2008年度 センター試験【日本史B】解説
第1問 主題学習『歴史の考察』に関する問題(神社に伝わる祭礼や信仰)(配点 12点)
主題学習『歴史の追究』の中の「日本人の生活と信仰」
A 神社に伝わる祭礼について
問1「祭礼と神事」(正しいものの組合せ択一) 【1】 正答は1
→ 教科書 p.53の18~20行目 「村々では, 春は穀物の豊作を神に祈る
祈年の祭り, 秋は収穫した新穀を神にささげる
新嘗の祭りがおこなわれた。 また禊・祓・太占の法や
盟神探湯などの呪術的な風習もあった。」
→ 教科書 p.116の14~16行目 「武士たちのあいだでは,
犬追物・笠懸・流鏑馬(騎射三物)などの武芸を競う習慣が強く,……… ,質素なうちにも力強い生活態度が奨励された。」

毎年春と秋に行われる祭礼, 鎌倉時代の武士たちが行った武芸が起源とあることから答えを導き出す。
問2「農業技術の歴史」(古い順に年代配列) 【2】 正答は3
→ 教科書 p.201の11~13行目 「農業技術の改良もすすみ, 深耕に適した鍬(とくに備中鍬),
脱穀用の千歯扱,
選別具の唐箕・

などの農具が普及し,竜骨車・踏車などの

も使用された。」
→ 教科書 p.38の1~3行目 「収穫には
石包丁などで穂首をつみとり(穂首刈り), 籾摺には木製の臼と竪杵などが用いられた。 」
→ 教科書 p.118の5~7行目 「また,刈った草を田畠に敷き込み,腐敗させて肥料とする刈敷や,草木を焼いて灰にした
草木灰が肥料としてひろく用いられるようになり,……… 」

石包丁は弥生時代の収穫具,草木灰は鎌倉時代から使われだした肥料,千歯扱・唐箕は江戸時代の脱穀・選別具であることから判断する。
問3「中世の惣村における神社や祭礼」(正誤の組合せ択一) 【3】 正答は2
→ 教科書 p.145の14~16行目 「南北朝時代をへて室町時代になると,この(庶民の間で新しい動き)勢いはますます強まっていき,ひろい階層の百姓たちが
宮座を中心にして村々で寄合をもち,
惣(惣村)といわれる新しい自治的な村落をつくって活発な動きを示した。」
→ 教科書 p.53の20行目及び下注(7)
「また禊・祓・太占の法や盟神探湯などの呪術的な風習もあった。」 及び 「獣骨を焼いて吉凶を占う方法を太占という。 」
→ 教科書 p.178の19~20行目 「そのほか
寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行がおかれ,重要事項は評定所で三奉行らの合議を経て決定した。」

太占は原始時代の呪術的な風習, 寺社奉行は幕府の重要な役職で神社の祭礼行事の決定などには関与しない。
B 神社に奉納された絵馬と鐘について
問4「馬を主題とした埴輪と絵巻」(正しいものの組合せ択一) 【4】 正答は3
→ 教科書
甲はp.49の左上図版,p.49の2~4行目及び下注(3) 「初期の典型的な大型古墳は, 葺石でおおい,
埴輪をめぐらした墳丘の頂上部に, 大きな竪穴を掘って竪穴式石室や粘土槨などの埋葬施設を設けている。 」 「…… 形象埴輪のうち,動物や人物の埴輪は5世紀以後の古墳で出土する。」
→ 教科書
乙はp.143の右上図版とキャプション(『石山寺縁起絵巻』),p.144の2~3行目 「物資が陸あげされる淀や敦賀・大津・坂本などには
馬借・車借がいて陸路の運搬にあたった。」

常日頃から教科書の図版や補助教材の図表・図録をしっかり見る習慣を身につけることが肝心。
問5「神仏習合の変遷」(誤っているものの択一) 【5】 正答は4
→ 教科書 p.79の23行目~p.80の4行目 「奈良時代のなかごろから,古くから信仰されてきた日本の神々が仏教による救済を求めているという考えや,また神々は仏教を守る護法善神であると考える神仏習合の思想があらわれ,
神社に神宮寺をたて,神前で読経をおこない,………」
→ 教科書 p.91の12~14行目 「神仏習合もいっそう進展して,
日本の神々を仏の化身(権現)とみなす本地垂迹説がうまれ,僧侶が実権をにぎる神社も増えていった。」
→ 教科書 p.156の22~23行目 「吉田兼倶は, 神本仏迹説の立場から
儒教・仏教を統合した唯一神道(吉田神道)を創唱し,京都の吉田神社を中心に布教をすすめた。」
→ 教科書 p.265の7~8行目 「1868(明治元)年,(明治政府は)祭政一致と神祇官再興を布告するとともに,
神仏分離(神仏判然)令を出し, これまで続いてきた神仏習合を否定した。 」

