2006年度 センター試験【世界史B本試】解説
問1 【異文化の交流・接触】【1】
(1) 義浄マジャパヒト王国ではなく、7世紀にシュリーヴィジャヤに滞在し、『南海寄帰内法伝』を著した。時代と国名違いである。
→教科書p.89「仏教では,インドに留学した僧が教理の研究をすすめた。彼らのなかには旅行記をあらわす者もあり,陸路をとった玄奘の『大唐西域記』と海路をとった義浄『南海寄帰内法伝』が有名である。」
(2)イブン=バットゥータは宋代ではなく元朝支配下の中国を訪れ、『三大陸周遊記』を著した。
→教科書p.110「モロッコのウラマーのイブン=バットゥータはすぐれた旅行記(地誌)『三大陸周遊記』を残した。」
→教科書p.129「ムスリムのイブン=バットゥータが来訪したのは元末のことである。」とあり、宋代ではない。
(3)○ アメリゴ=ヴェスプッチは南アメリカ大陸沿岸を探検した。
→教科書p.167の地図と本文「新大陸は,その地の事情をくわしく探検したアメリゴ=ヴェスプッチにちなんでアメリカとよばれるようになった。」
(4)フランシスコ=ザビエル16世紀の日本にキリスト教を伝えた。時代違い。
→教科書p.211「1549年にはフランシスコ=シャヴィエル(ザビエル)が日本にはじめてキリスト教を伝え,中国へも布教におとずれたが途上で病死した。」

内容誤りの問題ゆえに正しいものを選ぶとよい。「旅」に関する出題は頻出事項。
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問2 【都市の位置と都市への問い】【2】
a スワヒリ文化は東アフリカ沿岸都市の文化であり、ムスリム商人が居住した。
→教科書p.115「12世紀ごろには,マリンディ・キルワ・ソファラなどのおもな港市国家にムスリム商人の居留地がうまれ,バントゥー系の文化とイスラーム文化の融合した文化が形成されていった。」
→教科書p.115の注(2)「アラブ人が,この地のムスリムおよび彼らの言語をスワヒリ(Swahili,海岸に住む人々の意)とよんだので,この文化はスワヒリ文化と称されている。」
b ダウと呼ばれる帆船
→教科書p.112の図版「三角帆を装備した木造船。ダウ船とよばれ、・・・(略)・・・インド洋商業で活躍した。」 正解の組み合わせは(6)

アラビア半島から東アフリカにかけては季節風を利用してダウ船が航行したことを踏まえ、地図で都市の位置を確認させる。
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問3 【東南アジア地域について】【3】
(1) チャンパーはビルマ(ミャンマー)でなくヴェトナムに成立。
→教科書p.62「2世紀末に日南郡から独立したチャンパは南シナ海域に,それぞれ商業ネットワークをひろげた。」
(2) 琉球王国は15世紀に統一、朝貢貿易で繁栄。
→教科書p.216「琉球では豪族が割拠していたが,明の冊封を受けた中山王尚氏が15世紀に統一を完了し,琉球王国が成立した。琉球王国は,朝貢貿易を主軸に華僑ネットワークを利用し,東南アジア・朝鮮・日本との中継貿易によって繁栄し,各種の文化を融合した独自の文化をきずいた。」
(3)○ラーマ5世(チュラロンコーン)は19世紀末に近代化政策を推進した。
→教科書p.266「1782年に成立したチャクリ朝(バンコク朝)の王たちによる,熱心な近代的改革と外交努力も大きく影響している。とりわけ,開明的専制君主として知られるラーマ5世(チュラロンコン大王)のはたした役割は大きかった。」
(4) 東ティモールは20世紀末にインドネシアからの分離独立をめざし、2002年に独立した。オランダからの独立ではない。

最近、東南アジアと日本の関係が綿密になっていく現状から、東南アジアがしばしば出されている。国名と旧宗主国を確認する。
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問4 【内陸アジア地域】【4】
(1) 張騫を派遣したのは、光武帝ではなく武帝である。
→教科書p.76「前138年ごろ,前漢の武帝は匈奴挟撃の交渉のため張騫を大月氏国に派遣した。」
(2)○ティムール帝国はサマルカンドを中心に繁栄。
→教科書p.195「武将ティムールがサマルカンドを都に帝国をたてた(ティムール帝国)。」なお、サライはキプチャク=ハン国の中心都市。
(3) イル=ハン国はタブリーズを中心に繁栄。
→教科書p.106「モンゴルのフラグは,1258年にアッバース朝を滅ぼしたのち,西アジアにイル=ハン国をたて~」。
(4) ブハラ(ボハラ)・ヒヴァ・コーカンドの3ハン国を占領したのは清ではなく、ロシアである。
→教科書p.196「16世紀はじめ,西トルキスタンにブハラ=ハン国・ヒヴァ=ハン国などのイスラーム国家を樹立して、ソ連邦解体後の現在の中央アジア諸国のもととなった。」

