2007年度 センター試験【日本史A本試】解説
第1問 主題学習に関する問題(明治時代の地形図と現代の地形図との比較)(配点 6点)
問1「地形図の読み方」(正しい組合せ択一)
主題学習『歴史と生活』の「地域社会の変化」
正解は(4)
教科書は 強いて挙げれば、p.22~28の3「地域社会の変化」がこれに相当するテーマである。

問題文の宿場名の桑折(コヲリ)=郡(古代の地方行政単位)から近くにある「上郡」を地図中に発見することは容易である。また「桑畑」から養蚕業を類推することも同様である。
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問2「陸上交通の歴史」(古い順に年代順配列)
正解は(3) 教科書は 強いて挙げれば、p.14~21の2の「交通・通信の変化」がこれに相当するテーマである。

項目から判断して、律令国家の駅制の整備、江戸幕府の五街道の整備、民営鉄道の敷設の順番になるのは必定である。
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問3「日本の生糸の歴史」(正誤の組合せ択一)
正解は(2)
教科書 p.59の21行目~23行目 「輸出の中心は生糸・茶であった。輸出の増大は国内の物資の不足を招き、物価を騰貴させた。幕府は五品江戸廻送令を出し、江戸の特権商人を通じて貿易を統制しようとしたが、成功しなかった。」
 教科書 P.56の側注(6) 「雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の五品を、産地からいったん江戸に廻送させ、市中の需要に応えようとした。」
教科書 P.90の4~5行目 「農村や地方都市の絹糸の製糸業にも蒸気機関の利用がひろまり、近代産業として発展しはじめた。」

製糸業は当初は座繰製糸が中心であったが、器械製糸もひろがりだし、 1894年には器械製糸による生産高が座繰製糸の生産高をしのぐようになった。
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第2問 江戸時代後期~明治維新にかけての日本(配点 23点)
A ドイツ人医師シーボルトについて
問1「シーボルトとシーボルト事件」(正しい組合せ択一)
正解は(4)
教科書 P.56の18~20行目 「オランダ商館の医師シーボルトは、 長崎に鳴滝塾をひらいて診療と教育にあたり、 大坂の蘭医緒方洪庵は、 適塾をひらいて福沢諭吉らの人材を育てた。」
教科書 P.56の側注(2) 「1828(文政11)年、 シーボルトと幕府天文方の高橋景保が禁をおかして学術資料と日本地図などを交換したことが発覚し、 関係者が処罰された(シーボルト事件)。」

江戸時代における一連の蘭学の誕生をしっかりつかんでいれば問題はなし。
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問2「江戸時代後期の学問状況」(正文択一)
正解は(1) 教科書 P.55の23~24行目 「1839(天保10)年、 幕府は、 (モリソン号)事件を批判した高野長英渡辺崋山らを処罰した(蛮社の獄)。」
教科書 P.56の21~24行目 「18世紀に荷田春満・賀茂真淵らは、『古事記』『万葉集』などの古典を儒教・仏教などの外来思想で解釈する方法を改め、日本固有の道を明らかにする国学をおこした。この国学を大成したのが本居宣長である。」
教科書 P.56の3~6行目 「この絵は、 蘭学者たちが1794(寛政6)年閏11月11日(太陽暦1月1日)、 大槻玄沢
の蘭学塾(芝蘭堂)に招待され、 オランダ正月を祝ったようすを描いたものである。」
教科書 P.56の16~18行目 「幕府の側でも、 伊能忠敬に、 日本全国の沿岸を実測させて精密な日本地図「大日本沿海輿地全図」を作成させたほか、 蛮書和解御用を新設して、 洋書の翻訳にあたらせた。」

