2009年度 センター試験【世界史B本試】解説
(解答番号【1】~【36】)
第1問 (配点 25)
● (4文選択)
● (語句選択)
● (2文正誤)
● (図版選択)
● (組み合わせ選択)
● (時代順・組み合わせ選択)
問1 「唐宋の科挙合格者」(4文選択) 【1】
正答は3
(1) →教科書P.133の20~23行目「この時代には,新しい社会や周辺諸国との対立を背景として,欧陽脩『新唐書』『新五代史』や司馬光の編年体の歴史書『資治通鑑』など,・・・文学では散文が尊ばれ,欧陽脩・蘇軾(蘇東坡)らの名文家が出た。」
(2) →教科書P.98の4~6行目「書道では初期の欧陽詢・虞世南・gaiji05が楷書にすぐれ,中期の顔真卿は楷書に新境地をひらき,行書にも秀でた。」
(3) →教科書P.128の4行目「6代皇帝神宗は,宰相に王安石を起用して改革(新法)を断行した。」
(4) →教科書P.131の17~18行目「やがて和平派の秦檜が抗戦派の岳飛らをおさえて和をむすび,淮河を両国間の国境とした。」

point
王安石の新法はその政治目的をきちんと学習しておくこと。またライバルである旧法党の一人司馬光(歴史書『資治通鑑』の著者)も対比して覚えておくこと。唐宋の主な人物は政治・経済のみならず文化史からの出題が多いので,時代ごとに業績を確認しておくと良い。
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問2 「明代の出来事」(4文選択)  【2】
正答は1
(1) →教科書P.224の23~25行目「明は対外貿易に制限を加えていたが,・・・彼らは取引を通じて大量のメキシコ銀を中国にもちこみ,日本から運ばれた銀とともに銀の流通を助けた。」
(2) →教科書P.97の20行目「北魏時代の達磨を開祖とする禅宗
(3) →教科書P.139の5~6行目「文学では宋以来の口語文学が発達し,元曲とよばれる雑劇がはやり,『西廂記』琵琶記』『漢宮秋』などの傑作がうまれ,」
(4) →教科書P.131の15~16行目「江南にのがれた欽宗の弟高宗は,1127年南宋をたて,まもなく臨安(杭州)に都した。」
point
16世紀後半,紙幣や銅銭にかわりメキシコ銀と日本銀が中国における主要な通貨となり流通した。また明代から清初に実施された税制の一条鞭法についても学習しておくことが重要である。
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問3 「明代の社会経済」(組み合わせ選択) 【3】
正答は1
(1) →教科書P.224の12~14行目「明末以降には「湖広熟すれば天下足る」といわれるように,開発のすすんだ湖広(現在の湖北・湖南)が穀倉地帯となった。」
(2) →教科書P.284の注(2)「1845年以降,外国の行政権を認める租界が,上海はじめ多くの開港地にも設けられた」
(3) →教科書P.224の18~20行目「山西商人や安徽の新安(徽州)商人が活躍し,大都市では出身地・業種ごとに,商人が会館や公所を設けて連絡し援助しあった。」
(4) →教科書P.131の24~26行目「(宋代は)農業技術の改良もあって,「蘇常(蘇湖)熟すれば天下足る」といわれるように,長江下流デルタ地帯は,中国の穀倉地帯となった。」
point
宋代までの下流(デルタ地域)の開発段階から明代以降は中流域へと開発が進むなど,長江流域の経済開発を時代ごとに整理しておくことが重要。また産業の変化も理解しておくこと。
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問4 「農村と都市」(4文選択) 【4】
正答は4
(1) →教科書P.190の10~13行目「イングランドの絶対王政は,・・・毛織物工業の原料確保のための第1次囲い込み運動をおこなったりしたジェントリを基礎にしていた。」
(2) →教科書P.162の17~19行目「エルベ川以東のドイツや東ヨーロッパでは,15~16世紀に西ヨーロッパへの穀物輸出を推進する領主の権力が強まり,賦役が強化される再版農奴制がひろまっていった。」再版農奴制=農場領主制(グーツヘルシャフト)のこと。
(3) →教科書P.161の4~10行目「ギルドは,商人や親方たちの共同の利益を守るための組織であり,~(略)~組合に加入しないものの営業を禁じて市場を独占した。」
(4) →教科書P.160の23~25行目「リューベックを盟主として100以上の加盟市からなるハンザ同盟は,在外商館や軍隊すらもち,北海・バルト海商業圏を支配して繁栄をほこった。」
point
ハンザ同盟はリューベックを盟主として13世紀後半から発展し,加盟都市は100をこえ,北海・バルト海一帯に影響力を持った。16世紀以降主権国家体制の成立とともに衰退していった。