内陸アジアは出題が増加する傾向にあるが、学習が不足しがちなところであり、要注意。
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問5 【中国の河川やその流域】【5】
(1) 黄河上流のカラコルムに,元が都を定めた。
→教科書p.125「チンギス=ハンの第3子オゴタイ(太宗)が,クリルタイの決議によってはじめて大ハンの位につくと,1231年高麗に侵入し,1234年には金を滅ぼし,都をカラコルムに定めた。」
(2) 華北と江南を結ぶ大運河の建設は,元代から開始された。
→教科書p.128「元は,大運河や山東半島ぞいの海運を整備して,陸と海の交易路をむすびつけたため,ユーラシア大陸の内陸路による交易とインド洋を行き来する海上交易はますますさかんとなり~」
(3) 南京条約の結果開港されたのは、天津ではなく長江河口の上海。
→教科書p.269「戦争にやぶれた清朝は,1842年に南京条約,翌年に虎門寨追加条約をむすんだ。」
→教科書p.269「イギリスは,貿易の拡大をはかるため,1856年におこったアロー号事件を口実に,フランスとともに清に出兵した(アロー戦争)。イギリス・フランスは広州を占領し,天津をおびやかして天津条約をむすばせた(1858年)。」
(4)  アイグン条約により、黒竜江(アムール川)が清とロシアの国境に定められた。
 ○→教科書p.270「ロシアは,東シベリア総督ムラヴィヨフに清とアイグン(愛琿)条約をむすばせて,アムール川(黒竜江)以北の土地を獲得した(1858年)。」

河川と出来事を結びつける問題は今後増加する可能性がある。
 
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問6 【遊牧国家と中国】【6】
(1)(2) 匈奴-唐
→教科書p.75「スキタイ文化の影響を受け,遊牧騎馬民族としてモンゴル高原で活躍した匈奴は,前3世紀ごろ,単于に統率されて国家を形成した。前2世紀になると冒頓単于にひきいられて強力となり,東胡や月氏などをうち,漢の高祖の遠征軍を包囲してやぶり,以後漢から貢物を送らせた。」
(3)(4) -唐
→教科書p.119「916年,契丹族が耶律阿保機(太祖)によって統一された。926年,太祖は渤海を滅ぼし,次の太宗は後晋を圧迫して燕雲十六州をとり(936年),国号を中国風のと定めて(947年),~(略)~第6代聖宗のとき国力は充実し,宋を攻めて○淵の盟をむすんだ。」

遊牧国家と中国王朝との関係をきちんと理解させる。遊牧国家に対する出題は増加傾向にあり、きちんとした理解をさせる。
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問7 【ヨーロッパの中東進出】【7】
ア スエズ運河の開通は1869年。
→教科書p.260「 エジプトがフランスと共同で建設したスエズ運河が開通するころ」
教科書同ページ注(2)「外交官出身のフランス人レセップス(Lesseps,1805~94)の指導で1859年に着工し,1869年に開通した。」
イ ワフド党のエジプト独立運動
→教科書p.312「(第一次世界)大戦後,ワフド党が独立運動を展開し,1922年には立憲君主政のエジプト王国として,形式的な独立を達成した。」
ウ ナポレオン=ボナパルト(後のナポレオン1世)は18世紀末、エジプト遠征を行った。
→教科書p.259「1798年,エジプトはナポレオンひきいるフランス軍に占領されたが,オスマン帝国はイギリスの支援を得てこれを排除した。

時代の整序問題は、おおよそ何世紀なのかを普段から意識し、時代順に並べられるよう、理解を深めさせる。
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問8 【イスラーム教】【8】
(1) 『クルアーン(コーラン)』はイスラーム教の聖典である。
→教科書p.99「ムハンマドは,アッラーの啓示を断続的に受けた。それらを人々が記憶し,650年ごろに収録されたのが啓典『コーラン(クルアーン)』である。」
(2) イスラーム教はアッラーを信じる一神教である。
→教科書p.98「ハーシム家の商人ムハンマドは,7世紀はじめ,唯一神(アッラー)の啓示を受けた預言者(使徒)と自覚し,イスラーム(アッラーへの服従)を説き,偶像崇拝も否定した。」
(3) 9世紀にイスラーム法が体系化された。6世紀ではない。
 ○→教科書p.99「650年ごろに収録されたのが啓典『コーラン(クルアーン)』である。内容は,信仰信条・宗教行為から世俗生活に及び,シャリーア(イスラーム法)の基盤になっている。」教科書p.102「シャリーアも,9世紀なかごろまでに体系化された。」
(4) メッカにあるカーバ神殿を聖地としている。
→教科書p.98「メッカは,ヒジャーズ山地西斜面の涸れ谷にあり,小さなオアシスながら,黒石をまつる神殿(カーバ)をもち,アラブ人の聖地の一つであった。」

カタカナ表記の多いイスラーム教の基本的用語について理解させる。イスラーム教の出題は頻出事項なので、教科書でイスラーム教の基礎知識を固めさせる。
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問9 【反乱・独立運動】【9】
(1) マフーディ勢力
はイギリスに抵抗した。 →教科書p.282「1882年以降エジプトを事実上保護国としていたイギリスは,南進政策をすすめ,ムハンマド=アフマドがひきいるマフディー派のはげしい抵抗(マフディー運動)を受けつつ,1899年東スーダンを占領した。」
(2)○ バーブ教徒の反乱の反乱は1848年に勃発した。
→教科書p.261「(イランでは)ロシア・イギリスの経済的進出による窮乏化や税負担の増大に苦しむ農民・手工業者・商人らは,各地で税金不払いの闘いにたちあがり,1848年には,バーブ教徒の乱もおこった。」
(3) アラービー=パシャの反乱は、シリアではなくエジプトでおこった。
→教科書p.280「エジプトでは,アラービー=パシャらが,列強の内政干渉に反対して1881年に決起し,翌1882年の2月に政権をにぎったが(アラービーの反乱),イギリスの軍事干渉で,同年9月鎮圧された。」
(4) オスマン帝国内の自治国であったブルガリアは、1908年にオスマン帝国から完全に独立した。オーストリア=ハンガリー二重帝国の支配下ではない。
→教科書p.246「オスマン帝国からギリシアが独立すると,それに刺激されたエジプト・ルーマニア・セルビア・ブルガリアなども独立をめざしヨーロッパ諸国の援助を求めた。」