江戸時代の儒学・蘭学・国学などの系統図をしっかり把握していさえすれば問題はない。
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問3「江戸幕府の対外政策の大きな変化」(古い順に年代配列)
正解は(3) 教科書 p.55の25~31行目の天保の改革の項目には、 天保の薪水給与令(撫恤令・1842年)の記述なし。
教科書 p.58の18~p.59の1行目 「ペリーはいったん去って、 翌年再来した。 その圧力で、 幕府はついに開国を決断し、 日米和親条約(神奈川条約)をむすんだ。 そして、 下田・箱館の開港、燃料・食料・水の提供、領事の駐在、難破船員の保護、一方的な最恵国待遇を認めた。」
教科書 p.55の21~22行目 「同年(1837年)、 江戸湾に入ってきた外国船を幕府軍が砲撃する事件もおこった(モリソン号事件)。」
教科書 p.55の側注(5) 「モリソン号は、 貿易交渉のために日本漂流民を連れて来航したアメリカ商船であったが、 オランダ商館長がイギリス船だという誤報を伝えたため、 幕府の危機感が増大した。」

上記の教科書叙述からも明らかなように、 古いものから年代順に並べると、 モリソン号事件(1837年)→天保の薪水給与令(1842年)→日米和親条約(1854年)の順になる。
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B 『外国新聞に見る日本』(1868~1871年にかけての日本関係記事《訳文》)
問4「明治新政府の政治体制の確立過程」(正しい語句の組合せ)
正解は(3)
教科書 p.62の14~15行目 「1868(慶応4)年1月、 旧幕府軍は兵士を京都に進撃させたが、 鳥羽・伏見の戦いで薩長軍に敗れた。」が史料(1)の内容に相当する。
教科書 p.62の18~19行目 「さらに翌年(1869年)5月には、箱館で抗戦を続けていた旧幕府軍もやぶれ、約1年5か月に及んだ戊辰戦争は終結した。」も史料(1)に相当する。
教科書 p.63の3~4行目 「続いて(1868年)閏4月、 政体書で古代の制度にならった太政官制を定め、新政府の仕組みを固めた。」が史料(2)に相当するが、 府藩県三治制のタームの記載はなし。

史料(1)の文言から前大君(将軍)が大坂に兵力を集中し、 その軍隊が敗走し、 将軍は江戸へ逃げ込んだとの表現から戊辰戦争の緒戦の鳥羽・伏見の戦いを読み取る。 つぎに史料(2)の「行政府」・「県」・「藩」から府藩県三治制を読み取ることができるか。
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問5「大坂の経済と県の設置」(正誤組合せ択一)
正解は(3)
教科書 p.59の18~19行目 「条約(安政の五カ国条約)の結果、神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港し、江戸・大坂を開市することになった。」
「県」の設置場所については、教科書に記載なし。他社本も同様である。

幕末の安政の五カ国条約の内容を想起することができるか。のちの廃藩置県(1871年)の断行が思い浮かぶか。
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問6「廃藩置県の内容」(誤文択一)
正解は(2)
教科書 p.63の15~19行目 「続いて1871年2月、新政府は薩長土3藩の兵士合計1万人を東京に集めて「御親兵」をつくり、政府直属の軍隊とした。そして7月、この軍事力を背景に、261の藩を廃止して府県を置く廃藩置県を断行し、 藩主を東京に移住させ、 府知事・県令には政府の官吏を任命した。こうして中央集権的な権力が成立した。」

旧大名が知藩事に任命されたのは、 1879年の版籍奉還の時である。
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C 幕末期の社会情勢を風刺する狂歌
問7「幕末期の経済状況」(正文択一)
正解は(2)
教科書 p.54の24~26行目 「また、 都市の商人や豪農のなかから、 問屋制家内工業やマニュファクチュア(工場制手工業)経営をおこなうものもあらわれた。」 同ページの側注の(1)・(2)も参照のこと。
教科書 p.61の16~17行目 「その(第2次長州戦争)負担と物価騰貴とがあいまって民衆の不満は高まり、世直し一揆、打ちこわしが最高潮に達した。」
教科書 p.59の25~27行目 「国内の銀価格に対する金価格が欧米より低かったため、 おびただしい量の金貨が海外に流出し、 洋銀が流入した。 経済変動によって物価ははねあがり、 下級武士や下層農民、 都市民の生活を窮迫させていった。」 同ページの側注(7)も参照のこと。
教科書 p.59の側注(5) 「外国商社は条約によって日本内地での活動を禁止されていたため、 貿易は外国人が居住・営業を認められた居留地でおこなわれた。」