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問5 「15世紀後半から16世紀後半の100年間」(4文選択)【5】
正答は1
(1) →教科書P.184の5~7行目「ルター派の諸侯はシュマルカルデン同盟をむすんで皇帝派と戦闘をまじえたが,両派の争いは,1555年のアウクスブルク宗教和議で妥協がなされた。」
(2) →教科書P.214の注(1)「18世紀には北インドをほぼ征服したが,内部の対立から王権が弱まり,18世紀なかば以降には,各地に割拠したマラータ諸侯の連合体であるマラータ同盟に変化した。」
(3) →教科書P.162の12~15行目「農民はそれに反抗して大規模な一揆をおこした。フランスのジャクリーの乱(1358年)やイングランドのワット=タイラーの乱(1381年)などがその例である。」
(4) →教科書P.138の18~20行目「14世紀になると,元朝は内紛と放漫財政を続け,交鈔を乱発したため物価は高騰し,社会不安は増大し,白蓮教徒を中心とする紅巾の乱がおこり,その支配は崩壊した。」
point
シュマルカルデン同盟は1530年ルター派のドイツ諸侯・都市が結成した反皇帝同盟で,皇帝と戦った(シュマルカルデン戦争)。結局アウグスブルク宗教和議でルター派の信仰が認められた。

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問6 「兵制と兵士」(4文選択) 【6】
正答は3
(1) →教科書P.48の18~23行目「ローマは重装歩兵の軍制をととのえ,領土を拡大した。・・・従軍した平民の政治的要求が高まり,借財問題をきっかけとして貴族と平民の間に抗争がおこった(身分闘争)。」
(2) →教科書P.221の7~9行目「軍制では八旗制を採用したが,これを補うために漢人を募兵して緑営を編成し,地方の治安維持に当たらせた。」
(3) →教科書P.213の1~2行目「スルタン直属の常備軍で鉄砲をもつイェニチェリは,この制度によって育成された兵士から組織された。」
(4) →教科書P.154の12~14行目「7世紀からとられた軍管区制(テマ制)は軍事と行政を統合したもので,いくつかの軍管区を設けて司令官に統治させ,世襲の兵役義務をもつ屯田兵を各地に入植させて」
point
イェニチェリはキリスト教徒の子弟をイスラームに改宗させ,軍事訓練を施してスルタン直属の常備軍とした。後に特権集団を形成し,政治にも介入した。

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問7 「イギリスの商業・製造業」(4文選択) 【7】
正答は2
(1) →教科書P.282の11~12行目「イギリスは1793年にマカートニーを,1816年にはアマーストをそれぞれ清に派遣して貿易制度の改善を要求したが,清朝に拒否された。」
(2) →教科書P.246の9~11行目「労働者は,ラダイト運動(機械うちこわし運動)や休日明けを聖月曜日と称し居酒屋ですごして欠勤するなど,独自な抵抗を展開した。」
(3) →教科書P.231の4~7行目「茶法を出して植民地へ茶を輸送する独占権を東インド会社に与えた。1773年,憤激した人々は,先住民に変装して,ボストン港で東インド会社の船をおそい,茶を海に投げ捨てた(ボストン茶会事件)。」
(4) →教科書P.241の6~8行目「彼は,1806年に大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出して諸国にイギリスとの通商を禁止し,イギリスに経済的打撃を与えるとともに,フランス産業の大陸市場支配を実現しようとはかった。」
point
産業革命が進行しているイギリスの織物工業地帯でおこった機械を打ち壊す運動で,機械化で失業した職人たちの抵抗の一つであった。茶の独占販売権を認めた茶法の制定がボストン茶会事件を引き起こした。