19世紀における反乱や独立運動はしばしば出題され、出題地域も広範囲なので、年表などで地域的な結びつきを意識させる。
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第2問
問1 【闘争】【10】
(1) ビザンツ皇帝レオン3世聖像禁止令を端緒に東西教会の対立と分裂が始まった。
→教科書p.140「ビザンツ皇帝レオン(レオ)3世は,726年に聖像禁止令を発し,東西教会の対立は決定的になった。」
(2)○
→教科書p.141「グレゴリウス7世は,教皇権の強化をはかり,世俗支配者による司教・修道院長などの聖職任命(叙任)権を否定したので,神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との間に叙任権闘争をひきおこした。皇帝が改革を無視したために,グレゴリウスは彼を破門し,」
(3) カール大帝のローマ皇帝授冠について、その時の教皇はインノケンティウス3世ではない。
→教科書p.134「一方ローマ教会はカール大帝に接近し,800年,教皇レオ3世は彼にローマ皇帝の冠を授け,その権威を高めさせた。」
(4) 第1回十字軍の提唱者はフランス王シャルル7世ではなく、教皇ウルバヌス2世である。
→教科書p.154「教皇ウルバヌス2世は,1095年にクレルモン公会議をひらき,イェルサレム奪回を目的とした十字軍を派遣することを提唱した。翌1096年には諸侯・騎士を主体とする第1回十字軍が出発し,1099年にイェルサレムを占領してムスリム・ユダヤ教徒の虐殺をおこない,イェルサレム王国をたてた。」

中世の基本事項について、政治と宗教の両面から理解させる。教皇と世俗君主については事項に従って簡単な整理図をつくらせると良い。
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問2 【対立にかかわった君主】【11】
(1) 13世紀の出来事。ヘンリー2世ではなく、ジョン王マグナ=カルタを承認した。
→教科書p.153「国王ジョンは,フィリップ2世と争ってフランス内の領土の多くを失い,カンタベリ大司教の叙任問題でローマ教皇と争って屈服し,財政に窮して過大な課税をしたので,貴族たちは都市ともむすんで国王に対して内乱をおこし,1215年,大憲章を国王に承認させた。」
(2)○ 
→教科書p.151「1303年,フランス国王フィリップ4世は,聖職者にも課税しようとして,これに反対する教皇と争い,教皇ボニファティウス8世をローマ近郊でとらえるにいたった(アナーニ事件)。」
(3) 16世紀に神聖ローマ皇帝のカール5世とフランス王がイタリア問題で対立した。
→教科書p.164「(16世紀)、彼(カール5世)はフランスのフランソワ1世とイタリア戦争をくりひろげ,」
(4) 16世紀後半の出来事で時代誤り。
→教科書p.186「モスクワ大公国では,16世紀後半からイヴァン4世(雷帝)が教会の首長を兼ねるとともに,公式にツァーリの称号を用いた。」

どの皇帝も頻出なので、きちんと教科書を読み、授業で確認しておく。
       
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問3 【教会大分裂に関わる会議】【12】
(1) ニケーア公会議の開催は325年。
→教科書p.49「公会議がひらかれて教義の統一がはかられ,325年のニケーア公会議で,アタナシウスの主張する父なる神とイエス=キリストが同一とする説が正統とされ,アリウス派は異端とされた。アタナシウス説は,のちに神とキリストに聖霊を加えた三位一体説に発展した。」
(2) メルセン条約の締結は870年。
→教科書p.135「フランク王国は,ヴェルダン条約(843年)とメルセン条約(870年)によって,イタリア・東フランク・西フランクの3国に分裂した。」
(3)○
→教科書p.152「聖ローマ皇帝の提唱でひらかれたコンスタンツ公会議は,ウィクリフの説を異端とし,フスを処刑し,教会大分裂を収拾して体制の立て直しをはかったが,教会の勢力を旧に復することはできなかった。」
(4) アウクスブルクの和議は1555年に成立。
→教科書p171「ルター派の諸侯はシュマルカルデン同盟をむすんで皇帝派と戦闘をまじえたが,両派の争いは,1555年のアウグスブルク宗教和議で妥協がなされた。」

中世以前の主な会議なので、何を目的に開かれたのかを整理させる。
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問4 【14・15世紀の東南アジア】【13】
(1) 19世紀の出来事。阮福瑛(阮福映)がヴェトナムを統一した。
→教科書p.266「阮福映は,フランス人宣教師ピニョーの援助を受けて西山朝を倒し,1802年に阮朝を成立させ,清朝から越南国王に封じられた(1804年)。」
(2)○
→教科書p.203「タイ人は,アンコール朝から自立し,13世紀ごろからチャオプラヤ(メナム)川中流域に国家をきずいた。最初の統一王朝であるスコータイ朝では上座部仏教が栄え,クメール文字をもとにしたタイ文字もこのころ確立された。ついでアユタヤ朝・チャクリ朝が比較的安定した国家を維持した。」
(3) 20世紀後半、マラヤ連邦からシンガポールが分離・独立した。
→教科書p.338「マラヤ連邦は,さらに,1963年にはインドネシアやフィリピンの反対を無視して,シンガポールや北ボルネオのサバ・サラワクなどを加えてマレーシア連邦を結成したが,1965年には中国系住民の多いシンガポールが分離独立した。」
(4) 8世紀から9世紀、シャイレーンドラ朝の時,ボロブドゥールが造られた。
→教科書p.63「8世紀なかば,ジャワ島中部でシャイレーンドラ朝をおこして発展し,また大乗仏教を保護して壮大なボロブドゥールを造営した。」