問屋制家内工業とマニュファクチュアを混同しないこと。金銀交換比率のアンバランスにより、大量の金が海外に流出したため、幕府は金貨の質を大きく下げる改鋳(万延改鋳)を急遽行ってこれに対応した。しかしこの改鋳は、輸出超過や流通機構の混乱とあいまって急激な物価上昇をもたらした。
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問8「井伊直弼の人物像」(誤文択一)
正答は(1)
教科書 p.59の13~14行目 「大老に就任した井伊は、 天皇の許可をえないまま日米修好通商条約に調印し、 慶福(14代将軍家茂)を跡継に定めて反対派を弾圧した(安政の大獄)。」
教科書 p.60の17~18行目 「1860(万延元)年3月、井伊直弼は水戸藩などの尊王攘夷派によって暗殺された(桜田門外の変)。」
教科書 p.59の8~10行目 「幕府政治の改革を求める有力大名らは、将軍家定の跡継ぎに人望の厚い一橋慶喜をおしたて、紀州藩主徳川慶福をおす井伊直弼らの譜代大名と対立した。」

大老井伊直弼は越前(福井)藩主ではなく、彦根藩主である。
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第3問 近現代の政治・経済・社会に関する問題(配点 22点)
A 桂園時代と大正デモクラシーの思潮
問1「桂園時代」(正語句択一)
正答は(2)
教科書 p.104の8~10行目 「日露戦争後、 藩閥官僚勢力を代表する桂太郎と、 衆議院の最大勢力である立憲政友会の総裁西園寺公望とが、 交互に政権を担当する桂園時代が7年余り続いた。」

桂太郎と西園寺公望とが交互に首相になったとあるから、桂園時代が頭の中に自然と浮かんでくるだろう。
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問2「原敬内閣の施策」(正文択一)
正答は(4) 教科書 p.107の19~21行目 「1917年、アメリカの対独参戦を機に、石井-ランシング協定をむすび、中国での権益を確保した。」
教科書 p.105の側注(5) 「山本(権兵衛)内閣は世論に押され、 西園寺内閣辞職の原因となった軍部大臣現役武官制を改め、 予備役・後備役でも任用できるように改めた。」
教科書 p.123の16~17行目 「1928年には緊急勅令で治安維持法を改定し、 最高刑を死刑とし、全国の都道府県に特別高等警察をおいて弾圧を強化した。」
教科書 p.120の20行目~p.121の3行目 「原内閣は1919年、 与党の安定多数をねらって選挙法を改正し、 選挙人資格を直接国税3円に引き下げ、小選挙区に改めた。…… 原内閣は、高等専門学校の増設、地方線を重点とした鉄道や道路の拡張、国防の充実などの施策を実施した。同時にこれらの施策を政友会の党勢拡大に利用した。」

原敬内閣の施策について、 しっかり丁寧にまとめられているか。
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問3「民主主義的・自由主義的な思潮や運動の盛り上がり」(正しい組合せ択一)
正答は(3)
教科書 p.105の11~14行目 「護憲運動の前後から、 東京帝国大学教授美濃部達吉と同上杉慎吉とのあいだで天皇機関説論争が展開された。 …… 美濃部は、統治権は国家にあり、天皇は国家の最高機関として統治権を実現し行使するものであると主張した。」
教科書 p.134の20行目~p.135の4行目 「…… 美濃部は2月25日、 貴族院本会議で「一身上の弁明」と題して天皇機関説を説明した。「国際条約を締結するとき、それは国家と国家が締結するのであって、そのさい、天皇個人の締結ではない」と。……」
教科書 p.109の7~9行目 「…… このような情勢のなかで石橋湛山は、 右の資料(一切を棄つるの覚悟-ワシントン会議にあたって『東洋貿易新報』1921年7月23日号)のように植民地を放棄すべきことを主張した。」 
教科書 p.154の右側10~13行目 「国内でも石橋湛山の植民地放棄論や高級軍人であった水野広徳の反戦論なども展開され、 こうした世論を受けて幣原喜重郎の協調外交も展開された。」
教科書 裏見返しの「政党変遷図」の〔歴代の総理大臣〕の項 「石橋湛山(自由民主党)」