神仏分離令を発令したのは, 江戸幕府ではなく明治政府で, それは1868(明治元)年のことである。
問6「近現代の神道」(正しいものの択一) 【6】 正答は4
→ 教科書 p.265の7~10行目 「1868(明治元)年,
(明治政府は)祭政一致と
再興を布告するとともに,神仏分離(神仏判然)令を出し,これまで続いてきた神仏習合を否定した。翌年, 神道布教のために宣教使を設け,

を設置した。 」
→ 教科書 p.265の10~12行目 「1870年には
大教宣布の詔を発し,さらに伊勢神宮を頂点とする神社制度や皇室行事を中心とする国家の祝祭日を定めた。 」
→ 教科書 p.304の下注(5) 「1892年,
久米(邦武)の「神道は祭天の古俗」論文が田口卯吉編集の雑誌に掲載されたのに対して,神道家らがこれを攻撃し,辞職に追い込んだ(久米邦武事件)。」
→ 教科書 p.360の14~15行目 「1945年12月,
GHQは神道指令を発して,神社神道に対する政府の保護・監督の廃止を命じ,国家神道は消滅した。」

大教宣布の詔は,天皇を神格化し天皇崇拝を中心とする神道国教化を目指したが,仏教側の反対が強く失敗に終わった。久米は,神道は宗教思想ではなく日本古来の儀礼形式にしか過ぎない,と主張して神道家や国学者の非難を浴びた。
第2問 原始・古代の社会に関する問題 (配点 18点)
A 日本社会における文字使用拡大の歴史について
問1「
江田船山古墳出土鉄刀銘と木簡」(正しいもの組合せ択一) 【7】 正答は2
→
教科書 p.46の右上図版と
キャプションを参照。
→ 教科書 p.59の下注(4)及びp.61左上図版とキャプション 「国・郡の制において,「郡」の字を用いるのは大宝令制以後であって,それまでは「評」の字を用いていたことが,近年発見された
木簡の記載であきらかとなった。」 「木片に文字を書いたもので, 帳簿や調・庸の荷札などに用いられた。
藤原・平城京跡など各地で発見されている。……… 」
→ 教科書 p.41の10~11行目 「弥生時代の人々は, 大陸の鋳造技術を学んでみずからも
青銅器を製作した。 」

江田船山古墳は熊本県,稲荷山古墳は埼玉県に存在する。前者からは「

□□□鹵大王」の銘をもつ鉄刀が,また後者からは「

加多支鹵大王」の銘をもつ鉄剣が出土している。
問2「1世紀頃(弥生時代)の倭人の社会」(正しいものの択一) 【8】 正答は4
→ 教科書 p.30の3行目及びp.31の21行目~p.32の1~3行目 「海進は約6000年前の縄文前期にピークをむかえ,
海水面は現在より3~5mも高くなった(縄文海進)。」 「人々の定住がすすむ(縄文)早期以降には, 貝殻や食料ののこりかすなどが集落の外側の決まった場所にくりかえし捨てられ,
貝塚ができあがるようになった。 」
→ 教科書 p.51の13~14行目及び下注(4) 「石室や横穴のなかには武器や馬具のほか, 須恵器や土師器など日常の飲食器もおさめられている。 」 「
須恵器は灰色でかたい陶質の土器で,5世紀はじめに朝鮮半島南部から製法が伝えられた。」
→ 教科書 p.27の12~15行目 「この時代(旧石器時代)の動物としては,
南方系のナウマンゾウ・オオツノジカが日本列島各地で確認され,北方系のマンモス・ヘラジカは北海道で発見されている。また石器の形や製作技法にもアジア大陸との共通性がうかがえるものがあり,この時代の文化交流の広さを示している。」
→ 教科書 p.38の16行目及び下注(3)
「集落のまわりに深い濠をめぐらして防御した環濠集落も存在する。 」 「佐賀県吉野ケ里遺跡のように,物見櫓をもうけるなどして, とくに防御機能を強化した例もみつかっている。 」

貝塚は縄文時代の遺物, 須恵器は古墳時代の朝鮮系土器, ナウマンゾウやオオツノジカは旧石器時代に生息した動物である。
問3「古代の教育」(古い順に年代配列) 【9】 正答は1
→ 教科書 p.64の1~2行目 「
官人養成のためには,中央に大学,地方に国学がおかれていた。」
→ 教科書 p.81の17~19行目及び下注(3) 「有力な貴族たちは,大学に学ぶ子弟のために,氏ごとに大学別曹をたて,空海は,大学や国学にはいれない庶民を教育するための学校として綜芸種智院をひらいた。」 「……… 和気氏の弘文院,
藤原氏の勧学院,橘氏の学館院,在原氏や皇親一族の奨学院などが有名である。」
→ 教科書 p.87の右上史料及びp.90の5~9行目(参考) 「
藤原実資『小右記』(小野宮右大臣の日記)」 「日記文学では, 紀貫之が紀行文『土佐日記』をあらわして仮名文による散文の可能性を開拓した。……… 右大将藤原道綱の母は『蜻蛉日記』を……… 菅原孝標の女は『更級日記』でみずからの一生を回顧している。」 (参考)