東南アジアの政治的流れは押さえさせる。近代では旧植民地と植民地の人々の対立が先鋭化する場合があるので、その点に注目して理解を深めさせる。
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問5 【事件と起こった場所】【14】
(1)(2)  宋王朝は金によって滅んだ。靖康の変
→教科書p.121「金は遼を滅ぼし,ついで1126年には宋の都開封(○京)をおとしいれて上皇徽宗・皇帝欽宗以下,多数の皇族・高官を東北奥地に連れ去った(靖康の変)。」
(3)(4) 土木の変
→教科書p.207「北方では,1449年にオイラートのエセン=ハンが,明の正統帝(英宗)を土木堡で捕虜とし(土木の変),16世紀にはタタールのアルタン=ハンがしばしば長城内に侵入して明を苦しめた。」

事件がどこで起こったか、位置を地図で確認させる。地理的な理解が問題を易化させることもあるので、普段から地図をみる習慣を身につけさせる。
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問6 【中国における皇帝の統治体制】【15】
(1) 晋の時代以降について、八王の乱以後、華北は分裂していった。
→教科書p.80「まもなく各地に封ぜられた司馬氏一族が八王の乱をおこし,この機に乗じて4世紀はじめ,華北の西・北方にいた匈奴・羯・鮮卑・羌・○の五胡が華北にあいついで王朝をたてたが,いずれも短命に終わり,華北も分裂状態となった(五胡十六国時代)。」

中国史が単純に出題されることはなくなるだろう。
(2) 隋は,楊堅のときに科挙を始めたが、殿試は宋の時代に始められた。
→教科書p.117「。宋は,節度使を廃して文人官僚を重用し,皇帝直属の軍(禁軍)を強化して,中央集権的な皇帝専制政治をしいた。科挙殿試の制を加えて整備され,新興地主や富商の子弟が官僚として多く登用された。」
(3) 骨品制は新羅における身分制度。
→教科書p.90「3世紀に辰韓から発展し,朝鮮の南東部に建国した新羅は,6世紀前半には強力な領域国家に成長した。(略)唐の制度・文化を摂取して律令制をしき,骨品制によって王族・官僚貴族の身分を厳格に守った。」
(4) ○
→教科書p.117「後周の武将趙匡胤(太祖)は,960年宋(北宋)を建国し,開封(○)に都をおき,次の太宗のときに全国が統一された。宋は,節度使を廃して文人官僚を重用し,皇帝直属の軍(禁軍)を強化して,中央集権的な皇帝専制政治をしいた。」

君主名や制度は中国史出題の基本なので、主な皇帝は時代ごとに整理しておくと良い。
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問7 【ヴェルサイユ宮殿】【16】
a ヴェルサイユ宮殿は,ゴシック様式ではなく、バロック式の代表的な建造物なので、誤り。
→教科書p.191「絶対王政のもとでは,宮廷とむすびついた文化が栄えた。美術では,ヴェルサイユ宮殿に代表される豪壮・華麗なバロック式が支配的になり,」
b 普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)に勝利したヴィルヘルム1世は,ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝としての即位式を行った。正しい。
→教科書p.246「翌1871年,ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の位につき,ここにドイツ帝国(第二帝国)が成立した。ドイツはフランスからアルザス・ロレーヌを獲得した。」

正誤問題はあわてないことが重要。文のどこかに手がかりが隠されていることもあるので、よく問いの文を読むこと。
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問8 【17世紀のヨーロッパの君主】【17】
(1) ブルボン朝のアンリ4世が即位し、ユグノー戦争を終結させた。
→教科書p.182「16世紀のフランスでは,カルヴァン派の新教徒(ユグノー)が増加してカトリック教徒との対立が激化し,その対立に宮廷をめぐる貴族の勢力争いがむすびついて,ユグノー戦争とよばれる内乱が生じた。この内乱は,サン=バルテルミの虐殺(1572年)のような惨事をともない,外国の干渉もまねいた。その過程でヴァロワ朝がたえて新教側の指導者アンリ4世が即位し,ブルボン朝をひらいた。」
(2) ○
→教科書p.178「エリザベス1世が死んでテューダー朝がたえると,スコットランドのジェイムズ6世がイングランド王ジェイムズ1世となり,ステュアート朝をひらいた。彼は王権神授説を唱え,議会の同意なしに課税したり大商人に独占権を与えたりしたうえに,イギリス国教会に属さない新教徒を抑圧した。」
(3) 人民憲章は1848年のチャーティスト運動で出された。
→教科書p.238「選挙権を与えられなかった労働者は,男子普通選挙・秘密投票など6か条からなる人民憲章を議会に提出してチャーティスト運動を展開した。」
(4) ルイ15世ではなく、ルイ13世の時。宰相リシュリューが登用され,三部会を停止した。
→教科書p.237「次のルイ13世のもとで宰相になったリシュリューは王権に反抗する大 貴族やユグノーの勢力をおさえて三部会を停止するいっぽう,国家利益をかかげて三十年戦争で新教側を支持し,ハプスブルク家に対抗した。」