大正デモクラシーの旗手としては、民本主義の吉野作造、天皇機関説の美濃部達吉の名前が浮かんでこよう。
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B 満州事変以後の日本の軍事費の増加と同時期の輸入総額における主要相手地域の割合の変化
問4「満州事変(1931年)以後の軍事費の増加-統計グラフ」(正文組合せ択一)
正答は(1)
教科書 p.125の8~12行目 「1931年9月18日夜、 関東軍は、 奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で満州線路を自ら爆破し、これを中国軍の行為だとして張学良軍を攻撃し、翌日には奉天城を占領した(柳条湖事件)。 第2次若槻礼次郎内閣は、不拡大方針を唱えたが、関東軍は計画的に戦線を拡大し、半年後には満州の主要部分を占領した(満州事変)。」
教科書 p.136の18~22行目 「1941年12月8日、陸軍はイギリスの植民地であるマレー半島北部のコタバル、タイのシンゴラに奇襲上陸し、海軍はハワイ真珠湾を奇襲した。 その直後、日本政府は、アメリカ・イギリスに宣戦布告し、アジアと太平洋地域全体を戦場とするアジア太平洋戦争を開始した。」
教科書 p.128の22~23行目 「1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近での発砲事件を契機に、日中両軍が交戦した(盧溝橋事件)。」
教科書 p.136の13~14行目 「かわって成立した東条内閣は、 (1941年)11月5日の御前会議で12月初頭の武力発動と最終的な日米交渉案を決定した。」

a~dの年代がしっかり確定でき、グラフの読み取り作業ができさえすれば、問題はない。
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問5「満州事変以後の輸入総額における主要相手地域の割合-統計グラフ」(正誤組合せ択一)
正答は(3)
教科書 p.128の28行目~p.129の1行目 「(1937年)9月に中国で第2次国共合作が正式に成立したこともあって、日本は宣戦布告をしないまま、中国とも全面戦争に突入していった(日中戦争)。」
教科書 p.129の側注(3) 「……日本政府は、この戦争を北支事変、のち支那事変と呼んだ。」
 教科書 p.130の10~11行目 「ノモンハン事件(1939年)のさなかの8月、ヒトラーのひきいるナチス-ドイツは、 ソ連と不可侵条約を締結し、 9月にはポーランドを攻撃した。」

日中戦争開始(1937年)、ドイツのポーランド侵攻(1939年)の両方がわかり、グラフの読み取り作業ができさえすれば問題なし。
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問6「戦時下の経済・社会」(誤文択一)
正答は(2)
教科書 p.141の1~2行目 「そこで政府は、 価格等統制令によって公定価格制をとり、 1940年からは配給制を本格的に実施した。」
教科書 p.159の4~5行目 「(1948年)12月、 アメリカの国務・国防両省は、均衡予算、徴税強化、物価・賃金の統制、輸出増進などの経済安定9原則を示した。」
教科書 p.131の9~10行目 「さらに政府は、 労働者の統制を目的に労働組合を解散させ、 11月に戦争協力のための大日本産業報国会を設立した。」
 教科書 p.141の2~4行目 「砂糖やマッチの切符制にはじまり、 翌年からは米穀も配給になり、以後ほとんどのものが配給になった。」

戦時下の政府は、人と資源・資金・食料の確保を戦争のために最優先するとともに、戦争協力のために労働組合までも解散させた。
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C 占領下の日本における諸改革
問7「農地改革と労働運動の活発化」(正文組合せ択一)
正答は(1)
教科書 p.149の29~33行目 「また、寄生地主制が「戦争の潜在力」とみなされ、自作農創設の方針が示された。戦時中から食料増産のため自作農創設の必要性がさけばれていたこともあり、1945年12月のGHQによる農地改革指令にはじまって、2次にわたる農地改革が実施された。」
教科書 p.161の16~18行目 「いっぽう、 労働組合のなかの民主化同盟派は、 アメリカ占領軍の支持のもとに、 1950年7月、日本労働組合総評議会(総評) を結成し、レッド・パージ容認を決定した。」