律令体制下の教育は,太政官に所属する式部省が管轄した。各氏は自己の氏の大学生を寄宿させて,備え付けの書籍を利用させるなどして大学での勉強の便宜を図った。これが大学別曹である。
B 史料(景戒『日本霊異記』)から当該時代(奈良時代)の社会情勢を読み取る
問4「史料・条坊図を介して該当する場所を探索・確定する作業」(正しいものの択一) 【10】 正答は4
→ 教科書
表紙見返し右下の「平城京条坊図」を参照

先ず,当該主人公が諾楽(奈良)の「左京六条三坊の人」であることを念頭におく。次に都城制では,朱雀大路(太い実線)を挟んで向かって右側が左京,左側が右京であることを知っていれば,この時点で既に正解4はほぼ見えてくる。後は六条(南北)・三坊(東西)で確定となる。
問5「奈良時代に流通した貨幣」(正しいものの択一) 【11】 正答は1
→ 教科書 p.68の13~14行目 「708(和銅元)年,
和同開珎を発行し,711(和銅4)年に蓄銭叙位法(令)を発布するなどして, その流通を奨励した。 」
→ 教科書 p.83の下注(4) 「この時期(村上天皇・天暦の治)に, ……… 皇朝十二銭の最後の
乾元大宝が958(天徳2)年に鋳造された ……… 」
→ 教科書 p.68の12~13行目 「政府は, 683年ごろに
富本銭を発行したが,その普及は十分ではなかった。 」
→ 教科書 p.104の下注(1)及びp.119の2~3行目 「宋の商船によって日本からは金・硫黄・刀剣・漆器などが輸出され,中国からは織物・典籍・香料・
宋銭などが輸入された。とくに12世紀なかごろ以降,大量に輸入された宋銭は,日本の社会に大きな影響を与えた。」 「この時代(鎌倉時代),日本では貨幣の鋳造がおこなわれず,取引には米や絹のほか,もっぱら宋銭が用いられた。」

奈良時代に流通した代表的な貨幣といえば, 何と言っても和同開珎が頭に浮かばなければならない(銅銭と銀銭がある)。
問6「史料内容の読み取り」(誤っているものの択一) 【12】 正答は2
→ 教科書の記載内容とは全く関係なし

史料を熟読して,当該主人公が,聖武天皇の時代に大安寺の経典研究組織用の資金を拝借して越前敦賀に商業活動に赴き,そこで入手した商品を奈良に向けて船で輸送しようとした,ということが読み取れるか否か。
第3問 中世の政治と文化に関する問題 (配点 18点)
A 前九年合戦・後三年合戦と奥州藤原氏について
問1「豪族安倍氏と奥州の拠点平泉」(正しいもの組合せ択一) 【13】 正答は1
→ 教科書 P.102の17~19行目 「1051(永承6)年,
陸奥で安倍頼時・貞任らが反乱をおこすと,頼信の子頼義と孫の義家は東国の武士をひきいて,1062(康平5)年これを平定した(前九年合戦)。 」
→ 教科書 p.102の24~25行目 「奥羽ではこの(後三年合戦)のち,
藤原清衡が平泉を中心に支配権を確立し, 基衡・秀衡とつづいて三代,約100年にわたって奥州藤原氏が全盛をきわめた。 」
→ 教科書 p.107の6~9行目 「清盛は都を摂津の
福原に移して内乱(源平の争乱)をのり切り,瀬戸内海にひらかれた新しい政権をつくろうとしたが,……… 」
→ 教科書 p.100の2~4行目 「摂関家を外戚としない後三条天皇が即位し,摂関家に不満をもつ中級貴族(受領層)を結集し,
大江匡房らの近臣の補佐をえて親政をおこなった 。 」

大江氏は院政期の院近臣, 福原は六波羅(平清盛)政権下の外交・交易の拠点。
問2「後三年合戦(後三年の役)」(正しいものの択一) 【14】 正答は3
→ 教科書 p.84の5~15行目 「治安の悪化が続くなか, 10世紀のなかころ,関東では平将門の乱が, 西国では藤原純友の乱がおこった。 ……… これを
承平・天慶の乱という。」
→ 教科書 p.102の15~17行目 「1028(長元元)年,房総半島で桓武平氏の一族である
平忠常の乱がおこったとき, 清和源氏の源頼信がこれをしずめ, これ以後源氏は関東地方に影響力をもつようになった。 」
→ 教科書 p.102の19~21行目 「1083(永保3)年, 奥羽で勢力をえた清原氏に内紛がおこると,陸奥守であった(源)義家は, 清原氏の一族藤原清衡を助けてこれを鎮圧した(
後三年合戦)。 」
→ 教科書 p.122の7~9行目 「1285(弘安8)年に有力御家人安達泰盛の反乱がおき,北条氏の専制に不満をもつ御家人たちが多数これに加わったが, 敗北に終わり, 御内人を代表する内管領平頼綱の勢力が強まった(
霜月騒動)。 」