君主に関する問いが多いのが本年度の出題傾向でもある。ヨーロッパ史においても 出題の高い君主については君主ごとに歴史事項を整理しておく。
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問9 【17世紀のヨーロッパ諸国の海外への進出】【18】
(1) ○
→教科書p.216「17世紀にはいると,オランダ東インド会社がバタヴィア(現在のジャカルタ)を中心にジャワ島を拠点とし,バンテン・マタラムなどのイスラーム勢力やイギリス・ポルトガルをおさえて香料貿易をほぼ独占したが,」
(2) エンリケ航海王子は,15世紀始めから西アフリカ沿岸における探検を推進した。
→教科書p.166「15世紀のはじめから,ポルトガルのエンリケ航海王子はたびたび探検隊をアフリカ西岸に送っていたが,」
(3) スペインではなくフランスがケベックを中心にカナダの植民地を建設した。
→教科書p.189「フランスは,コルベールの重商主義政策によって,1664年に東インド会社を再興し,(略)~イギリスに対抗し,北アメリカにおいても,17世紀末にカナダとルイジアナに広大な植民地を獲得していた。」
(4) 19世紀後半、アメリカはロシアからアラスカを買収した。
→教科書p.253「合衆国は,1867年にロシアからアラスカを買収し,」

文章の中の地名などは地理の知識があると容易に問いに答えられる。
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第3問
問1 【フェニキア人の都市ティルス(テュロス)及びその植民市カルタゴ】【19】
ティルス(テュロス)
→教科書p.28「セム系のフェニキア人は,前2000年紀にはウガリト・テュロス・シドンなどの都市国家を形成して隊商と海上交易で繁栄し,西の地中海にもひろく植民活動をおこなった。」教科書p24の地図参照。
カルタゴ
→教科書p.42「ローマ人は海上交易にものりだし,西地中海を支配していたフェニキア植民市カルタゴとの間で3次にわたるポエニ戦争をおこしてこれを滅ぼし,シチリア・ヒスパニア・アフリカを海外領土(属州)とした。」教科書p.46の地図参照。

地図と都市の位置を確認させる問題はますます増える傾向があるので  普段から地図を見させて、都市や重要な地域名を調べさせておく。
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問2 【古代ギリシアの都市の市場・集会・広場】【20】
(1)(2)(4) アクロポリス・アゴラ・ポリス
→教科書p.32「前9世紀から前8世紀にかけて,人々は貴族を中心に,祭祀の場所の丘であるアクロポリスの麓に集住(シュノイキスモス)し,アゴラ(広場)を政治・経済の中心として,多数のポリスをつくりあげた。」

広場をテーマにしたユニークな問い。普段の学習で十分に理解できる。
         
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問3 【アテネの広場】【21】
a セレウコス朝シリアは前4世紀から前1世紀に建国されたヘレニズム諸国の1つ。
→教科書p.40「セレウコス朝シリアはしだいに領土を縮小し,前2世紀なかばにユダヤ人がマカベア戦争によって独立した(前142年)。これらのヘレニズム諸王国は前1世紀までに,西方から進出してきたローマによって征服された。」
b ソロンは前6世紀に活躍した改革者。
→教科書p.33「前6世紀はじめ,アテネではソロンがアルコン(ポリスで最高の役職)になり,調停者として,改革をおこなった。」
c ペイシストラトス僭主政治を打ち立てた人物。
→教科書p.34「貴族と平民の対立は続き,混乱に乗じて非合法に独裁権力をにぎる僭主があらわれた。貴族出身の僭主ペイシストラトスは,農業を保護して平民の経済力を強め,文化の発展にも寄与した。」

時代順に並べる設問だが、時代が接近しているので、やや難の出題といえる。
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問4 【空欄【ア】~【ウ】組み合わせ】【22】
(1) 塩・陶磁器・広州
塩→教科書p.72「内政面では五銖銭を鋳造するとともに,・鉄・酒を専売制にして商人・手工業者の利益をおさえ,」
陶磁器→教科書p.216「マニラがアメリカ大陸の銀と中国の生糸・絹織物・陶磁器などの物産の交易地として発展した。」
広州→教科書p.211「海外貿易は制限され,1757年,乾隆帝は貿易を広州1港にかぎり公行という特許商人組合を通じて貿易をおこなわせた。」

元代以降の陸海の交易ネットワークは近年出題頻度が高いので、よく学習しておくと良い。
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問5 【唐代の国際交流】【23】
(1) 4世紀、西域から訪れた僧仏図澄は大乗仏教を中国に伝えた。
→教科書p.82「仏教は紀元前後に中国に伝わったが,4世紀の後半,仏図澄や鳩摩羅什らの西域の仏僧が,絹の道をへて大乗仏教を伝え,仏典の漢語訳や布教をはじめてから本格的にひろまった。」
(2) 異端とされたアリウス派キリスト教ではなく、中国へは唐代にネストリウス派のキリスト教(景教)が伝えられた。
→教科書p.49「325年のニケーア公会議で,アタナシウスの主張する父なる神とイエス=キリストが同一とする説が正統とされ,アリウス派は異端とされた。アタナシウス説は,のちに神とキリストに聖霊を加えた三位一体説に発展した。」
教科書p.49注(4)「ネストリウス派はペルシアを経て唐代の中国に伝わり,景教とよばれた(→p.89)。」
(3) ○
→教科書p.86「唐の律令にもとづく政治体制は,周辺諸国でも採用され、広まった。北方では東突厥・ウイグル,東北では渤海,東では新羅と日本,西では吐蕃と南詔などが,唐の制度や文物をとりいれた。」
(4) 「大秦王安敦」の使者はローマ帝国から遣わされた。
→教科書p.76の注(3)「また2世紀後半,大秦国王安敦の使者と称するものが,海路で日南郡(→p.71)に到達したという記録がある。大秦国とはローマ帝国,安敦とはマルクス=アウレリウス=アントニヌス(→p.45(3))であるといわれる。」

