2009年度 センター試験【日本史B】解説
第1問 主題学習に関する問題(地域社会の歴史と文化)(配点 12点)
主題学習の中の「地域社会の歴史と文化」
A 古代の行政区画について
問1「城柵と五畿内・七道」(正しいものの組合せ択一)  1  正答は(2) 
→ 教科書 表紙見返し「古代の行政区画図」・「古代の畿内地方」
→ 教科書 P.63の10~13行目 「全国を国・郡・里に区分して,国司・郡司・里長をおいた……さらに国をいくつか集めて畿内・七道の広域の行政区画とした。」
→ 教科書 P. 59の12~15行目 「朝廷は支配地の拡大にも留意して, 孝徳朝にすでに越後に渟足柵・磐井柵をおいて蝦夷支配の根拠地としていたが,斉明朝には阿倍比羅夫が水軍をひきい,海岸づたいに秋田・津軽の方面まで進出した。」
→ 教科書 P.67の11~13行目 「辺境地域の開拓もすすめ, 日本海方面では712(和銅5)年に出羽国をおき, 太平洋方面では多賀城をきずいて鎮守府をおき, 東北経営の拠点とした。 」
→ 教科書 P.77の4~7行目 「坂上田村麻呂を征夷大将軍とする第3次軍は, 蝦夷の拠点胆沢盆地にすすんで,蝦夷の首長阿弖流為を屈服させ,胆沢城をきずいて鎮守府を多賀城からここに移した。
その後,志波城をきずいたが,軍事行動はまもなく中断された。」
→ 教科書 P.60の4~8行目 「663年,白村江の戦で唐・新羅の連合軍にやぶれた。 朝廷は大宰府を守るために水城や大野城をつくり,対馬・筑紫・長門・讃岐・大和などにも朝鮮式山城をきずいて,唐・新羅の来襲にそなえた。」
point
東北地方には蝦夷征討のために城柵をきずいた。水城は唐・新羅の来襲から大宰府を守るための軍事施設である。播磨~長門までの8国は山陽道で,南海道は四国と紀伊・淡路6国からなる。
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問2「律令国家の地方支配」(正しいものの択一)  2  正答は(1)

→ 教科書 P.63の13~16行目 「都には左京職・右京職,摂津には摂津職,九州には大宰府がおかれた。大宰府は「遠の朝廷」とよばれ,外交や西海道諸国の統括にあたった。」               
→ 教科書  P.66の12~14行目 「兵士たちは,平時は交替で訓練を受けるが,一部の者は,
へいって1年間勤務する衛士
や,3年間北九州の沿岸を守る防人の任にあてられた。」
→ 教科書 P.67の6~7行目 「また, 京内には東市・西市がおかれ,市司の管理のもとに各地
の産物が取引された。」
→ 教科書 表紙の見返しの「近江国」

point
大宰府は九州に,衛士・東西の市司は京内に配置した。近江国は東海道ではなく,東山道に所属した。
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問3「中世から近世の沖縄県と北海道」(正しいものの択一)  3  正答は(3)

→ 教科書 P.140の10~16行目 「沖縄では12世紀になると, 各地に按司とよばれる地方豪族があらわれてグスク(城)をつくった。 14世紀になると政治的統合がすすみ, 中山・山南(南山)・山北(北山)の三山分立抗争時代をむかえ,…… ついで中山王の尚巴志は山南・山北を倒し,1429年に琉球王国をたてて都を首里におき, 沖縄を統一した。」    
→ 教科書 P.141の5~9行目 「津軽の十三湊は,14世紀には北方地域と畿内をむすぶ日本海貿易の北の湊として栄えていた。 蝦夷地とよばれた北海道には古くからアイヌが住み,漁業や狩猟の生活を送るとともに,渡島半島南部に進出しはじめた和人との間でさかんに交易をおこなった。和人たちは津軽の安藤(東)氏の支配下にあり, 沿岸ぞいに点々と居住地をひろげ, 有力な館をきずいて館主といわれる領主に成長し, 貿易の利益を独占しようとした。 」  
→ 教科書 P.187の8~11行目 「農産物による収入が期待できなかった松前藩では,もっぱらアイヌとの交易によって収入を得,上級家臣への知行給付も交易権の分与という形をとった。交易のおこなわれる場所を商場といい,この知行給付制度を商場知行制という。」
→ 教科書 P.186の13行目~P.187の1行目 「1609(慶長14)年,島津氏は家康の許可を得て琉球を征服したが(琉球征服),明の冊封は継続されたため,日明両属の形をとることになった。」

point
琉球(沖縄)・蝦夷地(北海道)の歴史はパターンを変えてよく出題されるので注意しよう。琉球が統一されたのは15世紀のことで, 江戸時代は日明・日清両属の形をとった。蝦夷地に幕府 の支配が及ぶのは14世紀のことである。
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B 明治時代以降の地方行政区画の整備について
→ 教科書 P.254の11~13行目 「新政府はこの状勢をふまえて1871(明治4)年, 薩長土3藩に兵を提供させ親兵とし,これを軍事的背景として同年7月,廃藩置県を断行した。
→ 教科書 P.254下注① 「261藩が廃止され, 3府302県が設置されたが, 同年11月には3府72県に整理された。
問4「江戸時代の大名」(正しいものの択一)  4  正答は(4)

→ 教科書 P.177の5~9行目 「家康は1603(慶長8)年,征夷大将軍となって江戸に幕府をひらき,翌年には,諸大名に国ごとの郷帳(村単位に石高を記したもの)・国絵図の作成を命じて,全国の土地の掌握者であることを明らかにした。
