのものが配給になった。」
産業報国会 P.131「さらに政府は,労働者の統制を目的に労働組合を解散させ,11月に戦争協力のための大日本産業報国会を設立した。」
生活必需物資の配給制 P.141「1940年からは配給制を本格的に実施した。砂糖やマッチの切符制にはじまり,翌年からは米穀も配給になり,以後ほとんどのものが配給になった。」

資料を読むと、東京市役所と記されており、市から
隣組への回覧板を通じての連絡であることが理解できる。米などの配給についても資料より実態がわかる。隣組は
大政翼賛会の下部組織。
問5 戦時中から戦後占領期の文化・教育 18 正解は2
日本文学報国会 P.135「戦争の進行のなか,火野葦平の『麦と兵隊』など戦争文学が流行し,1942年には戦争に協力する文学者によって日本文学報国会が結成された。」

戦時下ではマスメディアへの統制は強化されたが、政府に都合の良いように編集されたニュース映画などは上映された。1942年には
日本文学報国会が結成され文学者の戦争協力が進んだ。六・三制の義務教育は、
学校教育法で定められた戦後の教育制度。敗戦後にはそれまでの教科書の不都合な部分を墨で塗りつぶす(墨塗り教科書)方法がとられた。
第5問 渋沢栄一・敬三からみる近代・現代の社会と経済
問1 渋沢栄一の業績 第一国立銀行と大阪紡績会社 19 正解は4
大阪紡績会社 P.31「この間に渋沢栄一は,1882(明治15)年に大阪紡績会社を設立し,1万500錘で蒸気機関を動力とし,昼夜2交替で生産を続ける工場を翌年に開業し,成功しました。」
三井銀行 P.94「三井は江戸時代から江戸で越後屋呉服店(三越),京都・江戸で両替・為替業務を営む豪商であったが,明治維新のさい新政府に財政資金を貸しつけ,新政府の太政官札の流通に協力し,やがて三井銀行を創立して政府御用達銀行の地位をしめた。」
高島炭鉱 P.94「政府の官業払い下げにより,三菱は長崎造船所,三井は三池炭鉱を手にいれた。三菱は旧土佐藩の後藤象二郎が政府から払い下げを受けた長崎県の高島炭鉱の経営を肩代わりした。」
渋沢栄一の業績を確認すること。渋沢は国立銀行条例(1872)の制定に尽力し、翌年に第一国立銀行が設立され頭取となった。また、最新のイギリス製機械を導入し、1883年に開業された大阪紡績会社も渋沢栄一が華族や木綿問屋の出資を受けて、創設したものであることがわかる。
問2 第一次大隈重信内閣のできごと 20 正解は3
選挙に干渉 P.84「続く松方正義内閣は,衆議院を解散し,1892年の第2回総選挙で警察を使って選挙に干渉したが,民党の優位をくずせなかった。」
外国人判事採用案 P.86「外務大臣を大隈重信にかえて交渉を再開した。しかし大審院に外国人裁判官を任用するという大隈の改正案が,すでに発布された憲法に違反するとの反対論がおこり,1889年,大隈は国権論者におそわれ重傷を負い,交渉は中止された。」
第一次世界大戦に参戦 P.107「日本は日英同盟を根拠に1914年8月23日,ドイツに宣戦布告して参戦した。」