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問8 「アメリカ合衆国の産業・経済」(4文選択) 【8】
正答は2
(1) →教科書P.271の図版エディソン
(2) →教科書P.271の4~6行目「アメリカ人ライト兄弟は飛行機を発明し,フォードは自動車の大量生産に成功した。」
(3) →教科書P.318の11~14行目「アメリカでは,・・・都市の住民の間で大量消費社会が出現した。人人が繁栄を享受するなかで,映画やジャズなどの大衆文化がひろく普及していった。」
(4) →教科書P.331の12~14行目「農産物価格ひきあげのために,農民に補償金をはらって生産制限をさせた農業調整法(AAA)などが制定された。」
point
20世紀初め,フォードは自動車会社をおこし,流れ作業方式を導入,大衆車「T型フォード」の量産化・低価格化に成功した。映画は1895年フランスでサイレント映画(無声映画)が上映され,第一次世界大戦後,アメリカで映画産業が確立した。

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問9 「各国・国際機関の取り組み」(4文選択) 【9】
 
正答は4
(1) →教科書. P253の23~P254の1行目「労働者の代表としてはルイ=ブランらが政府に参加し,労働者救済のために国立作業場を設置するなどの政策がとられた。」
(2) →教科書P.316の注(3)「スイスのジュネーヴに本部をおき,総会・理事会・事務局を中心に,国際労働機関(ILO)・常設国際司法裁判所が設置された。」
(3) →教科書P.331の15~16行目「労働者の団結権と団体交渉権を保障したワグナー法が1935年に制定された。」
(4) →教科書P.256の11~13行目「自由党では,・・・グラッドストンが活躍し,小英国主義・内政重視の方針をとり,教育法・労働組合法などを成立させ,」
point
労働組合法は1871年自由党のグラッドストン内閣が制定し,これによって労働組合の法的地位が認められた。

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第2問 (配点 25)
問1 「古代帝国」(語句選択) 【10】
正答は4
(1) →教科書P.52の10行目「五賢帝の時代,ローマ帝国は最盛期に達した。」このローマ帝国は分裂前の帝国で,分裂後の西ローマ帝国は5世紀に滅んだ。
(2) →教科書P.115の9~11行目「バグダードをはじめ主要都市にニザーミーヤ学院と名づけたマドラサ(イスラーム高等教育機関)を設け,スンナ派の学問を振興した。」
(3) →教科書P.117の13~17行目「マドラサや商工業の場としてのスーク(バーザール,市場),宿泊所のキャラヴァンサライ(隊商宿)などがたっていた。」
(4) →教科書P.153の1~3行目「395年に西ローマとわかれた東ローマは,首都コンスタンティノープルの旧名をとってビザンツ帝国ともよばれる。」
point
リード文の東ローマ帝国のユスティニアヌスがヒントになる。
マドラサはイスラームの学者を養成する高等教育機関で,11世紀以降各地に設立された。

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問2 「ユスティニアヌス帝」(4文選択) 【11】
正答は3
(1) →教科書P.154の22~24行目「円屋根とモザイクの壁画を特徴とする,コンスタンティノープルのハギア(聖)=ソフィア(アヤ=ソフィア)教会,」
(2) →教科書P.153の6~8行目「ユスティニアヌス帝はイタリアの東ゴートとアフリカのヴァンダルを滅ぼし,イベリア半島の西ゴート領の一部をも獲得した。」
(3) →教科書P.153の11~12行目「その後,ランゴバルドのイタリア侵入などにより,ビザンツの西方における支配は後退した。」
(4) →教科書P.153の8~9行目「彼はまた法の集成を命じ,『ローマ法大全』をまとめさせた。」
point
ユスティニアヌスは555年に東ゴート王国を征服してイタリア半島の領土を回復した。その後も支配を拡大してローマ帝国の旧領土をほぼ回復した。

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問3 「12世紀の出来事」(4文選択) 【12】
正答は4
(1) →教科書P.116の27行目「グラナダのナスル朝だけが1492年まで独立を保った。」
(2) →教科書P.115の13~16行目「トルコ系マムルーク出身者がスンナ派のホラズム=シャー朝を自立させていた。この王朝は,・・・イランに進出したが,13世紀前半,モンゴル軍に征服された。」
(3) →教科書P.227の10行目「15世紀にはアユタヤ王国が強大になり,カンボジアやマラッカを圧迫した。」
(4) →教科書P.129の9~10行目「12世紀後半には平氏政権,ついで鎌倉幕府が成立した。」
point
日本での平氏政権誕生から鎌倉幕府の成立は12世紀の後半であった。選択肢の中の語句から時代違いを的確につかむことが大切。