清原氏一族に内紛が生じ, 藤原(清原)清衡が勝利したとあることから,後三年合戦(後三年の役)と判断する。
問3「中尊寺金色堂の特色」(正誤の組合せとして正しいものの択一) 【15】 正答は2
→ 教科書 p.105の11~14行目 「奥州藤原氏がたてた平泉の
中尊寺金色堂や,その一族の建立になる白水阿弥陀堂, 豊後の富貴寺大堂など地方豪族も盛んに寺院を建立した。 」
→ 教科書 p.130の10~11行目 「このほか建築では, 鎌倉中期に禅宗様(唐様)がもたらされ,
円覚寺舎利殿などの禅寺の建築に用いられた。 」

中尊寺金色堂は奥州藤原氏がこの世に極楽浄土の世界を現出し, 堂内部の装飾に黒漆をぬり, 金箔を張ったのでこの名がある。
B 守護大名の成立と発展について
問4「(守護)段銭と御料所」(語句の正しい組合せ択一) 【16】 正答は4
→ 教科書 p.146の20~23行目及び同下注(3) 「これ(1441年)以後たびたび土一揆がおきて,幕府を苦境に追いこんだが, 幕府は,
分一銭とよばれる手数料を納入させる方式をうみだし, これをおさめた側に権利を認め, 幕府財政の安定をはかろうとした。 」 「債権額または負債額の10分の1または5分の1の金額を,分一銭の名で幕府におさめ,債権の確認,ないし債務の破棄を認められた。」
→ 教科書 p.112の8~10行目 「頼朝自身,貴族の一員としていくつかの知行国(
関東御分国)や平氏からうばった荘園(関東御領)を支配しており, 権門貴族と共通した側面ももっていた。 」
→ 教科書 p.137の3~5行目及び同下注(3) 「幕府の財政は,
御料所といわれる直轄領からの収入があったが,全国的な商取引と金融活動の頂点にたつ京都の酒屋・土倉に目をつけ,巨額の酒屋役・土倉役(倉役)を課した。」 「足利氏伝来の所領と北条氏などからの没収領からなり,幕府の直臣の
奉公衆が管理し, 年貢・公事を徴収して政所におさめた。」
→ 教科書 p.137の5~7行目 「さらに幕府は,京都のおもな出入口に関所をもうけて関銭を徴収し,また国家的な行事には臨時税として
段銭・棟別銭を全国の田地・家屋に課税するようになった。」

鎌倉幕府と室町幕府の財政基盤の差異をしっかり丁寧にまとめておくこと。
問5「室町時代の守護の権限とその行使」(誤っているものの択一) 【17】 正答は1
→ 教科書 p.167の5~6行目及び同下注(5) 「まず信長は,複雑な土地関係を整備するため,
検地による土地調査をおこなった。」 「検地には,領主などから申告させる指出と,実際に土地を測量する場合があった。」
→ 教科書 p.134の下注(2) 「従来の大犯三カ条に加えて,この時代(室町)の
守護は他人の田畠の稲などを一方的に刈りとってしまう刈田狼藉の取り締まりや,使節遵行といって幕府の裁決を守護代を通して現地の荘園・国衙領に伝え,これを強制執行する権限を一手ににぎるようになった。」
→ 教科書 p.135の17~18行目 「
守護の力が強まるにつれ,中央の権門貴族は,荘園年貢の徴収を守護に請け負わせて経営から手をひくことも多かった(守護請)。」

鎌倉時代の守護の権限と室町時代の守護(守護大名)の権限の差異がしっかり把握できているか。
問6「戦国大名の出自」(正しいものの組合せ択一) 【18】 正答は3
→ 教科書 p.158の6~7行目 「各地の戦国大名は,守護代や国人の出身が多く,守護で
戦国大名に転身しえたのはわずかに
武田・今川・大友・島津などを数えるにすぎない。」

守護から戦国大名に転身したのは極めて少なく,基本中の基本である。
第4問 近世の政治・経済に関する問題(配点 17)
A 銀鉱山の開発と長崎貿易,諸藩の殖産興業政策について
問1「銀の産出量と銀の輸出高」(正しいものの組合せ択一) 【19】 正答は4
→ 教科書 p.197の8~10行目 「幕府財政は, 明暦の大火(1657年)後の江戸復興にともなう出費や,
金銀山収入の減退, 年貢収入の頭打ちなどにより, 家綱の代には非常用の備蓄金銀を使うほどの赤字となった。 」
→ 教科書 p.199の11~12行目及び同下注(6) 「1715(正徳5)年には,
海舶互市新例(正徳新令・長崎新令)を出して長崎貿易の額を制限した。 」 「白石はこれ(荻原重秀の長崎貿易の積極策)を改め,清船は年30隻・銀高6000貫, オランダ船は年2隻・銀高3000貫に制限した。 」