民党と対立し衆議院を解散し、選挙干渉(内務大臣品川弥二郎の指揮)を行ったのは
第一次松方正義内閣。
第一次黒田清隆内閣の外務大臣として大隈重信は
条約改正に尽力した。彼の改正案は「
大審院」に限り外国人判事を任用するというもの。1898年、自由党と進歩党が合同した
憲政党を基盤とする大隈重信首相、板垣退助内相の
隈板内閣が成立した。最初の政党内閣(第一次大隈内閣)。
日英同盟を理由に
第一次世界大戦に参戦(1914年)したのは
第二次大隈内閣の時。
問3 日本鉄道会社と前島密 21 正解は4
森有礼 P.74「1873(明治6)年になると,福沢諭吉,森有礼らは明六社をつくり,欧米の近代思想や政治制度を紹介した。」
前島密 P.69「1871年には前島密の建議によって郵便制度を発足させ,また,新貨条例を定めて近代的な貨幣制度を採用した。」
日本鉄道会社は、1881年に華族らの金禄公債を資本に設立された民間鉄道会社で、1891年には上野・青森間を全通させた。その後、1906年の
鉄道国有法で国有化された。日本国有鉄道は戦後の発足。
郵便制度は、飛脚制度に変わる近代的事業として
前島密の建議によって1871年に創設された。
問4 国会開設に向けてのできごと 22 正解は2
国会開設を求める建白書 P.75「1877年6月,立志社は,建白書を提出して政府に国会の開設,立憲政体の樹立を迫り,翌年,各地に呼びかけて愛国社を再組織した。」
選挙人資格 P.81「衆議院議員選挙法で選挙権を直接国税15円以上を納める25歳以上の男性に限ったため,有権者は人口の1.1%にすぎなかった。」
国会開設の勅諭 P.77「岩倉・伊藤らを中心とする勢力は,国会開設の勅諭によって1890年に国会を開くことを約束するとともに,官有物の払い下げを中止し,大隈を政府から追放した(明治14年の政変)。」
西南戦争は1877年のできごと。立志社の
片岡健吉は国会開設・地租軽減を求める立志社建白を西南戦争のさなかに提出した。1889年に公布された「
衆議院議員選挙法」のは直接国税15円以上納入する満25歳以上の男子という選挙資格であった。
明治十四年の政変は1881年のことで、開拓使官有物払い下げ事件をきっかけに起こった。
問5 第一次世界大戦期における政治・外交 23 正解は3
5.15事件 P.128「同年5月15日,海軍青年将校らが首相官邸などを襲撃して,犬養毅首相を殺害した(5・15事件)。」
軍部大臣現役武官制 P.89「1900年には,陸・海軍大臣を現役の大将・中将に限る軍部大臣現役武官制が成立した。」
石井・ランシング協定 P.107「1917年,アメリカの対独参戦を機に,石井‐ランシング協定をむすび,中国での権益を確保した。
(注)この協定は,特派大使の石井菊次郎とアメリカの国務長官ランシングの間でむすばれ,アメリカが日本の中国における権益を認め,日米両国は中国の領土保全・門戸開放を確認した。」
女性解放運動 P.113「女性運動では,すでに1911(明治44)年,平塚雷鳥らが青鞜社を結成し,文芸同人誌『青鞜』を発行して女性解放を唱えていたが,1920年,平塚・市川房枝らは,新婦人協会を組織して,治安警察法第5条改正運動を展開した。1922年に第5条が改正されて女性も政治集会に参加できるようになり,さらに母性保護運動などへと発展した。市川らは1924年,普通選挙を要求する運動の高まりのなかで,婦人参政権獲得期成同盟会を結成し,翌年には婦選獲得同盟と改称し,1940年まで運動を続けた。社会主義の立場から山川菊栄らは,1921年,赤瀾会を結成し,はたらく女性の権利獲得のために活動した。」