→ 教科書 P.178の4~9行目 「秀忠や1623(元和9)年に将軍となった家光は,諸大名に領知宛行状(土地の領有を認める文書)を出して将軍と大名との主従関係を確認するとともに,大名の改易・厳封・転封を積極的におこなった。
→ 教科書 P.225の17~20行目 「幕府は1805(文化2)年に関東取締出役(八州廻り)をおいて治安維持をはかった。
→ 教科書 P.225の下注⑤ 「関東の代官の下役人から選任された者が,関八州(関東8カ国)を幕府直轄地・私領の区別なく廻村し,治安にあたった。
→ 教科書 P.254の13~14行目 「…… 同(1871)年7月,廃藩置県を断行した。全国の知藩事(旧大名)は罷免され,中央から府知事・県令が派遣され,ここに集権化が達成された。」

point
家康~家光の時代には武断政治を断行し,改易・厳封・転封を行い,牢人が大量発生して問題となった。廃藩置県は地方支配において旧藩主(大名)の影響力を根こそぎ解体した政策。
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問5「地方三新法」(誤っているものの択一) 5  正答は(1)

→ 教科書 P.256の15~17行目 「同(1871)年,華族・士族・平民の3属籍にわける戸籍法を公布し,翌1872(明治5)年, 全国的に統一された最初の戸籍を作成した(壬申戸籍)。
→ 教科書 P.269の1~4行目 「1878年に三新法の制定という地方制度の大改革がおこなわれ, 府県会や町村会が設置されたことも豪農らの政治参加を促進した。 」
→ 教科書 P.269の下注③ 「(三新法は)郡区町村編制法,府県会規則,地方税規則よりなる。
→ 教科書 P.278の1~3行目 「廃藩置県後,政府は大区・小区制という地方制度をとったが,その実態は地域により異なっており,1878(明治11)年制定の三新法が最初の統一的地方制度であった。

point
三新法は明治期の地方行政支配におけるキーワードである。しっかりその内容を把握しておこう。
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問6「明治・昭和期の地方制度」(正しいものの択一) 6  正答は(1)
→ 教科書 P.267の表「おもな来日外国人と業績」 「モッセ 1886 (独)地方自治制創設に貢献。
→ 教科書 P.278の3~6行目 「これ(三新法)により府県単位の議会が設置され,住民の意向を地方行政に反映する道がひらかれた。さらに1888年に市制・町村制,1890年に府県制・郡制が制定され,地方自治制度が確立した。」
→ 教科書 P.360の8~12行目 「新憲法の精神にもとづいて,家族制度・地方制度・司法制度などにも民主的,近代的な改革が加えられた。 ……地方自治法により地方公共団体の首長は住民の直接選挙制となり,地方行政や警察に権力をふるってきた内務省も廃止された。」
point
明治期の地方制度は中央集権的な性格が強く出ているのに対して,戦後のそれは地方自治の精神が前面に出ていることに注意。
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第2問 原始から中世初期までの社会・文化に関する問題 (配点 18点)
A 弥生時代の水稲耕作について
→ 教科書 P.38の13~17行目 「通常の住居は竪穴式で,集落は水田に近い平野部に営まれることが多かった。5~6軒が集落の基礎単位であったが,地域社会の拠点となるような20~30軒の大集落もあり, 集落のまわりに深い濠をめぐらして防御した環濠集落も存在する。 集落では, 高床倉庫や貯蔵穴を設けて収穫物を共同で管理する……」
問1「弥生時代の集落」(正しいものの組合せ択一) 7  正答は(4)
→ 教科書 P.38の10~12行目 「弥生時代にはひろい範囲に水稲農業が普及したが,雑穀類や木の実など,コメ以外の植物性食料,狩猟や漁労によって獲得した動物性食料への依存度もなお少なくなかった。
→ 教科書 P.38の18~19行目及びP.42の1~4行目 「農耕生産の安定や集団の繁栄を願って,銅鐸などの青銅器を用いた祭祀がさかんにおこなわれた。」及び「これらの多く(銅鐸や銅剣・銅矛・銅戈)は祭器として用いられたが,種類に応じて分布が異なるのは,祭祀を共通にする地域的なまとまりが形成され,小国どうしの連合がうまれつつあることを反映したものと考えられている。」
→ 教科書 P.38の20行目 「人が死ぬと集落の近くの共同墓地に葬られた。
→ 教科書 P.39の14行目~P.40の4行目 「農業の発展によって社会関係にも変化が生じた。治水・灌漑には,集落間の共同作業が必要であったから,中小河川の水系にそった多くの集落をあわせた地域を統率する首長があらわれ,地域集団をまとめた。地域集団の首長は,共同作業を指揮したり農耕祭祀をつかさどるだけではなく,他の集団との交易や争いでも主要な役割をはたして政治的権限を強めた。
point
②か④か解答に迷うところだが,「稲作によって集落の人々の生活が安定すると」とあるところから,④となる。
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問2「弥生時代の社会」(正しいものの択一) 8  正答は(1)
→ 教科書 P.41の「史料」 「桓・霊の間,倭国大いに乱れ,更々相攻伐して歴年主なし。(『後漢書東夷伝』)」。