新井白石は金銀の海外流出に対処するため,長崎におけるオランダ・清国との貿易の制限と銅・俵物による決済を奨励した法令(正徳新令)を発令した。
問2「江戸時代の銀貨」(古い順に年代配列択一) 【20】 正答は2
→ 教科書 p.207の12~13行目 「
家康は大判(10両)・小判(1両)・一分金などの金貨や丁銀・豆板銀などの銀貨を発行し……… 」
→ 教科書 p.245の8~9行目及び同下注(4) 「貿易開始後,金の大量流失がはじまり,幕府はこれを阻止するため,金貨の質を大きく下げる改鋳をおこなった(万延改鋳)」 「金銀の比価は国内では1:5であったのに対し,海外では1:15であった。 そのため
外国商人は, 銀貨を持ち込み金貨である小判と交換すれば巨利を得ることができた。 」
→ 教科書 p.218の8~9行目同下注(3) 「
(田沼意次は)はじめて南鐐二朱銀などの計数銀貨を鋳造させ,金銀通貨の一本化をねらった。」 「この銀貨(南鐐二朱銀)には,額面に金2朱(1両の8分の1)の価値があることがうたわれていた。通用を促進させるため,素材にはきわめて良質の銀が使われた。」

丁銀・豆板銀という銀貨の発行は家康時代, 南鐐二朱銀(計数貨幣)の発行は田沼時代,金銀比価(交換比率)のアンバランスにより外国人が銀貨を持ち込み多量の金貨を海外に持ち出したのは幕末の出来事に相当する。
問3「朝鮮人参の輸入と栽培」(誤っているものの択一) 【21】 正答は3
→ 教科書 p.185の14~16行目 「貿易は, 1609(慶長14)年に
朝鮮と宗氏との間で結ばれた己酉約条によって再開された。 」
→ 教科書 p.185の16~17行目 「宗氏は,毎年20隻の歳遣船(貿易船)を朝鮮に派遣し,
釜山に設置された倭館において貿易をおこなった。」
→ 教科書 p.218の5~7行目 「
都市の商工業者や在郷町の商人らに株仲間の設立をすすめ,営業独占を認めるかわりに運上・冥加を上納させた。 特定の御用商人に銅・鉄・真鍮・朝鮮人参などの座をつくらせ,流通の統制と運上徴収をはかった。」
→ 教科書 p.216の10~12行目 「
農政では,朝鮮人参・甘蔗(砂糖きび)・
などの栽培を奨励して殖産興業につとめるとともに,青木昆陽を登用して甘藷(サツマイモ)を普及させ,飢饉にそなえた。」

田沼意次は株仲間を積極的に公認するとともに,銅・鉄・真鍮・朝鮮人参座などを結成させ,運上の上納をはかるなどの重商主義政策を展開した。
B 大蔵永常『広益国産考』の一節(史料問題)から
問4「諸藩の政策-専売制の推進」(正しいものの択一) 【22】 正答は1
→ 教科書 p.231の1~4行目 「薩摩藩は調所広郷を登用し, ………
奄美諸島での甘蔗の栽培強制にもとづく砂糖専売制や琉球貿易を利用した密貿易などによって収入をふやした。」
→ 教科書 p.182の下注(2) 「飢饉時などには,
商品作物の作付けを制限することもあった(田畑勝手作りの禁)。 」
→ 教科書 p.183の18行目~p.184の2行目 「
幕府や大名は,地子免除などにより積極的に商工業者を都市に集め,城下町を建設した。 」
→ 教科書 p.229の19行目~p.230の2行目 「農村の復興と江戸の治安維持をねらって,
農民が村を離れて江戸の人別に入ることの禁止や,江戸へ流入した貧民の帰郷強制などを命じた人返し令を出した。」

史料中に薩摩の砂糖を中心として, 諸国の特産物が列挙されていることから, 自然と専売制の実施が浮かんでくるであろう。
問5「江戸時代の薩摩藩」(正誤の組合せとして正しいものの択一) 【23】 正答は1
→ 教科書 p.231の1~4行目 「薩摩藩は調所広郷を登用し, ………
奄美諸島での甘蔗の栽培強制にもとづく砂糖専売制や
琉球貿易を利用した密貿易などによって収入をふやした。 」
→ 教科書 p.249の5~10行目 「1863(文久3)年7月,
生麦事件の報復のために鹿児島をおそったイギリス艦隊とたたかって(薩英戦争),欧米諸国の軍事力の強大さを痛感していた薩摩藩は,西郷隆盛や大久保利通らを指導者に洋式軍備の強力な軍隊をつくりあげていった。」

生麦事件は, 1862(文久2)年,江戸からの帰途,横浜近辺の生麦村通行中の島津久光一行に接触したイギリス人を薩摩藩士が殺傷した事件で, 当事者は薩摩藩とイギリスである。
問6「綿と関連した近世の産業」(組合せとして正しいものの択一) 【24】 正答は3
→ 教科書 p.202の18~20行目 「
房総半島の九十九里浜の鰯漁は, 綿作などの肥料として干鰯・〆粕が用いられたことから発達し,……… 」
→ 教科書 p.201の24~25行目 「麻の原料である