最初は時代違いを排除し、さらに内容違いを確認すると答えは明らかになる。いつ頃の出来事なのか意識させて答えさせる。
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問6 【陸海の交易ネットワーク】【24】
(1) マウリヤ朝ではなくクシャーナ朝が正しい。
→教科書p.57「西北インドには、前2世紀にバクトリアのギリシア人、前1世紀にはイラン系のサカ・パルティアが南下し、紀元1世紀にはイラン系クシャーナ朝の支配が及んだ。」
(2) パガン朝は,ビルマに誕生した王朝で、上座部仏教の国。
→教科書p.114「ビルマ人が11世紀なかばにパガン朝をたて,支配下のモン人から文字・仏教を受け入れた。」
(3) 金は,中国全土に駅伝制を設け,陸上交易路を発達させた。
→教科書p.128「オアシス諸都市のネットワークを掌握したモンゴル帝国は,元成立後も元を宗主国とするゆるい連合体を維持し,全土に駅伝の制(站赤)を設けて交通・通信網を整備し,強大な武力によって陸上の交通路の確保につとめた。」
(4) 明は,海禁政策を採り,朝貢貿易体制を維持しようとした。
○→教科書p.210「明初以来の海禁は明末にゆるめられた。」

陸海の交易ネットワークを国家レベルで問う出題。時代違い・内容違いの点から答えを導きだせる。
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問7 【16・17世紀の東ヨーロッパ】【25】
(1) ○ ベーメン(ボヘミア)の新教徒
→教科書p.183「1618年にベーメン(ボヘミア)で生じた新教徒の反乱をきっかけに,三十年戦争がおこった。」
(2) 19世紀初め、ナポレオンによってライン同盟が結成され、神聖ローマ帝国が復活することはなかった。
→教科書p.235「神聖ローマ帝国は復活せず,ドイツでは,プロイセンやオーストリアをはじめ35か国と4自由市が新たにドイツ連邦をつくり,また,スイスの永世中立も認められた。」
(3) ステンカ=ラージンの農民反乱はロシアで起こった。
→教科書p.187「ロシアの農奴たちは,17~18世紀に,ステンカ=ラージンの乱やプガチョフの乱などの反乱をおこしたが鎮圧され,貴族の権力はかえって強化された」
(4) コシューシコ(コシチューシコ)は義勇軍を率いてロシアと戦ったが、鎮圧された。
→教科書「ポーランドの愛国者コシチューシコは,義勇軍をひきいてロシアとたたかったがやぶれ,ついに1795年の第3回分割(第1回と同じ3国による)でポーランドは滅亡してしまった。」

時代違いと内容違いを問う出題が多いので、選択肢をよく読み、勘違いが起こらないようにする。多少、細かな知識を必要とした問いである。
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問8  【国の対外政策】【26】
(1) エジプト総督となったのは、アブデュル=メジト1世ではなく、ムハンマド=アリーであった。
→教科書p.259「オスマン軍傭兵隊指揮官ムハンマド=アリーは,1805年エジプト総督に就任した。アリーは,マムルーク領主層を一掃して中央集権化をすすめ,富国強兵政策を実施した。」
(2) 南アフリカ戦争を推進したジョセフ=チェンバレンではなく、19世紀前半、イギリス外相カニングはラテンアメリカ諸国の独立を支持した。
→教科書p.250「イギリスはこの地域を新しい市場にしようとし,外相カニングがモンローに同調して諸国の独立を支持した。」
(3) ○
→教科書p.248「1878年にベルリン会議がひらかれ,サンステファノ条約は破棄され,新たにベルリン条約がむすばれた。その結果,~(略)~イギリスはキプロス島の行政権を得た。」
(4) 20世紀後半のロンドン軍縮会議ではなく、ワシントン会議が正しい。
→教科書p.301「東アジア・太平洋地域の戦後の国際秩序は,1921年11月からひらかれたワシントン会議で討議された。この会議では,~(略)~九か国条約がむすばれ,中国の独立と主権の尊重,門戸開放などが定められた。また,~(略)~で四か国条約が締結されて,太平洋における平和維持,領土の現状維持がとりきめられ,日英同盟の終了も宣言された。」

どの選択肢も知識があいまいなままだと間違いやすいものなので、消去法で考えると良い。問題としてはやや難の出題といえる。
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問9 【国際関係の秩序】【27】
(1) 『海洋自由論』を著したのはオランダのグロティウス
→教科書p.193「オランダのグロティウスは,自然法思想を国際関係にあてはめて,『戦争と平和の法』や『海洋自由論』をあらわし,「国際法の父」「自然法の父」とよばれた。」
(2) 国際通貨基金(IMF)は,ヨーロッパ共同体(EC)の専門機関ではなく、国際連合の専門機関の1つとして設立された。
→教科書p.347「国際経済の運営のための組織としては,国際連合の専門機関の一つとして国際通貨基金(IMF)がつくられ,国際収支の赤字国への資金供与をおこなうことになった。」
(3) ○
→教科書p.352「ドル危機が深刻化するなかで1971年,ニクソン大統領は,ドルと金との交換停止を発表し(ドル=ショック),ドルを中心とする国際通貨体制は動揺した。」
(4)  1967年に東南アジア諸国連合(ASEAN)が成立したが、アジア太平洋経済協力会議(APEC)に改組されてはいない。
→教科書p.339「同年,大統領代行(1968年大統領)に就任したスハルトは,親米反共路線をとり,8月には,タイ・フィリピン・マレーシア・シンガポールとともに,東南アジア諸国連合(ASEAN)を結成した。」さらに教科書p.358「オーストラリアのホーク首相は,1989年,アジア太平洋経済協力会議(APEC)の結成を提唱した。」