→ 教科書 P.44の19行目~P.45の2行目 「大和政権は朝鮮半島に侵入して高句麗とともにたたかった。414年にたてられた高句麗の好太王(広開土王)碑文には, 4世紀末から5世紀はじめご ろ, 諸国が朝鮮半島で対立し, たたかった状況が記されている。
→ 教科書 P.34の5~10行目 「この(縄文)時代には,動植物だけでなく,あらゆる自然物や自然現象に精霊が宿ると考えられ,信仰された。これをアニミズムという。また,女性の特徴を示す土偶や男性を表現した石棒などは,きびしい自然とたたかうなかで,収穫のゆたかさや集団の繁栄を祈願する呪術的な儀礼が発達したことを示している。
→ 教科書 P.60の5~8行目 「朝廷は大宰府を守るために水城や大野城をつくり,対馬・筑紫・長門・讃岐・大和などにも朝鮮式山城をきずいて,唐・新羅の来襲にそなえた。
point
土偶と埴輪を混乱して覚えないようにしよう。小国家の分立から大和政権の成立過程を基本的な史料をもとにしてまとめておこう。
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B 律令国家の全国支配について
→ 教科書 P.63の10~12行目 「全国を国・郡・里に区分して,国司・郡司・里長をおいた。国司は中央から交替で派遣され,国造などその地の豪族や有力農民から任命される郡司・里長を指揮・監督して国をおさめた。
問3「計帳と出挙」(正しいものの択一) 9  正答は(4)
→ 教科書 P.66の2~7行目 「凶作にそなえて粟をおさめさせる義倉や, 春に国家が農民に稲を貸しつけ, 秋に利息とともに回収する公出挙の制がある。…… とくに公出挙の利稲は,地方財政の重要な財源であったから, その貸し付けはしだいに強制的となり, 農民を苦しめた。 」
→ 教科書 P.65の11行目 「調・庸は毎年作成される計帳にもとづいて徴収された。
point
戸籍は6年に1度作成して班田収授の基本台帳とされたのに対して,計帳は毎年作成され調・庸賦課の基本台帳とされた。
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問4「律令国家が地方でおこなった事業」(古いものから年代順に正しく配列) 10  正答は(6)
→ 教科書 P.77の4~7行目 「坂上田村麻呂を征夷大将軍とする第3次軍は,蝦夷の拠点胆沢盆地にすすんで,蝦夷の首長阿弖流為を屈服させ,胆沢城をきずいて鎮守府を多賀城から移した。その後,志波城をきずいたが,軍事行動はまもなく中断された。」
→ 教科書 P.70の18行目~P.71の2行目 「聖武天皇は,政治と社会の動揺を仏教の力によってふせごうとし,741(天平13)年に国分寺・国分尼寺の建立を命じ,743(天平15)年には,紫香楽に盧舎那仏をつくる大仏造立の詔を発した。
→ 教科書 P.67の9~10行目 「政府は,平城京と諸国の国府(国衙の所在地)をむすぶために道路を整備し,約16㎞ごとに駅家をおいて中央と地方の連絡に利用した(駅制)。
point
蝦夷征討は平安時代の桓武・嵯峨天皇時代に国家政策として採用され,多大な犠牲の中である一定の到達点を示した。
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C 律令支配下の有力農民について
問5「10世紀以後の律令国家の地方支配」(誤っているものの択一) 11  正答は(3)
→ 教科書 P.82の14~15行目 「その(菅原道真失脚)後,時平の主導のもとに律令制を維持するため, 902(延喜2)年には,最後となった班田制の励行令や,延喜の荘園整理令が出された。
→ 教科書 P.85の17行目~P.86の4行目 「口分田などの公田を新たに名とよばれる課税単位に編成し,……… 田地の耕作を請け負った(請作)者は田堵とよばれたが,なかでも地方豪族は,規模の大きい名を請け負い大名田堵とよばれ,自己の隷属民や雇用した農民を使って活発な農業生産活動をおこなった。」
→ 教科書 P.71の4~11行目 「政府は, 743(天平15)年に墾田永年私財法を制定し, 一定の限度内で開墾した土地を永久に私有することをゆるした。 これは土地の開発を推進する方策であるが, 律令体制の基礎である土地公有の原則をやぶる法でもあった。……これが荘園であるが,奈良時代から平安時代初期ごろのものを初期荘園という。」
→ 教科書 P.85の6~10行目 「902(延喜2)年に荘園整理令を発布した政府は, …… やがて従来の政策を転換し,国司の権限を強化して,地方政治をその責任者である受領に一任するとともに,班田制の実施を放棄した。」
point
10世紀以降, 律令国家は課税対象を人間から土地に転換するとともに, 国司に地方支配を一任して一定額の租税の納入を請け負わせた。
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問6「院政期の文化」(正誤の組合わせとして正しいものの択一) 12  正答は(2)
→ 教科書 P.106の11~12行目 「当時の民間の流行歌であった今様が貴族社会でもてはやされ,後白河法皇はこれを『梁塵秘抄』に編纂した。
→ 教科書 P.106の9~11行目 「芸能では,貴族は前代以来の歌謡である催馬楽や朗詠を楽しんだが,民間の娯楽である猿楽や,地方農村の労働歌舞であった田楽にも興味を示した。」
point
院政期の貴族たちは,民間娯楽の猿楽や田舎の労働歌舞の田楽に興味関心をもち,熱中するようになった。