農業基本法(教科書のp.167・182)の制定は1961年、 労働組合期成会(教科書p.91)の結成は1897年で高野房太郎・片山潜らによる。
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問8「戦後の政党政治の展開」(古い順に配列)
正答は(3)
教科書 p.163の20~22行目 「平和条約をめぐって分裂していた社会党は、1955年10月に統一し、11月には、 保守合同が実現して自由民主党が結成された(55年体制の成立)。」
教科書 p.189の1~4行目 「1993年、 自民党の一部が宮沢内閣不信任案に賛成し、 自民党を離脱して新生党を結成した。 その直後の総選挙で自民党は過半数を失い、非自民8党連立による細川護熙内閣が同年8月成立したが、1994年6月には、自民党が政権に復帰した。」
教科書 p.158の21~22行目 「その後、(1947年)4月の総選挙では、日本社会党が第1党となり、5月、民主党、国民協同党との連立で片山哲内閣が成立した。」

日本社会党片山哲連立内閣(1947年)→自由民主党の成立(保守合同・1955年)→新生党細川護熙連立内閣(1993年)へと推移。
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第4問 近代の政治(自由民権運動)に関する問題(配点 12)
問1「自由民権運動」(正語句組合せ択一)
正答は(2)
教科書 p.79の21~23行目 「民権運動はいったん衰退したが、 国会開設が4年後に近付いた1886年、 旧自由党員らの大同団結の呼びかけで、 ふたたび盛り上がる気配をみせた。」 但し、 大同団結運動の提唱者として、 星亨・後藤象二郎の名前はなし。
教科書 p.86の7~10行目 「華やかな軍楽隊の吹奏や花火があげられるなかで開館式はすすみ、 当夜の主人役の井上馨が「この鹿鳴館を国内外の紳士がともに交わり、 国境を越えた友情を結ぶ場にしたい」と演説した。」

国会開設に向けた自由民権運動のなかで、大同団結運動(1886年)と三大事件建白運動(1887年)は重要な位置を占める。
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問2「政党の成立」(正誤組合せ択一)
正答は(2)
教科書 p.77の17~20行目 「彼らは自由党の結成を決め、 政変(明治14年の政変)後、 板垣退助を党首に選んで、 日本最初の政党を結成し、 政治の根本的な改革をめざした。 組織の中心は、 国会開設運動に取り組んできた愛国社系の結社や地方の豪農層であった。」
教科書 p.77の22~24行目 「翌年(1882年)4月、 大隈(重信)を党首とする立憲改進党を結成した。 急進的な改革を否定し、 穏健な改良によってイギリス流の政治体制を実現することが目標であった。」
教科書 p.77の側注(3) 「民権派の政党に対抗して、1882年3月、政府を支持する立憲帝政党も結成された。」 党首は福地源一郎だが、教科書には記載なし。

河野広中は福島県の民権結社である石陽社の中心人物で、後に県議会議長となり、県令三島通庸と激しく対立し、福島事件を起こした。
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問3「三大事件建白運動」(誤文択一)
正答は(3)
教科書 p.79の23~26行目 「1887年夏からは、 地租軽減、 言論・集会の自由、外交の挽回(条約改正)を要求する三大事件建白運動が全国にひろがった。これに対し政府は、保安条例を定め、運動の中心人物を強制的に東京から追放した。」

三大事件建白がすぐに挙げられるか。
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問4「初期議会の推移」(年代順択一)
正答は(4)
教科書 p.84の側注(1) 「憲法発布の翌日、首相黒田清隆は、特定の政党と支持関係をもたない「超然主義」で議会に臨む方針を表明し、その後の内閣も民党と対立しつづけたが、民党をおさえる力がなかった。」
教科書 p.84の7~8行目 「山県有朋内閣は、1891年、 民党の一部を切りくずして予算を成立させた。」
教科書 p.84の9~11行目 「ついで第2次伊藤博文内閣は、政府と議会の「和協」を説いた詔勅で民党の反対をおさえ、海軍拡張の予算を成立させた。」