は越後・出羽の名産で,
染料として阿波の藍,出羽の紅花などがあった。」

鰊からは〆粕,鰯からは干鰯という金肥がもたらされた。藍は染料に,

は蝋燭の原料に用いられた。
第5問 明治前期の政治に関する問題(配点 12点)
問1「国会期成同盟と集会条例」(組合せとして正しいものの択一) 【25】 正答は1
→ 教科書 p.268の5~7行目 「
1880(明治13)年には,愛国社を母体に新たに大阪で結成された国会期成同盟が2府22県の署名を集めた請願書を政府に提出するまでになった。 」
→ 教科書 p.269の9~13行目 「
1880(明治13)年,政府は集会条例を公布して民権運動の高揚をおさえようとしたが,運動のひろがりをおしとどめることはできなかった。 」
→ 教科書 p.273の12~14行目 「こうした情勢(大同団結運動の発展)を見て,第1次伊藤内閣は1887年に
保安条例を出し, 民権派を首都から追放するいっぽう, 運動の指導者である大隈重信や後藤象二郎を入閣させる譲歩をおこなった。 」

愛国社は1875年に大阪で結成された全国的な政治結社で,その第4回大会で国会既成同盟を結成し全国的に請願署名活動を展開することが決議された。
問2「私擬憲法の起草」(組合せとして正しいものの択一」 【26】 正答は3
→ 教科書 p.268の7~8行目及び同「おもな私擬憲法草案(一覧表)」 「さらに様々な憲法案が自主的につくられるようになった(
私擬憲法)。 」
→ 教科書 p.269の4~8行目 「またジャーナリズムが発達し,
中江兆民・馬場辰猪・植木枝盛らの天賦人権論や,福沢諭吉や小野梓らの立憲君主制論が流布したことも運動高揚の要因となった。」
→ 教科書 p.268の16~18行目 「
植木枝盛案は一院制で抵抗権・革命権を認める急進的なものであった。 」
→ 教科書 p.268の10~12行目 「
『五日市憲法草案(日本帝国憲法草案)』のような地域住民の討論を基礎に起草されたものもあった。 」
→ 教科書 p.262の2~5行目 「1874(明治7)年,征韓論政変で下野した前参議板垣退助………らは愛国公党を結成し,
議院設立建白書を左院に提出し,ここに自由民権運動が出発した。 」

私擬憲法草案の特徴をしっかりまとめているか否か。
問3「内閣制度の創設」(誤っているものの択一) 【27】 正答は4
→ 教科書 p.274の11~13行目及び同下注(3) 「1885年には
太政官制を廃止し, 内閣制度を導入し,総理大臣を中心に各省大臣が協調して政務をおこなうことにした。 」 「1885年の内閣制度により,各省の長官である大臣と総理大臣が最高決定会議(内閣)を構成することが確定した。 」

内閣制度は太政官制を廃止して成立した(1885年)。
問4「大日本帝国憲法の発布」(正誤の組合せとして正しいものの択一) 【28】 正答は2
→ 教科書 p.275の7~14行目 「
政府は国民にいっさいはからずに憲法を制定した。その中心となった伊藤博文は, 1882(明治15)年, 憲法調査のためにヨーロッパに留学して, ドイツのグナイストやオーストリアのシュタインらから君主権の強いドイツ流の憲法を学び, 帰国後, 井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らと
政府顧問のロエスレルの援助も得ながら草案を作成した。草案は1888年に枢密院で審議され,翌1889年2月11日に天皇の定める憲法(欽定憲法)として公布された(大日本帝国憲法・明治憲法)。」

枢密院は天皇の最高諮問機関で,憲法草案を審議するために設置され,憲法で常置機関と定められた。議会開設後は,藩閥官僚勢力の牙城として影響力をもった。
第6問 尾崎行雄を介した大正・昭和史に関する問題(配点 23)
A 憲政擁護運動と協調外交体制について
問1「大正政変とワシントン会議」(組合せとして正しいものの択一) 【29】 正答は2
→ 教科書 p.308の14行目~p.309の5行目 「政友会の
尾崎行雄,立憲国民党の犬養毅らが『閥族打破,憲政擁護』をスローガンに倒閣運動をおこすと,当初は政党政治家やジャーナリスト,弁護士などを中心とした運動だったが,たちまち民衆の間にひろがり,政府系新聞社や交番を襲撃する事件にも発展した。その結果,1913(大正2)年2月,桂内閣はわずか50日あまりで倒れ(
大正政変),民衆の直接行動が内閣を倒した最初の事例となった。」
→ 教科書 p.320の14~16行目 「1918(大正7)年11月,ドイツが連合国に降伏して大戦は終結し, 翌1919年1月,パリで
講和会議がひらかれ6月にヴェルサイユ条約が結ばれた。」
→ 教科書 p.321の2~8行目 「1921年11月から翌年2月まで,
アメリカ大統領ハーディングのよびかけにより,ワシントンで海軍軍縮会議が開催された。……… 主力艦(戦艦・巡洋戦艦)と航空母艦の保有率を, アメリカ・イギリス5に対して日本を3に制限するワシントン海軍軍縮条約,太平洋地域の領土保全を相互に約束する四か国条約,中国の主権と独立の尊重,領土の保全と門戸開放・機会均等をうたう九か国条約に調印した。 」
→ 教科書 p.269の17~22行目 「早期開設に慎重な伊藤博文はこの報道の背景に大隈がいると考え,黒田清隆や岩倉具視とむすんで, 大隈派を政府から追放した。 同時に, 世論をおさえるため, 開拓使官有物の払い下げを中止するとともに,
10年後の国会開設を約束する詔勅(国会開設の勅諭)を出した(明治十四年の政変)。 」