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第3問 中世から近世までのの政治と外交に関する問題 (配点 18点)
A 鎌倉幕府の御家人について
問1「鎌倉時代の地頭」(正しいものの択一) 13  正答は(4)
→ 教科書 P.110の7~9行目 「荘園・公領におかれた地頭は,それまでの下司や郷司などの権限をそのままひきつぐのが原則であった。」
→ 教科書 P.109の14~17行目 「守護は国地頭の権限を縮小されて,もっぱらその国の御家人たちを指揮し,国内の治安維持にあたることになり,頼朝が没するころには大番催促と謀叛人・殺害人の逮捕の三つが大犯三ヵ条とよばれて,守護の最も重要な仕事になっていった。」
→ 教科書 P.113の下注③ 「このとき(承久の乱後)の地頭は,それまでおかれていた地頭(本補地頭)と区別して,新補地頭という。新補地頭も没落した前任者の権限をそのまま継承したが,それが極端に小さい場合,新補率法が適用され……。」
→ 教科書 P.119の8~11行目 「鎌倉時代のはじめには,年貢の収納,田地の管理など荘園内の権限をきびしく制限されることの多かった地頭も,承久の乱をすぎると,つぎつぎに非法をくりかえすようになった。」
point
鎌倉幕府の御家人である守護と地頭の権限をそれぞれしっかりと理解しておくことが肝心である。
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問2「13世紀初期の政治史」(正誤の組合せとして正しいものの択一) 14  正答は(1)
→ 教科書 P.112の15~17行目 「1203(建仁3)年に時政は頼家を伊豆修禅寺に幽閉し,弟の実朝を将軍にたてて,みずからは政所の別当に就任し,北条氏による執権政治への道をひらいた。」
→ 教科書 P.112の17~20行目 「ついで時政の子北条義時は,1213(建保元)年に和田義盛を倒して侍所別当の地位をうばい, ここに北条氏は民政・軍事にわたる幕府内の要職を独占して,幕政の実権をにぎることになった。」
point
源氏将軍は3代で終了し,その後は北条氏が有力御家人を抑えて執権政治を展開した。
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問3「御成敗式目が制定された理由」(正しいものの組合せの択一) 15  正答は(3)
→ 教科書 P.169の3~6行目 「まず太閤検地とよばれる全国的な土地調査をおこない,土地一区画ごとに,田畑の等級を定め,また新たな基準で面積をはかり,石高を明らかにした。
→ 教科書 P.115の5~6行目 「武家法が適用されるのは,幕府や六波羅などにもちこまれる御家人同士,あるいは御家人と荘園領主との間の訴訟などにかぎられていた。
→ 教科書 P.114の7~9行目 「これ(御成敗式目)は頼朝以来の幕府政治の慣例にのっとって,守護や地頭の任務と権限,幕府の裁判手続きなどを決めるとともに……。」
→ 教科書 P.123の1~4行目 「幕府は,1297(永仁5)年に徳政令を発布して,御家人所領の売却と質入れを禁止するとともに,すでに売却した所領については,これをとりもどさせ,御家人に対する金銭上の訴訟を受けつけないことにして,彼らの窮乏を救おうとした(永仁の徳政令)。
point
①は太閤検地の内容,④は永仁の徳政令の内容である。 御成敗式目のポイントをしっかりまとめていれば簡単である。
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B ヨーロッパ人の来航とその影響について
問4「鉄砲とキリスト教の伝来」(語句の正しい組合せ択一) 16  正答は(2)
→ 教科書 P.162の2~5行目 「1543(天文12)年,ポルトガル人をのせた中国船が,南西諸島の種子島に漂着し,ヨーロッパ人による日本進出がはじまった。領主の種子島時堯はポルトガル人のもつ鉄砲を買い求め,家臣らにその製法を学ばせた。」
→ 教科書 P.163の15~16行目 「1549(天文18)年,イエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルが鹿児島に渡来した。
point
鉄砲・キリスト教の伝来は基本中の基本。
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問5「キリスト教の布教」(正誤の組合せとして正しいものの択一)  17  正答は(1)
→ 教科書 P. 164の7~10行目 「1582(天正10)年, キリシタン大名の大友義鎮・大村純忠・有馬晴信は宣教師ヴァリニャーノのすすめにより, 伊東マンショら4名の少年を使節としてローマ教皇のもとに派遣した(天正遣欧使節)。
→ 教科書 P.165の6~9行目 「イエズス会は,布教のため教会やセミナリオ・コレジオといった学校をつくり,そこで日本人宣教師などを養成した。」
point
キリスト教の布教の過程がしっかりまとまっているか。
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問6「南蛮文化・南蛮貿易」(正しい組合せの択一) 18 正答は(3)
→ 教科書 P.187の挿絵 「琉球使節
→ 教科書 P.164の挿絵 「南蛮屏風
→ 教科書 P.164の挿絵 「天草版『平家物語』
→ 教科書 P.75の挿絵 「螺鈿紫檀五絃琵琶
point
常日頃から教科書の挿絵や図表もしっかり見る習慣を身につけよう。