最後の選択肢は必須の用語だが、現代史なので理解が不十分になりやすい。日ごろから国際関係に関わるニュースに関心を持たせる。
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第4問 【各地の飲み物や食べ物】(配点 25)
問1 【雲南と四川における歴史上の出来事】【28】
(1) 10世紀、雲南では南詔に代わって大理国が興った。
→教科書p.118「雲南では南詔にかわってタイ人のたてた大理国がおこった。」
(2) 康煕帝は,呉三桂らが起こした三藩の乱を鎮圧した。
→教科書p.209 「呉三桂ら3将を優遇し、~(略)~三藩の力が強まると,康煕帝(聖祖) はこれをのぞこうとしたため,三藩の乱がおこった。」
(3) ○
→教科書p.290「四川省では,清朝の弾圧もあって反清暴動と化した(四川暴動)。」
(4) 正しくは南京陥落後,国民政府重慶に首都を移し,日本に対する抗戦を続けた。
→教科書p.322「首都を重慶に移した蒋介石の国民政府は,強い抗日意識にささえられた国民革命軍を中心に,日本軍と正面からの正規戦をたたかった。」

ある地名について歴史的な事項を問う出題は今後増加する可能性があり、地理の知識も生かして問題に接するとよい。
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問2 【茶の交易と消費】【29】
a ボストン茶会事件は茶法に反対する人が先住民に変装し、ボストン港の東インド会社の船を襲撃した事件。18世紀の出来事。
→教科書p.218「本国政府は従来の政策を改めず,タウンゼンド諸法でガラスや茶に課税したうえに,茶法を出して植民地へ茶を輸送する独占権を東インド会社に与えたので,1773年にボストン茶会事件がおこった。」
b イギリスの労働者の家庭に砂糖入り紅茶が普及したのは18世紀末から19世紀。
→教科書p.232「労働者の簡便な食事につきものとなったのは砂糖入りの紅茶であった。砂糖はカリブ海から,茶は中国・インドから,イギリスの世界貿易の覇権がもたらしたものであった。」

大英帝国の経済発展の成果として、砂糖入り紅茶を通して生徒自身によき教材を提供できるだろう。
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問3 【古典主義・ロマン主義(ロマン派)・自然主義の芸術家】【30】
(1) ドイツの古典主義の作家は、ハイネではなくゲーテで、『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』などを著した。
→教科書p.254「18世紀末から19世紀はじめにかけてのドイツでは,ギリシア文化を理想として,調和のとれた人間性の完成をめざす古典主義の文学が栄えた。晩年のゲーテとシラーは古典主義の頂点にたつ文豪であり,ゲーテの『ファウスト』をはじめとする諸作品は後世にも大きな影響を与えた。」
(2)  トゥルゲーネフはロシアの作家。正しくはイギリスのロマン主義の詩人,バイロンで、ギリシア独立戦争にも参加した。
→教科書p.236の注(3)「イギリスの詩人バイロン(→p.254表)は義勇軍に参加し,フランスの画家ドラクロワ(→p.254)は「シオの虐殺」を描いてオスマン帝国を批判した。」
(3) ○
→教科書p.255「世紀後半に壮大な楽劇を創始したワグナーも,ロマン派の作曲家として知られている。」
(4) フランスの自然主義(写実主義)の画家はルノワールでなく、ミレーが正解、『落穂拾い』など農村の生活を描いた。
→教科書p.255「,文学ではロマン主義にかわる写実主義(リアリズム)・自然主義がさかんになった。美術では,ミレー・コロー・クールベらを中心に写実主義・自然主義の絵画が栄え~,」口絵写真6参照『落ち穂拾い』

今回のセンターテストでは文化史を問う問題が激減した。これは唯一今回残った問題の1つである。芸術家とその芸術傾向や作品を1つひとつ確認できると良い。
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問4 【南北アメリカの先住民】【31】
(1) アステカ王国はメキシコ高原に栄えた。
→教科書p.95「アステカ王国は,15世紀にメキシコ高原で発展したが,1521年にスペイン人に征服された。」
(2) ○
→教科書p.96「15世紀なかごろから,高地南部のクスコを中心にケチュア族のインカ帝国が発展した。アンデス一帯に勢威を及ぼし,~(略)~石造技術にすぐれ,都市・太陽神殿が設けられ,道路がととのえられ,また文字はなかったが,縄の色・結び目(キープ・結縄)でことがらや数量があらわされた。」
(3) マヤ文明はユカタン半島を中心に栄えた。
→教科書p.96「マヤ文明圏のユカタン半島には,1517年にスペイン人が侵入していた。」
(4) テオティワカン文明は7世紀ころに衰退した。
→教科書p.95「メキシコ高原のテオティワカン文明では,「太陽のピラミッド」をはじめ大小の神殿がたてられていた。~(略)~紀元3世紀からメソアメリカに大きな影響を与え,この文明が7世紀に衰退したあと,南下してきた諸族がそれを継承・発展させた(トルテカ文明)。」