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問4 「官吏登用制度」(4文選択) 【13】
正答は4
(1) →教科書P.80の4行目「官吏登用法として郷挙里選を実施した。」
(2) →教科書P.88の16~19行目「魏の文帝は,220年に官吏登用法として九品中正制度(九品官人法)を採用し,以後南北朝時代を通じて実施された。」
(3) →教科書P.127の17行目「科挙に皇帝みずからが審査する殿試を加えるなど,中央集権的な皇帝専制政治の確立につとめた。」
(4) →教科書P.128の注(3)「官僚は,文官(文班)と武官(武班)にわかれていたので,両班とよばれた。その官僚を,高麗から科挙により採用するようになった(ただし高麗では文官のみ。李朝では,武官にも実施,」
point
高麗の官僚を両班とよび,科挙により採用した。官吏登用制度については頻出事項(郷挙里選殿試)なので,中国王朝ごとに整理しておくとよい。

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問5 「キリスト教の布教・活動」(4文選択) 【14】
正答は3
(1) →教科書P.223の注(1)「イエズス会の宣教師は,孔子の礼拝や祖先の祭祀などの伝統的儀礼を認め,中国の慣習と妥協して布教をおこなった。・・・この方法がキリスト教の教義にそむくものとしてローマ教皇に訴えた。教皇はイエズス会式布教を禁止したので,康煕帝は怒ってイエズス会以外の布教を禁じた。」
(2) →教科書P.220の8~9行目「康煕帝は,アムール川流域に進出したロシア軍を攻め,1689年ネルチンスク条約をむすび,ロシアとの国境・通商問題を解決した。」
(3) →教科書P.223の14~16行目「フランス人ブーヴェ(白進)・レジス(雷孝思)らは,康煕帝の命によって実測による中国全図「皇輿全覧図」を完成させた(1718年)。」
(4) →教科書P.223の3~9行目「1582年にはイタリア人マテオ=リッチ(利瑪竇)が中国に渡来し,布教のかたわら徐光啓らとエウクレイデスの『幾何原本』を訳したほか,中国最初の世界地図である「坤輿万国全図」をつくった。」
point
ブーヴェはフランスのルイ14世の命で中国に派遣され,康煕帝に仕えた。イエズス会宣教師に関する問いは頻出事項なので,教科書や図説にあたって確認すること。

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問6 「周恩来」(二文正誤) 【15】
正答は3
a →教科書P.326の19行目「1931年,江西省瑞金を中心に毛沢東を主席とする中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立した。」
b →教科書P.353の13~14行目「1949年10月1日,毛沢東を主席とし,周恩来を首相とする中華人民共和国が成立した。」
point
1949年10月建国の中華人民共和国の初代首相。現実主義の立場から柔軟に実務をこなし,高い評価を受けた。国共分裂後,毛沢東は主席となって中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立した。

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問7 「学校・教育の歴史」(二文正誤) 【16】
正答は1
a →教科書P.256の11~13行目「自由党では,かつてアヘン戦争を批判したグラッドストンが活躍し,小英国主義・内政重視の方針をとり,教育法・労働組合法などを成立させ,」
b →教科書P.113の図版(アズハル学院
point
自由党のグラッドストン内閣は1870年に初等教育を行う公立学校の増設を決めた。労働組合法の制定もグラッドストン内閣の時である。

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問8 「各国の歴史」(4文選択) 【17】
正答は2
(1) →教科書P.146の21~23行目「北のスカンディナヴィア地方にいたゲルマン人の一派であるノルマン人は,西ヨーロッパに進出して略奪などをおこない,ヴァイキングとよばれて恐れられていた」
(2) →教科書P.169のデンマークには,16世紀,ルター派が広まった。
(3) →教科書P.263の9~11行目「ノルウェーは,1814年にスウェーデンとの同君連合となったが,・・・1905年に国民投票で分離独立を達成した。」
(4) →教科書P.339の図版(スウェーデンは中立国)
point
16世紀ルター派の信仰はデンマークやスウェーデン・ノルウェーなどに広がった。17世紀前半の三十年戦争でデンマークやスウェーデンが新教側で参戦したことも理解する。北欧史の出題はまれであるが,幅広く学習しておくことが大切である。