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第4問 近世の政治と社会に関する問題(配点 17)
A 江戸の繁栄と海防について
問1「日本橋と海国兵談」(正しい組合せの択一) 19  正答は(1)
→ 教科書 P.206の20~21行目及びP.207の下注⑤ 「江戸・大坂では,主要商品ごとに専門の卸売市場が設けられた。」及び「大坂堂島の米市場,江戸日本橋や大坂雑喉場の魚市場,江戸神田や大坂天満の青物市場などがよく知られている。
→ 教科書 P.222の14~16行目及び同頁の史料「海防論書」 「しかし, (松平定信は)政治批判に対してはきびしくのぞみ,『海国兵談』を出版して海防の急を説いた林子平を罰した。」及び 「……江戸の日本橋より唐,阿蘭陀まで境なしの水路なり。……。『海国兵談』
→ 教科書 P.229の7~9行目 「蘭学者の高野長英と渡辺崋山はそれぞれ『戊戌夢物語』・『慎機論』を書いて幕府の異国船打払政策を批判した。
point
江戸時代の三都(江戸・大坂・京都)のことについては,よく出題されるのでしっかりまとめておこう。堂島は大坂の経済の拠点。
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問2「江戸城の防衛」(誤っているものの択一) 20  正答は(4)
→ 教科書 P.180の2~4行目 「領地の石高に応じた軍役を負担するほか,手伝普請といって江戸城や大坂城などの普請や大河川の普請などにも動員された。
→ 教科書 P.196の下注④ 「江戸城の天守閣は1657(明暦3)年に明暦の大火で,また大坂城の天守閣も1665(寛文5)年に焼失したが,ともに再建されなかった。」
→ 教科書 P.247の4~8行目 「尊攘派はこの(孝明天皇の妹和宮と将軍家茂)結婚に反発し,1862(文久2)年1月,水戸藩浪士は坂下門外で安藤(信正)をおそい,これを失脚させた(坂下門外の変)。
→ 教科書 P.251の18行目~P.252の1~2行目 「新政府は征東軍を派遣したが,慶喜が恭順方針をとったので,同(慶応4・1868)年4月,江戸城の無血開城となった。
point
江戸城は幕末の勝海舟と西郷隆盛の極秘会談により新政府軍の総攻撃を受けることなく,新政府軍に明け渡された。しかし,これに反対する彰義隊は上野に立てこもり,新政府軍と衝突して敗北した(上野戦争)。
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問3「江戸城下における町人地」(正しいものの択一) 21  正答は(3)
→ 教科書 P.184の5~7行目 「都市に住む庶民は,家屋と土地をもつ者が町人(家持・地主)とされ,家屋を借りている借家・店借や屋敷地を借りている地借とは区別された。
→ 教科書 P.228の15~18行目 「1837(天保8)年に大坂町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎が,窮民の救済に応じない役人や豪商をうつため,門弟や民衆とともに大坂市中で武装蜂起した(大塩の乱)。
→ 教科書 P.222の9~11行目 「七分金積立法(七分積金の法)を設けて町々の町入用(町費)の節約分の7割を毎年町会所に積みたてさせ,その運用によって貧民救済や中・下層町人への低利融資をはかった。
→ 教科書 P.193の12~14行目 「100万都市であり最大の消費都市であった江戸には,幕府の諸機関や旗本・御家人屋敷,藩邸が集中し,武家人口が半数を占めた。
point
町政に参加できるのは家持・地主階層。江戸の人口は,武家・町人がそれぞれ約半数で構成。大塩は大坂町奉行の元与力。細部にわたって教科書を丁寧に読み込んでおこう。
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B 鈴木牧之『北越雪譜』(史料問題)の一節と『尾張名所図会』(絵画資料)から
問4「越後の光景」(正しいものの択一) 22  正答は(3)
→ 教科書 P.203の21~22行目 「麻織物としては,奈良晒・近江晒・近江蚊帳・越後縮などがあった。
point
史料をゆっくり落ち着いて読み,内容を正確に理解するしかない。
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問5「江戸時代の尾張の織屋でのマニュファクチュア」(誤っているものの択一) 23  正答は(4)
→ 教科書 P.226の挿絵及びキャプション 「下総結城地方の機織の技術が19世紀はじめころ尾張に伝わり, 急速に発展した。多くの女性が分業ではたらいており,マニュファクチュアのようすがうかがわれる。
→ 教科書 P.226の19行目~P.227の1~6行目 「18世紀には, 問屋が都市民や農民に原料や資金を前貸し,加工賃を払って製品をひきとる問屋制家内工業が広汎に展開していたが,19世紀前半期になると綿織物業や絹織物業では,賃労働者を工場に集め,生産の各工程に数名ずつ配置して労働に従事させるマニュファクチュア(工場制手工業)も出現した。
point
絵画資料をよく見て,その光景の特色を把握する能力が要求されている。併せて日頃から資料の説明文もしっかり読む習慣を身につけよう。
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問6「鈴木牧之の生きた時代(1770~1842年)の出来事」(正しいものの択一) 24  正答は(1)