第一次世界大戦は1914年から1918年。海軍青年将校たちのクーデター未遂事件とは
犬養毅首相暗殺の
五・一五事件のことで1932年。この事件後政党内閣が終わり、斉藤実を首相とする挙国一致内閣が成立。軍部大臣現役武官制は、1900年山県有朋内閣の時に制度化。
石井・ランシング協定は、1917年に結ばれ、日本の中国権益をアメリカは認めるとともに、日米両国は中国の領土保全・門戸開放・機会均等の原則を確認した。
青鞜社は1911年に
平塚雷鳥を中心として結成された女性解放を主導する文芸集団。婦人参政権が認められたのは戦後のこと。
問6 1929年~1934年までの日本経済の諸指数表を読み解く問題 24 正解は1
満州事変 P.125「1931年9月18日夜,関東軍は,奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で満鉄線路を自ら爆破し,これを中国軍の行為だとして張学良軍を攻撃し,翌日には奉天城を占領した(柳条湖事件)。第2次若槻礼次郎内閣は,不拡大方針を唱えたが,関東軍は計画的に戦線を拡大し,半年後には満州の主要部分を占領した(満州事変)。」
昭和恐慌 P.124「1929年にはじまった世界恐慌は,日本の米・英および東南アジアむけ輸出を激減させた。日本経済は,著しい不況になり,多くの企業が操業短縮や倒産に追いこまれ,労働強化・賃金引き下げ・人員整理があいついだ(昭和恐慌)。」
満州事変の起こった年は1931年。また、
昭和恐慌が発生した年は1930年。この年がわかっていれば問題を解くことは容易。表をみると、満州事変の年を境に、鉄鋼生産量は増加したが、労働者賃金はほぼ横ばい。昭和恐慌の年には農産物生産価格は下落している。
問7 戦後復興期から高度経済成長期の社会 25 正解は5
東海道新幹線 P.166「1964(昭和39)年の東京オリンピックは,経済大国として発展しつつあった日本を,世界にアピールする一大イベントであった。オリンピックにあわせて,政府は東海道新幹線を開通させ,東京の道路網を整備し,高速道路の建設もはじめた。」
「列島改造」 P.172「しかし田中角栄首相は「日本列島改造論」を唱え,ひきつづき高度経済成長を実現しようとした。および(注)「新幹線と高速道路網を日本中にはりめぐらし,全国的に地域開発をすすめようとした。それをみこした土地の買いあさりがおこり,地価の高騰をまねいた。」
白黒テレビ P.166「家庭電化製品の普及は,生活様式を大きくかえた。なかでも1955年以降,急速に価格が安くなり普及がすすんだ白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫は「三種の神器」とよばれた。」

東海道新幹線は1964年の東京オリンピック開催にそなえて開通。列島改造は
田中角栄内閣の政策で1972年。NHKにより1953年にテレビ放映が開始されている。
問8 戦後の日本の文化・教育・学術 26 正解は3
教育基本法 P.157「1946年3月に来日したアメリカ教育使節団の勧告にもとづき,個人の尊厳,機会均等,男女共学,9年間の義務教育,教育の政治からの独立などを定めた教育基本法が1947年に公布され,新しい教育制度がスタートした。」
文化財保護法 P.177「法隆寺金堂の壁画の焼失をきっかけに,1950年に文化財保護法が制定された」
民俗学
P.118「柳田国男は,民間伝承などから民衆の生活文化を明らかにする民俗学を確立した。」
湯川秀樹 P.176「自然科学では,1949年に湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞した。」

各地の民間伝承を収集する民俗学を発展させたのは
柳田国男。
河上肇はマルクス主義の研究を進めた経済学者で『貧乏物語』著者。
文化財保護法は法隆寺の金堂壁画の焼失を機に文化財の保存のため1950年に制定された。湯川秀樹は日本人初のノーベル賞を受賞(1949)した物理学者。
第6問 近現代における人の往来
問1 近代日本の移民 27 正解は3
農業移民政策 P.137「満蒙開拓団として大量の日本人農民を満州の農村に送りこんだため,中国人農民は農地をうばわれた。」
日露戦争は1904年から1905年のこと。日露戦争後、南満州鉄道の経営をめぐってアメリカとの関係が悪化し、西海岸を中心に
日本人移民排斥問題が起こった。
日米修好条約は1958年である。
満州への農業移民政策は1931年の
満州事変以後のこと。
問2 条約改正 28 正解は4
陸奥宗光 P.87「陸奥宗光が外務大臣となり,青木が公使としてイギリスと交渉を続けた結果,日本が関税自主権の面で譲歩して合意が成立した。1894年7月,外国人居留地を廃止して国内居住の自由を認めるとともに,治外法権を撤廃する日英通商航海条約が調印された。」
小村寿太郎 P.87「関税自主権の完全回復は外相小村寿太郎により1911年に実現した。」