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問9 「ユーゴスラヴィアの解体」(2文と図版の組み合わせ)【18】
正答は1
 →教科書P.351の注(2)「ソ連の指導力に対して,自主的路線を追求しようとしたユーゴスラヴィアは,1948年6月,コミンフォルムから除名された。」
 →教科書P.375の20~22行目「ルーマニアではそれまで強権的支配体制をしいてきたチャウシェスク大統領が,反政府勢力に対してはげしい弾圧をおこなったのち,逮捕され,処刑された」
point
ルーマニアのチャウシェスク大統領は少々難の選択肢である。
東欧の現代史は学習が不足しがちなところなので,教科書などで事実関係を整理すること。

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第3問 (配点 25)
問1 「信仰」(4文選択) 【19】
正答は1
(1) →教科書P.32の19~21行目「エジプトでは約30の王朝が続いた。これらは初期王朝と古・中・新王国および末期王朝などに区分される。王権は強く,王(ファラオ)は 太陽神ラーの子として全国土を支配し,」
(2) →教科書P.66の18~20行目「ヒンドゥー教は,・・・民間のさまざまな神が最高神であるシヴァ(破壊・創造の神)やヴィシュヌ
(世界維持の神)などのもとにまとめられた。」
(3) →教科書P.66の注(2)「唐僧の玄奘義浄は,グプタ朝の滅亡後にナーランダー僧院で学んでいる。」
(4) →教科書P.56の注(3)「ネストリウス派はペルシアを経て唐代の中国に伝わり,景教とよばれた。」
point
古代エジプトの太陽神をラーという。王は「太陽神ラーの子」とされ,ゆるぎない権威をもって支配した。それぞれの宗教について用語の整理をしておくと良い。

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問2 「高句麗の歴史」(4文選択) 【20】
正答は3
(1) →教科書P.98の13~14行目「高句麗は紀元前後に王国を形成し,半島北部から中国東北地方中南部にまで領域をひろげ,313年には楽浪郡を滅ぼした。」
(2) →教科書P.98の11~12行目「4~7世紀,朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が発展し,やがて対立する形勢となった(三国時代)。」
(3) →教科書P.98の19~21行目「百済は,・・・日本とも密接な交流があったが,660年,新羅・唐の連合軍に滅ぼされた。」
(4) →教科書P.98の17~19行目「7世紀はじめ,隋の煬帝の遠征軍を退け,その後もと対立したが,668年,新羅・唐の連合軍にやぶれて滅んだ。」
point
百済は660年に唐と新羅の連合軍に敗れ滅んだ。倭(日本)の援助で再興しようとしたが,663年の白村江の戦いで倭は唐・新羅連合軍に敗れた。

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問3 「歴史上の建国者」(2文正誤) 【21】
正答は1
a →教科書P.79の6~8行目「農民出身の劉邦と楚の名族出身の項羽が天下を争って対抗したが,・・・長安(現在の西安市)に都をおき,漢王朝(前漢)をたてた。」
b →教科書P.130の6~8行目「遼の一族耶律大石は,・・・ウイグル族の協力を得てカラ=ハン朝を倒し,カラ=キタイ(西遼)をたてベラサグンを都とした」
point
劉邦は前漢を興した。12世紀,遼の滅亡直前耶律大石は中央アジアに移り,カラ=キタイを興した。

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問4 「東南アジアの遺物・遺跡」(2文正誤) 【22】
正答は2
 →教科書P.69の6~8行目「前1000年紀後半,ヴェトナム北部に銅鼓をともなうドンソン文化という青銅器・鉄器文化がうまれた。銅鼓は紀元前後ごろから島嶼部にもひろがった。」
 →教科書P.124の13~14行目「遺跡(アンコール=ワット)は,ヒンドゥー教ヴィシュヌ派の寺院である。」
point
前4世紀ころから東南アジア各地に広がった青銅器・鉄器文化で,ヴェトナムの遺跡で青銅製の銅鼓が出土したことからドンソン文化と名づけられた。
アンコール=ワットははじめヒンドゥー教寺院で14世紀ころから大乗仏教の寺院となった。