→ 教科書 P.222の15~16行目 「(松平定信は)倹約令を出すとともに風俗をきびしく取り締まり,洒落本作者の山東京伝らを処罰した。
→ 教科書 P.181の11~14行目 「1627(寛永4)年,幕府は,後水尾天皇が幕府の了解をえず大徳寺などの僧侶に紫衣着用を勅許したことを問題にし,これをとりけした。翌々年,これに抗議した大徳寺の沢庵らが流罪にされたが,この事件を契機に後水尾天皇が譲位した。」
→ 教科書 P.221の10~13行目 「湯島の聖堂付の儒官に柴野栗山らを任命して聖堂を旗本・御家人などの教育機関として充実させ,1790(寛政2)年には林家に朱子学以外の学問を聖堂で教えることを禁じた(寛政異学の禁)。
→ 教科書 P.176の1~3行目及び下注① 「出雲の阿国が創始したといわれる歌舞伎踊りもさかんとなった。」及び「念仏踊りなどの芸能をひろくとりいれて創始された。当時は女の一座で女歌舞伎といわれたが,のち江戸幕府に禁止されて少年による若衆歌舞伎となり,これも禁じられて,現在おこなわれているような成年男子による野郎歌舞伎となった。
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安永~天保頃(田沼時代~天保の改革)の時期に焦点を絞って丁寧に見ていくとよい。
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第5問 近代の政治・社会に関する問題(配点 12点)
問1「加藤高明内閣の普通選挙法と治安維持法」(正しい組合せの択一) 25  正答は(1)
→ 教科書 P.324の14行目~P.325の2行目 「護憲三派(加藤高明)内閣は,よりひろい国民的基礎の上に政党政治を定着させるために,1925年, いわゆる普通選挙法を制定し, 原則として25歳以上のすべての男子に選挙権を与えた。………同時に,普通選挙法の施行が共産主義者や無政府主義者を台頭させることを恐れた加藤内閣は,国体の変革と私有財産制の否定をめざす者を取り締まる,治安維持法を普選法と抱き合わせで制定した。
→ 教科書 P.369の18~21行目 「内政では,1952年の破壊活動防止法の制定, 1954年の警察制度の中央集権化などによる治安体制の強化がすすめられ,教育の分野では愛国心教育の必要が強調され,1954年には教職員の政治活動を規制する教育二法が成立した。 」
→ 教科書 P.323の2~5行目 「米騒動がようやく終息した1918(大正7)年9月,……立憲政友会総裁原敬を中心に,陸・海軍大臣,外務大臣以外のすべての閣僚を政友会員で占める本格的な政党内閣が誕生した。
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加藤高明内閣のアメとムチの政策による普通選挙法と治安維持法はあまりにも有名。
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問2「普選運動と政府の対応」(古い順に正しく年代配列したものの択一」 26  正答は(2)
→ 教科書 P.300の11~12行目 「日露戦後の1906年には堺利彦らが最初の合法社会主義政党である日本社会党を結成した。
→ 教科書 P.323の18行目~P.324の4行目 「関東大震災の後におきた虎の門事件で山本内閣が倒れ,1924(大正13)年1月貴族院に基礎をおく清浦内閣が成立すると,憲政会・政友会・革新倶楽部が護憲三派連盟を結成し,特権内閣打倒・政党内閣実現をめざして第2次護憲運動にたち上がった。
→ 教科書 P.323の9~12行目及び下注③ 「ひろがりつつあった普通選挙要求運動に対しては,抑圧的態度でのぞんだが,その一方では,選挙権を拡張し,小選挙区制を採用して,1920年の総選挙に圧勝し, 国民の民主化要求をみずからの政治基盤に組み入れた。 」及び「1919年, 選挙資格を, 直接国税3円以上納める者にまで拡大した。
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明治憲法体制下の制限選挙(1889年)から戦後の婦人参政権獲得(1945年)までの選挙制度の歩みがしっかりまとめられているか否か。直接国税3円の時は,原敬内閣。
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問3「男女平等・女性の権利拡張」(正しい組合せの択一) 27  正答は(2)
→ 教科書 P.273の4~6行目 「1885年,大井憲太郎や女流民権家の景山(福田)英子ら旧自由党の左派の一部が,朝鮮の内政改革のための挙兵を計画し、朝鮮に渡ろうとしたところを大阪で逮捕された(大阪事件)。」
→ 教科書 P.320の1~7行目 「無政府主義者大杉栄・伊藤野枝らが甘粕正彦憲兵大尉に殺されたり(甘粕事件),労働運動の指導者ら約10名が警察署で軍隊によって殺害される(亀戸事件)といった, 社会運動に対する弾圧事件などもおきた。また甘粕事件ががきっかけで同年末には虎の門事件がおきた。 」
→ 教科書 P.318の21行目~P.319の2行目  「1920年には平塚(らいてう)・市川房枝・奥むめおらを中心に,婦人参政権(婦選)の獲得や,女性の政治集会への参加を禁じた治安警察法第5条の撤廃を求めて新婦人協会を結成した。
→ 教科書 P.318の16~20行目  「1918(大正7)年には平塚と与謝野晶子を中心に,女性の自立には経済的自立が必要か,国家による母性保護が必要かをめぐって,激しく論争(母性保護論争)をたたかわせるに至った。」