条約改正を外務大臣として関わったのは
井上馨・陸奥宗光・小村寿太郎の3人。
西園寺公望は伊藤博文の後継で政友会を率いて明治末から大正初期にかけて活躍した総理大臣。
日英通商航海条約は1894年に結ばれ、この条約によって
領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部が回復した。この時の外相は陸奥宗光。日露戦争後の1911年に
関税自主権の完全回復を実現させた外相は小村寿太郎。
問3 日朝修好条規 29 正解は2
江華島事件と日朝修好条規 P.73「1875年,朝鮮の漢城(現ソウル)防衛の拠点江華島付近の領海に許可なく接近した日本軍艦雲揚は,江華島砲台から砲撃を受けると,これに応戦した。翌日には,永宗島砲台に兵を上陸させて軍民を殺傷し,要塞を占領して民家に火を放った(江華島事件)。翌1876年,大久保は,この事件を理由に艦隊を派遣し,朝鮮政府に迫って日朝修好条規をむすばせ,仁川・釜山・元山を開港させた。」
日朝修好条規の内容 P.73「日朝修好条規は,朝鮮を「自主の国」として清国との宗属関係を否定し,日本の治外法権を認め,付属文書で無関税を定めた。」

1875年の
江華島事件をきっかけに、1876年の
日朝修好条規が結ばれた。内容は日本が朝鮮に対して釜山のほか2港の開港、自由貿易(無関税特権)、そして領事裁判権の承認を認めさせる不平等条約であった。
問4 福沢諭吉と石橋湛山 30 正解は1
福沢諭吉 P.73「福沢諭吉は同年,「脱亜論」を発表した。」および(注)「日本は野蛮な態度を固守する朝鮮・清国と絶縁して,欧米文明諸国と同じ態度で両国に接せよと「脱亜入欧」を説き,強大国をめざして東アジアでの覇権を争う立場を主張するものであった。」
石橋湛山 P.109「このような情勢のなかで石橋湛山は,右の資料のように植民地を放棄すべきだと主張した。」
「(資料)一切を棄つるの覚悟―ワシントン会議にあたって
若し政府と国民に、総てを棄てて掛るの覚悟があるならば、会議そのものは、必ず我れに有利に導き得るに相違ない。例へば満州を棄てる、山東を棄てる、其他支那が我国から受けつつありと考ふる一切の圧迫を棄てる、其結果は何うなるか。又例へば朝鮮に、台湾に自由を許す、其結果は何うなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。 (『東洋経済新報』一九二一年七月二十三日号)(『石橋湛山全集』)」
寺内正毅 P.114「米騒動によって寺内正毅内閣が1918(大正7)年に倒れた。寺内は,植民地朝鮮の初代総督として絶対的権力をもち,武断政治の中心人物だった。その内閣が民衆運動で倒れたのである。」
慶應義塾の創始者は
福沢諭吉。問題にある史料の「我が日本の国土・・・」は1885年に発表された
『脱亜論』の一部。第二次世界大戦後首相となり、戦前「東洋経済新報」の記者として小日本主義を唱え「植民地放棄」を主張したのは
石橋湛山。
問5 金玉均と孫文 31 正解は1
金玉均 P.73「1884年,朝鮮で,日本の近代化政策に学んだ金玉均ら急進改革派が,清国にたよる穏健改革派政権を打倒した。急進派に依頼されて,日本は駐留軍隊を動かしたが,強大な清国軍にやぶれ,金玉均らは日本に亡命した(甲申事変)。」
安重根 P.103「1909年10月,義兵闘争の指導者の1人安重根は,前統監伊藤博文をハルビン駅頭で射殺した。」
孫文 P.107「1911年,中国では,孫文らの指導する中国同盟会が辛亥革命をおこし,翌年,孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府を南京に誕生させ,清朝を滅ぼした。」