初期議会は民党が議席の多数を占め、 軍備拡張を急ぐ政府や吏党と激しく対立した。 このため政府は政党の動向を無視する超然主義的態度をとったり、 民党の有力者を政府に取り込むなどの工作を推進する方策を講じたりした。 そして、 天皇の「建艦詔勅」を取り付けて民党の反対を押さえた。
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第5問 近現代の社会に関する問題(配点 23点)
A 大正時代の都市の生活様式
問1「都市の生活と大衆文学(大衆小説)」(正しい語句組合せ択一)
正答は(1)
教科書 p.119の17~23行目 「産業の発達によって都市には人口が集中し、 会社員などがふえた。…… 郊外には文化住宅が建設され、 関東大震災(1923年)後にはアパートも建てられるようになった。電気・ガス・水道もしだいに普及していった。」 但し、 デパートの記載なし。
教科書 p.119の8~11行目 「新聞や雑誌が大量の読者を獲得し、世論を動かす力をもつようになった。1冊1円の円本と呼ばれる安価な全集本が大流行し、大衆文学が花開いた。 無声映画(活動写真)が娯楽の王者となり、 宝塚少女歌劇や浅草オペラの軽演劇が大衆に親しまれた。 レコードによって音声が保存・再生されるようになり、蓄音機からは流行歌が流れた。」 但し、 中里介山『大菩薩峠』は記載なし。

スーパー(スーパーマーケット)は戦後の大量消費時代の象徴。中里介山『大菩薩峠』は、大佛次郎『鞍馬天狗』・吉川英治『宮本武蔵』と並んで大衆文学の代表作。
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問2「大正時代の洋装・洋食」(正文択一)
正答は(2)
教科書 p.182の左ページの23~26行目 「それ(米の供給の過剰)がきっかけとなって、 1970年代には、 米の生産調整(減反)がはじまり、 戦後農業は大きな転換期をむかえることになった。」
教科書 p.119の19~21行目 「通勤着・外出着として女性にも洋装が広がり、第1次世界大戦後には断髪が普及した。カレーライス・トンカツ・コロッケなどが家庭料理としてひろまった。」
教科書 p.67の19~20行目 「……こうした政策とあいまって、民間でも都市を中心に文明開化の風潮がひろがり、洋服・肉食・建築などの衣食住の洋風化がすすんだ。」

明治・大正・昭和・戦後期の生活文化は、センター試験では角度・視点を変えて出題されるので要注意。
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問3「第二次世界大戦以前のメディア」(正誤組合せ択一)
正答は(3)
教科書 p.177の4~5行目 「テレビ放送の開始(1953年)後、テレビが大衆娯楽とマスコミの中心となった。」
教科書 p.119の11~13行目 「1925年にはラジオ放送がはじまり、 人々は居ながらにして浪花節・講談・落語などの大衆娯楽を楽しむことができるようになった。 いっぽうラジオの出現は、 ラジオ体操のように全国の人々を同時に動かすことができる時代、 情報や指示を瞬時に全国に伝えることができる時代の幕開けともなった。」

ラジオ放送の開始は1925年(大正時代)、 テレビ放映の開始は1953年(昭和時代)である。
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B 1920~1960年までの東京府(都)・大阪府・愛知県の人口の推移(グラフ統計資料)
問4「上記の3都府県の人口の推移」(誤文択一)
正答は(4)
どの教科書にも記載なし

それぞれの都市の人口の推移を、文意に沿って丁寧に読み取り、正誤を判断するしか方法はない。
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問5「占領期の出来事」(正誤組合せ択一)
正答は(2)
引揚者の記載なし。日本史Bには、「敗戦により多数の海外の日本人が本土に引き揚げ、 本土の朝鮮人・中国人の多くが帰国した。」(p.346の15~16行目)との記述あり。
教科書 p.167の22~23行目 「地域開発と高度成長の進行によって、 大都市では人口の過密化により生活条件が悪化し、 農村では深刻な過疎問題が生じた。