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最近女性史関係の出題が増えて来ているので注意しよう。
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問4「日中戦争勃発前後の社会動向」(正誤の組合せとして正しいものの択一) 28  正答は(3)
→ 教科書 P.352の2~3行目 「不敬罪や治安維持法・宗教団体法などによって,宗教も強い統制を受け,国民のあいだには国家神道が強い力を及ぼした。
→ 教科書 P.351の21~23行目及び次ページ下注① 「日中戦争を批判する見解を発表した矢内原忠雄,ファシズムを批判した河合栄治郎らは大学を追われ,日本無産党・労農派グループも検挙された(人民戦線事件)。」及び「1937年に反ファッショ人民戦線を企図したとして, 加藤勘十・山川均・鈴木茂三郎らが検挙され,日本無産党が結社禁止となり(第1次),翌年大内兵衛・有沢広巳・美濃部亮吉ら教授グループが検挙された(第2次)。」
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日中戦争時には歴史学者・経済学者・自由主義者・社会主義者・共産主義者らが思想弾圧の標的とされた。
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第6問 幣原喜重郎(昨年度は尾崎行雄)を介した大正・昭和史に関する問題(配点 23)
A 協調外交体制について
問1「ロシア革命に対する日本軍の介入」(正誤組合せとして正しいものの択一) 29  正答は(2)
→ 教科書 P.311の20~23行目及び下注④ 「……連合国は,当時シベリアにいたチェコ軍の救出を名目に,革命への武力干渉をはじめた。日本も1918年8月には出兵し(シベリア出兵),最高時7万3000人の兵を送って, 東部シベリアの要衝を占領した。 」及び「日本は列強が撤退した後もなかなか撤退できず,尼港事件など敗北を重ね,1922年ようやく撤兵した。
→ 教科書 P.316の1~3行目 「1918(大正7)年夏, シベリア出兵のための米の買いつけが米価の高騰に拍車をかけると, 7月下旬,富山県魚津市で「越中女房一揆」とよばれる騒擾がおきた。
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米騒動の原因は,シベリア出兵を見込んだ米穀商の米の買い占めによる米価の高騰にあった。
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問2「海軍軍縮の歩み」(古い順に年代配列の択一) 30  正答は(5)
→ 教科書 P.326の9~11行目 「……翌(19)28年にはパリで開かれた不戦条約会議に参加して,戦争放棄に関する条約(パリ不戦条約)に調印した。
→ 教科書 P.330の4~7行目 「1930年, ロンドンで開催された補助艦制限のための軍縮会議に元首相若槻礼次郎と海軍大臣財部彪を派遣し,日本の補助艦保有トン数を対米総括6.97割(大型巡洋艦6割)に制限するロンドン海軍軍縮条約を締結した。
→ 教科書 P.321の2~8行目 「1921年11月から翌年2月まで,……ワシントンで海軍軍縮会議が開催された。日本からは原内閣の海軍大臣加藤友三郎が全権として参加し,主力艦(戦艦・巡洋戦艦)と航空母艦の保有比率を,アメリカ・イギリス5に対して日本を3に制限するワシントン海軍軍縮条約,太平洋地域の領土保全を相互に約束する四か国条約,中国の主権と独立の尊重,領土の保全と門戸開放・機会均等をうたう九か国条約に調印した。」
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軍縮の歩みをまとめると,Ⅲワシントン海軍軍縮条約(1921年)→Ⅰパリ不戦条約(1928年)→Ⅱロンドン海軍軍縮条約(1930年)の順となる。
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B 幣原外交の時代の出来事について
問3「小作争議(統計表「小作争議の件数と規模」)」(正誤の組合せとして正しいものの択一) 31  正答は(2)
教科書 P.329の図表(参考)
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統計表をよく見て解答するしかない。Xで普通選挙法の成立(1925年),Yで世界恐慌の影響(1929年)と表記されているので,それを基準にして小作争議の件数と参加小作人数(規模)の数値を追って判断することができるか否か。
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問4「幣原の協調外交政策」(正しいものの択一) 32  正答は(3)
→ 教科書 P.291の17行目~P.292の1行目 「鉄道権益については,アメリカ資本と合弁で経営する協定をいったんむすんだが(桂-ハリマン協定),小村外相の反対で破棄され,1906年,日本単独で南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立した。
→ 教科書 P.325の18~20行目 「同(1927)年6月から7月にかけて開かれた東方会議において満蒙権益の擁護が決定され,同年から翌年にかけて,北伐を阻止するため3次にわたる山東出兵がおこなわれた。