P.122「1925年の5・30事件後,

を総司令とする国民革命軍は,中国統一をめざす北伐を翌年から開始した。」

1884年の朝鮮の政変とは「
甲申政変」であり、政変を起こした独立党のリーダーの
金玉均は日本に亡命した。1905年に東京で「中国同盟会」を結成し、
辛亥革命を指導し中華民国臨時大総統に就任したのは
孫文。
安重根は1909年伊藤博文を暗殺した朝鮮の独立運動家。

は孫文の後継者。
問6 在朝日本人と在日朝鮮人の人数推移 32 正解は2

韓国併合は1910年、関東大震災は1923年、盧溝橋事件は1937年、太平洋戦争が始まったのは1941年であり、このことを念頭に表を読み解く。表から関東大震災が起こったとき、在日朝鮮人の数は10万人以下であったので、問の25万人に満たなかったに合致する。
問7 太平洋戦争期の徴兵と労働動員 33 正解は4
植民地での徴兵制 P.137「また現地住民を戦争に協力させるために志願兵制度をつくり,さらに日本軍の兵力不足を補うため徴兵制を実施した。」
学徒出陣 P.141「戦線の拡大によって出征兵士が増加したため国民兵役の年齢を拡大し,さらに大学生の徴兵猶予を停止し学徒出陣させた。」
女性の労働力 P.141「徴兵者数の増加によって,国内の労働力が年々不足した。政府は,女性を勤労動員するために,未婚女性による女子挺身隊を組織し,中学校3年生以上(のち1年生以上)の生徒・学生も兵器生産などに従事させた。」
アジアの人々の労働力 P.190「インドネシアで日本軍に採用された兵補だった人々や,マレーシアの泰緬鉄道建設に動員された労働者の人々が,未払い賃金の支払いなどを要求している。」

戦争末期には植民地の台湾(1945~)・朝鮮(1943~)でも徴兵制が施行された。20歳以上の理科系・教員養成系を除く学生を入隊させる
学徒出陣は1943年12月より行われた。また、25歳未満の未婚女性を
女子挺身隊に組織し、軍需工場へ動員した。日本軍は捕虜やアジアの人々を労働力として使用している。タイ~ビルマ(ミャンマー)間の泰緬鉄道の建設などにおける連合軍捕虜の強制労働などがある。
問8 太平洋戦争期の人の移動をめぐる動向 34 正解は1
シベリア抑留 P.145「ソ連は満州から60万人以上の軍人・民間人をシベリアなどに連行し,強制労働に従事させた(シベリア抑留)。シベリアからの引揚げは1949年にほぼ終ったが,この間,約6万人にのぼる死者を出した。」
「残留孤児」 P.145「ソ連参戦後,住民をおきざりにした関東軍の敗走や,ソ連国境におかれた満蒙開拓団からの引揚げの困難などで,多くの死者と「中国残留日本人孤児」がうまれた。」
B・C級戦争犯罪人 P.148「交戦法違反はB級戦犯,民間人の殺戮など人道に対する罪はC級戦犯として裁かれた。B・C級戦犯裁判は,横浜やアジア太平洋各地でおこなわれた。」
在日朝鮮人 P.153「在日朝鮮人は,日本の敗戦時,強制連行による人々も含め240万人にものぼっていた。帰国の手段が十分に講じられなかったためもあって,約70万人が日本に在住し続けた。」

日本兵を満州で捕虜とし、シベリア抑留を行ったのはソ連軍。ソ連の参戦と関東軍の崩壊により取り残された満蒙開拓団などの人々の中には「残留孤児」となった子どもたちも数多く存在した。
B・C級戦犯の裁判は日本の横浜の他、アジア各地の裁判所で行われた。なお、A級戦犯裁判(戦争指導者)は東京で
極東軍事裁判(東京裁判)として開廷された。日本で終戦を迎えた朝鮮人の中には様々な事情で日本にとどまった。