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問5 「イスラーム教」(4文選択) 【23】
正答は4
(1) →教科書P.116の16~18行目「11世紀なかば,イスラーム神秘主義修道士による宗教運動がおこり,ムラービト朝が成立した。」
(2) →教科書P.124の8~9行目「15世紀にはマレー半島のマラッカ王国がイスラーム国家として発展した。」
(3) →教科書P.115の16~19行目「モンゴルのフラグは,1258年にアッバース朝を滅ぼし・・・イランにイル=ハン国をたて,第7代のガザン=ハンは,イスラームを受容してモンゴル人とムスリムとの融和をはかった。」
(4) →教科書P.125の注(2)「アラブ人が,この地のムスリムおよび彼らの言語をスワヒリ(Swahili,海岸に住む人々の意)とよんだので,この文化はスワヒリ文化と称されている。」
point
東アフリカ北部の海岸地帯に住むバントゥー族の語とアラビア語がまじりあって成立したスワヒリ語は,商業用語として普及して独自の文化を成立させた。

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問6 「オセアニア地域」(4文選択) 【24】
正答は1
(1) →教科書P.300の注(3)「クック(Cook,1728~79)が,1770年に探検したが,オーストラリア・ニュージーランドは,すでにオランダのタスマン(Tasman,1603~59)が到達していた。」
(2) →教科書P.301の4~5行目「ニュージーランドは,19世紀前半以降,イギリスの植民地になったが,先住民(マオリ族)の抵抗もはげしく,」
(3) →教科書P.301の13~14行目「アメリカは米西戦争中にハワイ諸島を併合し,」
(4) →教科書P.343の8~11行目「日本軍はこの間,グアムとビスマルク諸島のラバウルを占領したが,ミッドウェー海戦での敗北(1942年6月)とガダルカナル島からの敗退(1943年2月)を転機として,太平洋地域での後退がはじまった。」
point
3回の航海でイギリスの探検家クックは,タヒチ・ニュージーランド,オーストラリア・ハワイなどを探検した。

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問7 「死後の世界・墓地」(4文選択) 【25】
正答は1
(1) →教科書P.33の図版の解説「オシリス
(2) →教科書にカタコンベの記述なし。初期キリスト教時代の地下墓所。2~3世紀の迫害の時代には避難所・礼拝所として使われた。
(3) →教科書P63の1~6行目「前7世紀~前4世紀ごろ,・・・ウパニシャッド(奥義書)が形成されていった。・・・宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と個人の根源であるアートマン(我)とは究極において同一である(梵我一如)と悟ることで,輪廻からの解脱(精神の自由)が得られると説かれている。」
(4) →教科書に「死の舞踏」の述なし。ペスト(黒死病)の流行で疫病神にとりつかれた人々を描いた絵が制作された。
point
オシリスは死と復活の神。死後の世界をつかさどり,死後の審判を行う。「死者の書」の中に描かれてある。

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問8 「カロリング朝フランク王国」(4文選択) 【26】
正答は4
(1) →教科書P.144の22~24行目「その子ピピンがローマ教皇の承認のもとに王位をうばい,カロリング朝をひらいた。彼はランゴバルド王国をやぶって,756年,ラヴェンナの土地をローマ教皇に寄進した。」
(2) →教科書P.145の6~13行目「ピピンの子カール大帝はランゴバルド王国を滅ぼし,ザクセン(サクソン)とモンゴル系遊牧民のアヴァール人,そしてイスラーム勢力をもやぶって,のちの西ヨーロッパの主要部分を統一して安定をもたらした。」
(3) →教科書P.92の14~16行目「唐の支配体制の基礎は,その子李世民(太宗)のときに固められ,その年号にちなんで彼の治世を貞観の治といった。」
(4) →教科書P.111の5~7行目「第5代カリフのハールーン=アッラシードのとき,アッバース朝は最盛期をむかえた。」
point
ハールーン=アッラシードの統治期間にアッバース朝は黄金時代を迎え,彼自身は『千夜一夜物語』の主人公の一人として有名。