藩閥政府批判に活躍とあることから桂太郎内閣打倒の大正政変を,アメリカ政府が開催した軍縮会議とあることからワシントン会議を見抜く。
問2「第一次世界大戦前後の日本外交」(古い順に年代配列択一) 【30】 正答は4
→ 教科書 p.311の20~23行目 「社会主義革命の影響のひろがりを恐れた連合国は,当時シベリアにいた
チェコ軍の救出を名目に, 革命への武力干渉をはじめた。 日本も1918年8月には出兵し(シベリア出兵),最高時7万3000人の兵を送って, 東部シベリアの要衝を占領した。 」
→ 教科書 p.310の15~17行目 「1915(大正4)年1月には大隈内閣の外相加藤高明が,
袁世凱政権 に対して,山東省のドイツ権益の継承をはじめとする二十一か条の要求をつきつけた。」
→ 教科書 p.310の2~4行目 「
日本も,日英同盟を理由に参戦し, ドイツの勢力範囲であった中国山東省や, 赤道以北の太平洋に散在するドイツ領南洋諸島を攻撃し, (1914年)11月には山東省の中心都市青島を占領した。 」

日英同盟を理由に参戦(1914年)→対中国二十一か条の要求(1915年)→シベリア出兵(1918~22年)の順となる。
問3「ロンドン海軍軍縮条約」(正誤の組合せとして正しいものの択一) 【31】 正答は3
→ 教科書 p.330の2~9行目 「
浜口内閣は外交面では,1930(昭和5)年に中国の関税自主権を承認する日中関税協定を締結した。同じく1930年,ロンドンで開催された補助艦制限のための軍縮会議に元首相若槻礼次郎と海軍大臣財部彪を派遣し,日本の補助艦保有トン数を対米総括6.97割(大型巡洋艦6割)に制限するロンドン海軍軍縮条約を締結した。 ………
海軍軍令部や,軍令部の同意を得ずに政府が兵力量を決定することを, 憲法第11条違反(統帥権干犯)であるとして攻撃する,軍部・政友会・枢密院・右翼の反対をおしきって条約は批准された。」

ロンドン海軍軍縮条約を調印した時の内閣は若槻礼次郎内閣ではなく, 浜口雄幸内閣の時である。 若槻は全権代表であった。
B 日本の戦争への道について(史料『尾崎咢堂全集』第8巻より)
問4「1930年代の軍部の行動」(古い順に年代配列択一) 【32】 正答は2
→ 教科書 p.334の5~7行目 「かねて満州武力占領計画を推進していた関東軍参謀の大佐板垣征四郎・中佐石原莞爾らは,9月18日夜,奉天(現瀋陽)付近の満鉄線路を爆破し,これを中国軍の行為であるといつわって,攻撃を開始した
(柳条湖事件)。」
→ 教科書 p.339の1~5行目 「1936(昭和11)年2月26日,北一輝の国家改造論を信奉する皇道派
青年将校は, 1,500名弱の兵力でクーデタをおこし,内大臣齋藤実・蔵相高橋是清・陸軍教育総監渡辺錠太郎らを殺害したうえ,首相官邸とその周辺一帯を占拠した(二・二六事件)。」
→ 教科書 p.335の8~9行目 「……… ついで(1932年には)海軍青年将校らが首相官邸を襲撃し,
首相犬養(毅)を射殺する五・一五事件が発生した。」

1930年代は, 満州での柳条湖事件(1931年),犬養毅首相が暗殺された五・一五事件(1932年),陸軍の青年将校らが政府の要人や重要施設を襲撃した二・二六事件(1936年)へと推移した。」
問5
「史料から尾崎行雄の主張を読み取る」(誤っているものの択一) 【33】 正答は3
→ 教科書の記載内容とは関係なし