660万人にのぼった海外の軍人・軍属および一般邦人は、1946年末までに500万人以上が引き揚げ、 1955年には628万人をこえた。 農村の過疎化と都市の過密化が進展したのは、1950年代中頃以降の高度経済成長期である。
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C 高度経済成長による産業構造の変容
問6「重化学工業地帯の形成と耐久消費財」(正しい組合せ択一)
正答は(1)
教科書 p.167の17~19行目 「1962年、政府は全国総合開発計画を決定し、 それまで主として太平洋ベルト地帯につくられてきた大コンビナートが、地方の新産業都市に続々とつくられるようになった。」
自家用車の記載はなし。 しかし、 家庭電化製品については、 教科書 p.166の12~14行目 「家庭電化製品の普及は、 生活様式を大きくかえた。 なかでも1955年以降、 急速に価格が安くなり普及がすすんだ白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫は「三種の神器」とよばれた。」との記述がある。

高度経済成長の起点はまず太平洋側から始まり、コンピュータ応用機器の導入は、企業側による徹底した減量経営による。
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問7「産業構造の変容と地域社会状況の変化」(正誤組合せ択一)
正答は(3)
教科書 p.167の14~16行目 「農工間の所得格差の解消と農業経営の自立をとなえて、 1961年には農業基本法が制定されたが、 農産物の輸入自由化がすすむなかで、農業経営は安定せず、 農業人口と専業農家の減少が続いた。
教科書 p166の18~22行目 「そのなかで、 エネルギー資源の石炭から石油への急転換がすすみ、モータリゼイションとあいまって、 エネルギーの輸出依存度が急速に高まった。 そのため石炭産業は衰退した。」

日本経済の高度成長の特徴としては、 都市への人口集中化、 石炭から石油へのエネルギー資源の転換、 家庭電化製品の普及、 貿易・資本の自由化、地域開発・公害問題の発生などが挙げられる。」 
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問8「高度経済成長期後の社会の変化」(誤文択一)
正答は(4)
教科書 p.166の8~11行目 「人口の都市集中に対応するため、 1955年に日本住宅公団が発足して住宅建設に着手し、 1960年代以後、 大阪の千里ニュータウンや東京のひばりが丘団地などをはじめとして大規模団地がつぎつぎとうまれた。」
教科書 p.166の15~18行目 「神武景気とよばれた1955~57年の好況期から、 年10%前後に及ぶ世界でも異例の経済成長がはじまった。 それは主として企業の大型設備投資によってもたらされ、 産業全体の重化学工業化と技術革新がすすんだ。」
教科書 p.167の5~8行目 「そのなかで日本は、1960年から貿易・資本の自由化をすすめ、1964年には、 経済協力開発機構(OECD)に加盟し、国際通貨基金(IMF)8条国に移行した。」
教科書 p.104の14~15行目 「他方、 1911年、女子や年少者の深夜労働などを規制する工場法を成立させた。」

前問と同じ。 女子工場労働者の深夜労働を禁じた法令は、 工場法(1911年)である。
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第6問 近現代の娯楽と政治に関する問題(配点 14)
A 社会主義運動とその弾圧法
問1「プロレタリア文学雑誌-『戦旗』」(正文択一)
正答は(2)
教科書 p.118の23~25行目 「大正時代前期には、 人道主義を特徴とする武者小路実篤・志賀直哉ら白樺派の文学者が活躍した。」
教科書 p.134の7~10行目 「いっぽう、 プロレタリア文学運動の発展もめざましく、 1928(昭和3)年に結成された全日本無産者芸術連盟(ナップ)とその機関誌『戦旗』を舞台に、小林多喜二の『蟹工船』、徳永直の『太陽のない街』、 中野重治の『春さきの風』などが発表された。」
教科書に記載なし 『アララギ』は1908年に伊藤左千夫らによって創刊された短歌雑誌。
p.98の30行目~p.99の2行目 「北村透谷ら雑誌『文学界』の同人は、ロマンチシズムの傾向を強め、樋口一葉は、社会の底辺に生きる庶民の姿を情緒ゆたかに描いた。」