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問9 「修道院」(2文正誤) 【27】
正答は1
a →教科書P.152の5~8行目「クリュニー修道院では,ベネディクトゥスの戒律に復帰することをめざしてカトリック教会の粛正・浄化の運動が起こった。」
b →教科書P.190の8~10行目「ヘンリ8世が王妃との離婚問題で教皇と争い,1534年に首長法を出して国王を首長とするイギリス国教会をつくり,修道院を解散してその財産を没収した。」
point
10世紀以後南フランスにつくられた修道院がクリュニー修道院で,ベネディクトゥスの戒律に復帰することを目指して教会改革運動を展開した。
ヘンリー8世は修道院を解散してその土地を没収し,絶対王政の財源とした。

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第4問 (配点 25)
問1 「アメリカ大陸先住民の諸文明」(4文選択) 【28】
正答は4
(1) →教科書P.104の12~14行目「15世紀なかごろから,高地南部のクスコを都にケチュア族のインカ帝国が発展した。」
(2) →教科書P.104の16~17行目「文字はなかったが,縄の色,結び目(キープ・結縄)でことがらや数量があらわされた。」
(3) →教科書P.103の6~9行目「メキシコ湾岸のタバスコ・ベラクルス地方では,絵文字・暦もうまれた。この都市文明はオルメカ文明とよばれ,その影響下に,紀元前後ごろから,テオティワカン文明マヤ文明が発達した。」
(4) →教科書P.103の17~104の1行目「12世紀に南下したアステカ(メシカ)族は,14世紀,テノチティトラン(現メキシコシティ)を都とし,大ピラミッド神殿をたて,神権政治をおこなった。」
point
テノチティトランは海抜2200mの高原につくられたアステカ王国の都市。15世紀に発展したアステカ王国は1521年にスペイン人コルテスに征服された。

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問2 「イベリア半島の歴史」(4文選択) 【29】
正答は3
(1) →教科書P.167の19~20行目「10~12世紀にカスティリャ・アラゴン・ポルトガルの3王国をたてた。」
(2) →教科書P.188の22~23行目「16世紀はじめ,ハプスブルク家出身のスペイン王カルロス1世は,神聖ローマ皇帝を兼ね(カール5世),」
(3) →教科書P.177の7~8行目「スペインには,『ドン=キホーテ』で名高いセルバンテスがあらわれ,」
(4) →教科書P.116の図版(ナスル朝のアルハンブラ宮殿
point
セルバンテスはスペイン文学史上最大の文豪で,『ドン=キホーテ』でヨーロッパ近代小説の成立に決定的な影響を与えた。彼自身,1571年のレパントの海戦で負傷している。

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問3 「アフリカ」(4文選択) 【30】
正答は4
(1) →教科書P.217の17~19行目「帝はムスリムの宦官鄭和に南海大遠征を命じた。鄭和は7回(1405~33年)にわたって大船隊をひきいて東南アジアからインド洋にいたり,一部はペルシア湾・東アフリカ沿岸にまで達した。」
(2) →教科書P.297の16~17行目「19世紀なかばにおこなわれたリヴィングストンやスタンリーらの探検で内陸部の状況が明らかになる」
(3) →教科書P.299の11~12行目「リベリアは19世紀に独立し,共和国となった。」
(4) →教科書P.361の図版(アンゴラ
point
アンゴラはポルトガルが植民地支配を行ったが,1975年に独立した。しかし独立後まもなく内戦が始まった。

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問4 「古代の文字」(図版選択) 【31】
正答は2
 →教科書P.74の図版(甲骨文字
 →教科書P.61の図版(インダス文字
point
教科書などにある図版は必ず見ておくことが重要。
甲骨文字は漢字の起源の一つである。印章に刻まれたインダス文字はまだ解読されていない。これは封印のほか護符として使われたとされる。

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問5 「南アジアの文化・出来事」(4文選択) 【32】
正答は1
(1) →教科書P.62の10~11行目「前1000年ごろ,アーリヤ人はガンジス川流域に進出して,森林を切りひらき,農耕社会を形成した。」
(2) →教科書P.65の15~16行目「ナーガールジュナ(竜樹)らによって大乗教理がととのった。」
(3) →教科書P.123の3~9行目「これにかわったゴール朝が12世紀末に北インドの大部分を支配した。デリーにはいったアイバク(トルコ系マムルーク出身)は,1206年に自立し(奴隷王朝),以後,320年間,イスラームの5王朝が交代した(デリー=スルタン朝)。」
(4) →教科書P214の8~9行目「アクバルは都をアーグラにおき,全国を州・県・郡にわけ,官僚制度をととのえて中央集権的な国家をきずいた。」
point
インド=ヨーロッパ系のアーリヤ人は前1000年ごろにガンジス川流域に進出し,鉄器の使用と稲作による農耕を定着させた。