→ 教科書 年表7 「1925 大正14 日ソ基本条約
→ 教科書 P.347の14~16行目 「1943年,日本は東京で『大東亜会議』を開催し,占領地域の代表者を集め,結束をはかる宣言を発したが,占領の実態からはかけはなれていた。」
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山東出兵は立憲政友会の強硬外交策で,協調外交とは正反対の外交策である。
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問5「1920~30年代にかけての日本軍の国外活動」(古い順に年代配列の択一) 33  正答は(6)
→ 教科書 P.340の21行目~P.341の6行目 「日本は大軍を投入し,(1937年)12月,国民政府の首都南京を占領した。 そのさい,日本軍は投降兵・捕虜をはじめ中国人多数を殺害し,略奪・放火・暴行をおこない,南京大虐殺として国際的な非難をあびた。」
→ 教科書 P.335の4~6行目 「中国国民政府は日本の行動を不当として国際連盟に提訴し,連盟はイギリスのリットンを長とする調査団を日本・中国へ派遣した。
→ 教科書 P.326の1~5行目 「1928年6月には,満州を中国本土から切り離し日本の直接統治のもとにおこうとする関東軍参謀河本大作らが,北伐に追われて北京から奉天にひきあげる途中の軍閥の張作霖を爆殺する張作霖爆殺事件(満州某重大事件)をひきおこした。
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日本軍の国外軍事活動は,Ⅲ張作霖爆殺事件(1928年)→リットン調査団(1932年)→南京大虐殺(1937年)と推移した。
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C 戦後改革期の政治的動向について
問6「戦後改革期の諸政策」(誤っているものの択一) 34  正答は(4)
→ 教科書 P.361の18~22行目 「GHQは,日本の民主化のため,労働組合の組織化を奨励した。1945年12月, 労働組合法が制定されて, 労働者の団結権・団体交渉権・争議権が保障され, 新憲法の労働基本権に具体的内容を与えた。 ……1947年には8時間労働制などを定めた労働基準法が制定され,労働省が設置された。
→ 教科書 P.358の4~8行目 「GHQは10月4日,天皇制批判の自由,治安維持法・治安警察法の廃止,政治犯釈放,特別高等警察廃止などを内容とする覚書きを発した(人権指令)。
→ 教科書 P.361の9~11行目 「1947(昭和22)年には私的独占とカルテル行為を禁止する独占禁止法と,各産業部門の巨大独占企業の分割をめざす過度経済力集中排除法が制定された(財閥解体)。」
→ 教科書 P.363の10~13行目 「敗戦後,教育の制度・内容も民主化された。GHQの指令で軍国主義者・超国家主義者が教職から追放され,修身・日本史・地理の授業は停止された。
point
個人の尊厳を重んじ,真理と平和を希求する人間の育成をめざす教育理念のもとに修身教育は停止された。
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問7「戦後の改革期の経済対策」(正誤の組合せとして正しいものの択一) 35  正答は(3)
→ 教科書 P.362の3~6行目 「鉱工業生産力は大幅に低下し,農業も米が連年不作で生活物資,とりわけ食糧の不足は深刻となり,遅配・欠配が続いた。都市民衆は,農村への買い出し,闇市での闇買いなどで飢えをしのいだ。
→ 教科書 P.362の6~8行目 「悪性インフレーションが昂進し,政府は1946年2月,金融緊急措置令を公布して通貨の収縮をはかったが,一時的な効果しかなかった。」
point
Xは教科書を細部まで読み込んでいないと,判断が難しいかも知れない。
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問8「講和条約の調印」(正しいものの択一) 36  正答は(3)
→ 教科書 P.375の下注⑥ 「なお小笠原諸島は1968年, 日本に返還された。
→ 教科書 P.367の7~10行目 「アメリカは,日本を国連軍の中継地として利用し,アメリカ軍出動後の日本の治安維持に必要として警察予備隊を創設させた。
→ 教科書 P.368の2~5行目 「沖縄・小笠原・奄美の各諸島はアメリカの施政権下におかれ,本土でも平和条約と同時に調印された日米安全保障条約およびそれにもとづく日米行政協定により,ひきつづきアメリカ軍の日本駐留と基地使用が認められた。」
→ 教科書 P.367の17~23行目 「1951年9月,サンフランシスコ講和会議がひらかれ,日本は首相吉田茂らの全権を送って,48か国とのあいだにサンフランシスコ平和条約をむすんだ。 会議には日本を含む52か国が参加し, ソ連は修正案が拒否されたため, ポーランド・チェコスロバキアとともに条約に調印しなかった。インド・ミャンマー(旧称ビルマ)・ユーゴスラビアはまねかれたが参加せず,中華人民共和国・中華民国は会議にまねかれなかった。」
point
講和条約の内容とその他の付随した条約については,きめ細かくしっかりまとめておくことが肝心。全面講和ではなかったことに留意する。
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