『白樺』は人道主義、『戦旗』はプロレタリア文学、『アララギ』は短歌、『文学界』はロマン主義関係を代表する雑誌である。
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問2「治安維持法」(正文択一)
正答は(4)
教科書 p.121の16~18行目 「また政府は、 一部の政治家や知識人、 多くの民衆の反対があったにもかかわらず、 無政府主義者・共産主義者らの活動を取り締まる目的で治安維持法を成立させた。」
教科書 p.121の側注(2) 「この法律は、 国体の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社の組織者・加入者・資金提供者などに、最高刑として懲役10年の刑事罰を課するものであった。」

1934年の9年前に制定された社会運動の弾圧立法とあることから、1925年に制定された治安維持法を想起しなければならない。
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B 風刺漫画に見る戦争責任問題
教科書 p.148の側注(3) 「第2次世界大戦までは戦時国際法違反者を戦争犯罪人として裁いたが第2次世界大戦後は連合軍の告発によって侵略戦争の遂行者が対象となった。具体的には侵略戦争の計画・実行者はA級戦犯として、交戦法違反はB・C級戦犯、民間人の殺戮などの人道に対する罪はC級戦犯として裁かれた。B・C級戦犯裁判は、横浜やアジア太平洋各地でおこなわれた。その中には日本の軍人・軍属として動員された朝鮮人・台湾人も含まれていた。」
問3「『戦争犯罪人』の処罰」(正文択一)
正答は(2)
教科書 p.159の8~12行目 「また、 シャウプ税制使節団が来日し、 同(1949)年4月、1ドル=360円の単一為替レートが設定された。」
教科書 p.144の11~12行目 「ついでドイツ降伏後の7月、アメリカ・イキリス・中国は3国共同でポツダム宣言を発表し、日本に無条件降伏を求めた。」
教科書 p.144の10~12行目 「この間、1943年に米・英・中の連合国首脳は、戦争終結方針を討議するためエジプトのカイロで会談し、対日宣言(カイロ宣言)を発表した。」
「人権指令」については、教科書に記載なし。1945年10月4日に出されたGHQ覚書「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」のことで、天皇批判の自由・治安維持法の廃止、政治犯釈放などが求められ、これを実行できなかった東久邇宮稔彦内閣は総辞職した。

日本の無条件降伏を勧告したと表記されていることから、自然とポツダム宣言が想起されなければならない。
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問4「満州事変以降の出来事」(誤文択一)
正答は(1)
教科書 p.75の8~9行目 「これに対して政府は、1875年6月、新聞紙条例讒謗律を定め、記者を投獄するなどして弾圧を強めた。」
 「人民戦線事件」については、教科書に記載なし。 参考として、『日本史B』の教科書 p.337の下注(2) 「1937年に反ファッショ人民戦線を企図したとして、加藤勘十・山川均・鈴木茂三郎らが検挙され、日本無産党が結社禁止となり(第1次)、翌年大内兵衛・有沢広巳・美濃部亮吉ら教授グループが検挙された(第2次)。」
教科書 p.131の3~5行目 「日中戦争開始後、 戦争に国民を自発的に協力させるねらいで、 国民精神総動員運動を展開した。」
教科書 p.131の6~7行目 「社会大衆党・政友会・民政党などがつぎつぎと解散したのち、首相(近衛文麿)を総裁とする大政翼賛会が1940年10月に結成された。」

新聞紙条例は明治時代に発令された自由民権運動を弾圧するための法律である。
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問5「占領軍による戦犯容疑者の逮捕・追放」(正誤文択一)
正答は(1)
教科書 p.135の23~25行目 「戦争の進行のなか、火野葦平の『麦と兵隊』などの戦争文学が流行し、1942年には戦争に協力する文学者によって、 日本文学報国会が結成された。」
教科書 p.149の26行目 「また、 公職追放令、 国家と神道の分離指令も出された。」
教科書 p.149の側注(5) 「政・官・財界、言論界の戦争協力者など約21万人が公職から追放された。」

日本文学報国会は1942年5月、大政翼賛会・内閣情報局の指導でつくられた文学者の戦争協力組織で、会長には徳富蘇峰が就任。公職追放令は、のちに1950~52年にかけて、軍国主義者や国家主義者らの公職追放の解除がおこなわれた。
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