尾崎は当時の軍部が政治に干渉したり,横暴な振る舞いをする傾向をみて危険な存在とみなし,その行動を規律の頽廃を示すものとみていた。また官民こぞって軍部を支持している状況を嘆いていた。
C 太平洋戦争と戦後の動向について
→ 教科書 p.348の12~13行目 「 1942年4月の第21回総選挙で政府の推薦する候補者を多数当選させ(
翼賛選挙), 翼賛政治会を結成させた。 」
→ 教科書 p.360の4~5行目 「
新憲法(日本国憲法)は主権在民・戦争放棄・基本的人権の尊重を3原則とし,国家の主権は天皇から国民へ移り,天皇は国民統合の象徴と定められた。」
→ 教科書 p.365の2~5行目 「大戦後, ソ連・東欧に社会主義陣営が生まれ,世界的に民族解放運動がひろがるとともに,
アメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営の間で冷戦とよばれる対立がひろがった。」
→ 教科書 p.368の11~13行目 「同(1955)年,日本社会党の統一が実現すると, これに対抗し, 財界の支援をえて民主・自由両党による保守合同が実現し,自由民主党が結成され(
55年体制の成立),保革対立が激化した。 」
→ 教科書 p.372の1~4行目 「日本経済は,1955年ころから73年ころにかけて年率10パーセント前後の世界でも異例の
高度経済成長をとげ,国民総生産(GNP)はこの間に5.4倍となり,1968年にはアメリカについで資本主義世界第2位となった。」
問6「ミッドウェー海戦の敗北と朝鮮戦争」(組合せとして正しいものの択一) 【34】 正答は4
→ 教科書 p.347の3~5行目 「 (1942年)6月の
ミッドウェー海戦で日本海軍の機動部隊は大敗して,戦局の主導権をアメリカに譲った。」
→ 教科書 p.374の18~21行目 「アメリカは, 1965年,北ヴェトナム爆撃(北爆)を開始し, 大軍を投入して内戦介入を本格化させたが, ソ連・中国の支援を受けた北ヴェトナム解放民族戦線の強力な抵抗にあい,勝利の展望はえられなかった(
ヴェトナム戦争)。」
→ 教科書 p.367の1~4行目 「
1950(昭和25)年6月,朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)軍の南進によって朝鮮戦争がはじまった。 」
→ 教科書 p.348の22~24行目 「
1944年7~8月にはサイパン島をはじめマリアナ諸島が陥落し,その責任を負って東条内閣は倒れ,かわって陸軍大将小磯国昭が米内光政との連立内閣を組織した。」

東条英機内閣が総辞職に追い込まれたのは,サイパン島をはじめとするマリアナ諸島の陥落による(1944年)。
問7「20世紀に成立した国際機構」(誤っているものの択一) 【35】 正答は3
→ 教科書 p.320の22行目~p.321の1行目 「
アメリカ大統領ウィルソンの提唱した14か条の原則を指導理念に,民族自決を確認し,国際連盟や国際労働機構(ILO)といった国際機関を創設した。 」
→ 教科書 p.320の下注(4) 「(国際連盟は)国際平和の確保のためにつくられ,
日本もイギリス・フランス・イタリアとともに常任理事国になったが,国際紛争を解決するにあたっての制裁力に欠け,またアメリカやソヴィエトが参加していないなどの欠陥をもった。」
→ 教科書 p.356の4~6行目 「日本・ドイツなどと戦った連合国50か国は,
同(1945)年6月,国際連合憲章に調印し,10月に正式に国際連合が発足した。 」
→ 教科書 p.368の14~16行目 「1956年10月,鳩山(一郎)内閣は懸案の日ソ共同宣言に調印し,
日ソ国交回復が実現した。これにともなって同年12月, 日本は国際連合への加盟を承認された。 」

国際連合の設立準備は日本が敗戦を迎える直前から進められ,敗戦後間もない10月に正式に発足した。
問8「1960年代に起こった出来事」(正しいものの組合せ択一) 【36】 正答は4
→ 教科書 p.369の15~17行目 「講和後, 吉田内閣は再軍備政策をすすめ, 1952(昭和27)年,警察予備隊を保安隊に改組するとともに, 海上警備隊を新設させた。 そして,
1954年にはアメリカとMSA協定をむすび,陸海空の自衛隊を発足させて防衛庁を設置した。」
→ 教科書 p.377の16~20行目 「
1960年には,民主社会党が結成され,1964年には創価学会を基盤とする公明党が結成されて急速に勢力をのばし, さらに共産党も70年代にかけて党勢をのばして, 野党の多党化現象がすすんだ。 」
→ 教科書 p.376の4~7行目 「基軸通貨としてのドルの地位は大きくゆらぎ, 同(1971・昭和46)年12月, 各国の合意でドルが切り下げられた(1ドル308円)。 ドルはその後も下落し,
西欧諸国に続き,1973年日本も変動相場制へ移行した。 」
→ 教科書 年表8 「
1964 東海道新幹線開通 」

1960年代で起こった出来事としては, 公明党の結成と東海道新幹線開通が挙げられる。
戦後史も政治・経済と絡めてしっかりとまとめておこう。