若干こまかな知識を必要とするが、どの選択肢もラテンアメリカという狭い地域を問うたので、やや難ともいえる。
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問5 【南アメリカ原産の作物】【32】
(5) ア-トウモロコシ イ-トマト
→教科書p.94「メソアメリカはアメリカ大陸の中間地域で,乾燥地帯の高地と湿潤地帯の平地とからなり,中央アンデスは高地・海岸部ともに乾燥地帯である。両地域では,前1500年ごろまでにトウモロコシを主作物とする農耕が確立し,」
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問6 【18世紀後半の北アメリカ植民地およびアメリカ合衆国】【33】
(1) ホームステッド法は1862年制定であり、時代誤り。
→教科書p.253「経済力にまさる北部は,ホームステッド法で西部開拓者に土地分与を約束し,西部の支持をとりつけて優勢となり,北軍の司令官グラント将軍が南部の首都リッチモンドを陥落させて,南部は降伏して合衆国は再統一された。」
(2)  イギリスパリ条約でアメリカ合衆国の独立を認め,ミシシッピ川以東の領地を譲渡したので、これも誤り。
→教科書p.219「1783年にパリ条約がむすばれ,13植民地の独立が承認され,イギリスの「第一帝国」は崩壊した。さらにイギリスは,ミシシッピ川以東のルイジアナを手ばなした。」
(3) ○
→教科書p.220「1787年にフィラデルフィアで憲法制定会議がひらかれ,合衆国憲法が採択されると,各州に広範な自治権が認められながら,連邦政府の権力を強化する連邦主義をとることになった。さらに憲法では,人民主権と三権分立の原理が明確に定められた。」
(4) アメリカ合衆国は,ナポレオン戦争中は中立政策をとったので、対仏同盟に参加していない。
→教科書p.250「ナポレオン戦争のとき中立政策をとったアメリカ合衆国に対し,イギリスが海上封鎖で通商を妨害したために,1812年に合衆国はふたたびイギリスと米英戦争をおこした。」

18世紀後半という条件を考慮して(3)を選択した。(4)の対仏大同盟への理解が若干難しかった。中立を保ったアメリカは、イギリスとの関係が悪化して英米戦争になったことから予想するとよい。
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問7 【18世紀のロンドンのコーヒーハウス】
(1) 写真の中に女性たちの姿が見受けられないので、これは誤り。
→教科書p.303「しかしイギリスでは,19世紀末から女性参政権を求める運動が強まったものの,それが実現したのは1918年であり,男女の参政権が完全に平等になったのは1928年のことであった。」
(2) カルヴァンは16世紀にジュネーブで宗教改革を行った人物なので、誤り。
→教科書p.172「フランス人カルヴァンが母国をのがれてジュネーヴに移り,1541年から宗教改革を指導して厳格な神政政治をおこなった。」
(3) ○
→教科書p.190の図版の解説「コーヒーハウスには数種類の新聞があり、市民はここで海外の情報を入手したり、たがいに情報を交換しあった。」
(4) ワット=タイラーの乱は1381年であるから時代違い。
→教科書「窮迫した領主がふたたび農民に重い負担をかけようとすると(封建反動),農民はそれに反抗して大規模な一揆をおこした。フランスのジャクリーの乱(1358年)やイングランドのワット=タイラーの乱(1381年) などがその例である。それらの乱はいずれも鎮圧されたが,14~15世紀に領主層の窮乏はしだいに深まり,「封建制の危機」がすすんだ。」

イギリスのコーヒーハウスを取り上げたところに問題の新鮮味がある。社会経済史的な視点から、同様の問題が増加すると考えられる。この種の問題は問いを読み間違いすることが多いので、注意したい。
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問8 【ドイツの対アフリカ政策】【35】
(1) マダガスカル島を領有したのはフランスである。
→教科書p.261「東アフリカでは,フランスが19世紀後半にソマリランド北部の植民地化をすすめ,1885年にはマダガスカル島も保護領とした。」
(2) ○
→教科書p.283「ドイツは,フランスが1904年の英仏協商で得たモロッコに対する優越的権利に干渉して2回にわたってモロッコ事件をおこしたが,いずれも失敗し,フランスは1912年モロッコを保護国とした。」
(3) エチオピアを侵略しようとしたのはイタリアであるが、植民地化に失敗した。
→教科書p.283「イタリアは,1895年にエチオピアに侵入したが,翌1896年アドワの戦いでエチオピアにやぶれた。」
(4) ファショダ事件ではイギリスとフランスが対立した。
→教科書p.283「イギリス・フランス両国は,1898年に東スーダンのファショダで対立した(ファショダ事件)が,フランスの譲歩で東スーダンにおけるイギリスの優位が認められた。」

アフリカの植民地についての問いであり、重要事項を網羅してあるので、大きな流れをつかむことが問題への解答を導くことになるので、普段から図などでアフリカの紛争地域を確認させる。」
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問9 【キール軍港の水兵反乱】【36】
(1) ドイツはロシアとブレスト=リトフスク条約を結んだ。
→教科書p.296「アメリカの参戦で不利な状況に追いこまれたドイツは,十一月革命で協商国側の戦列をはなれたロシアとブレスト=リトフスク条約をむすび(1918年3月),」
(2) 開戦当初、日本は赤道以北の太平洋のドイツ植民地を占領し、大戦終了後、委任統治が認められた。時期違い。
→教科書p.307「第一次世界大戦がはじまると,日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦し,山東省に出兵してドイツ租借地の膠州湾・青島を占領した。また,赤道以北太平洋上のドイツ領南洋諸島も占領した。」
(3) 1917年にドイツは無制限潜水艦作戦に踏み切り、アメリカの参戦を招いた。
→教科書p.295「1917年2月,協商国側の物資輸入を困難にするため,ドイツは無制限潜水艦作戦を開始した。」
(4) ○
→教科書p.304「1918年11月,ドイツでは戦争に疲れた人々の不満が爆発し,キール軍港での水兵の反乱をきっかけとして,ドイツ革命がはじまった。その結果,皇帝が退位してドイツ共和国が成立し,休戦条約がむすばれた。」

第一次世界大戦についての基本問題なので、しっかり理解させる。(2)の動きを見ると、日本も日英同盟を理由に参戦し、ドイツ領南洋諸島を手に入れた。まずはこうした経過を確認し、大きな流れをつくらせる。
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