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問6 「イギリスの植民地」(4文選択) 【33】
正答は2
(1) →教科書P361の25~P362の1行目「サハラ砂漠以南では,1957年ガーナ共和国エンクルマの指導のもとにイギリスから独立し,」
(2) →教科書P201の12~13行目「アフリカでは1652年にケープ植民地をひらき,北米東岸にもニューネーデルラント植民地を建設した。」
(3) →教科書P.357の5~6行目「マラヤは,1948年にマラヤ連邦が成立し,1957年,正式にマラヤ連邦として独立した。」
(4) →教科書P.279の2~6行目「ビルマに対して,イギリスは,3回にわたるイギリス・ビルマ戦争で,南部ビルマや,コンバウン朝の支配する北部ビルマなどを占領し,ついに全ビルマをインド帝国に編入した。」
point
ケープ植民地はオランダ東インド会社が開いたが,ウィーン会議でイギリスの領有が認知され,1910年までイギリスの植民地であった。

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問7 「人の移動・移動」(4文選択) 【34】
正答は1
(1) →教科書P.202の8~10行目「北アメリカにおいては,17世紀はじめから東岸にヴァージニア植民地がひらかれ,さらに本国で宗教上の迫害を受けたピューリタンなどがニューイングランド植民地をひらいた。」
(2) →教科書P.147の1~5行目「ロロがひきいたノルマンの一派は,10世紀はじめフランスにノルマンディー公国をたてた。」
(3) →教科書P.111の20~22行目「ウマイヤ朝の一族は,北アフリカからイベリア半島にのがれて,756年,コルドバで後ウマイヤ朝をおこし,アミールという称号を採用して,アッバース朝から自立した。」
(4) →教科書P.158の15~17行目「ドイツ騎士団は帰郷後に東方植民運動を展開し,これが,のちにプロイセン公国になった。」
point
1620年メイフラワー号で渡米したピューリタンによってプリマスが開かれ,ついでマサチューセッツ植民地などニューイングランド植民地が開かれた。

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問8 「遊牧世界と農耕世界のかかわり」(4文選択 【35】
正答は2
(1) →教科書P.88の11行目「五胡が華北にあいついで王朝をたてた」
(2) →教科書P.59の1~2行目「ササン朝は,その後いちじ衰えたが,6世紀なかば,ホスロー1世が中央アジアから侵入した遊牧民エフタルを滅ぼし,」
(3) →教科書P.96の2~4行目「反発した節度使安禄山は,史思明とともに755年に反乱をおこした(安史の乱)。」
(4)  →教科書P.84の12~13行目「前138年ごろ,前漢の武帝は匈奴挟撃の交渉のため張騫を大月氏国に派遣した。交渉は成功しなかったが,西域の事情がくわしく報告された。」
point
エフタルはイラン系かトルコ系の2説がある。ササン朝やインドのグプタ朝に侵入したが,6世紀半ばに突厥とササン朝のホスロー1世に滅ぼされた。

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問9 「王朝の西進」(組み合わせ選択) 【36】
正答は4
(1) →教科書P.116の1~4行目「ザンギー朝君主がエジプトに派遣したクルド系サラディン(サラーフ=アッディーン)は,ファーティマ朝の実権をにぎってアイユーブ朝をひらいた。」
(2) →教科書P.115の3~5行目「セルジューク朝の発展は,トルコ系遊牧民が集団で西進するきっかけとなり,その後のキリスト教諸国による十字軍遠征の契機となった。」
point
リード文中の「ビザンツ帝国を脅かした」という記述から地図でビザンツ帝国の位置が分かれば,bと判断できる。11世紀にセルジューク朝に小アジアを奪われて圧力を受けると,ビザンツ帝国は西ヨーロッパに援助を求めた。

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