2006年度 センター試験【世界史A本試】解説
第1問
問1 1 【異文化の交流や接触】
(1)義浄は、マジャパヒト王国ではなく、シュリーヴィジャヤに立ち寄った。
→教科書p.36「……マラッカ海峡やスマトラ島東南部をシュリーヴィジャヤが支配するようになった。唐の僧義浄は,室利仏逝とよばれたこの国に滞在して『南海寄帰内法伝』をあらわし,大乗仏教にもとづく繁栄ぶりを伝えている。」
(2)イブン=バットゥータは宋代ではなく元朝支配下の中国を訪れた。
→教科書p.41「イブン=バットゥータも元朝支配下の中国にはいってその見聞を記録し,……。」
(3)○
→教科書p.51地図からアメリゴ=ヴェスプッチが南アメリカ大陸沿岸を探検していることがわかる。
(4)ザビエルがキリスト教を日本に伝えたのは、16世紀。
→教科書p.53「1549年にはイエズス会のフランシスコ=ザビエル(シャヴィエル)が鹿児島にきて日本にカトリックを伝えた。」

内容誤りの問題だから正しい記述を選べば良い。旅についてはセンター頻出のテーマなので注意したい。
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問2 2 【カリカットについて】
a スワヒリ文化はアフリカにあり、インドではない。aに該当する都市はない。
→教科書p.51「1498年,ヴァスコ=ダ=ガマはインドのカリカットに到達してインド航路をひらいた。」
→教科書p.51 地図中にカリカットがある。
→教科書p.34 モンバサの港(アフリカ東海岸)の解説「アフリカ東海岸の現地人との間で,……,スワヒリ文化がうまれた。」
b カリカットではダウ船が活躍していた。
→教科書p.34の写真・p35のまとめ図にダウ船がインド洋に掲載されている。

「接触と交流」を扱う際には、インド洋は必出の舞台となるので注意したい。
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問3 3【東南アジアについて】
(1)チャンパー(チャンパ)が成立したのは、ヴェトナム中部から南部でビルマ(ミャンマー)ではない。
→教科書p.19「2世紀末に,ヴェトナムの中部から南部にかけて,チャム人がたてたチャンパ(チャンパー) (林邑・占城)にも,インド文化が伝えられた。」
(2)琉球王国の繁栄した時期は、明代であり、1609年に薩摩藩の侵攻を受けるまでに衰退はしていない。
→教科書p.47「琉球王国は,1609年に薩摩藩の侵攻を受けて江戸幕府の支配が及ぼされたが,以後も中国との朝貢関係を続けた。さらに琉球は,東南アジア諸国にも使節を派遣して交易をおこない,胡椒・象牙・香類などを取得した。」
(3)○
→教科書p.99写真 解説 「ラーマ5世(在位1868〜1910 タイのバンコク朝は,英仏と不平等条約をむすびながらも,両国の緩衝地帯であったことや,ラーマ5世の近代化政策により独立を維持できた。」
(4)東ティモールはオランダから独立したのではなく、インドネシアから独立した。
→教科書p.171地図中の吹き出し 「東ティモール インドネシアが独立容認を決定(1999)……」

近年、東南アジアは世界史において頻出の地域である。
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問4 4【内陸アジアについて】
(1) 張騫を派遣したのは、光武帝ではなく武帝。
(2)○琉球王国の繁栄した時期は、明代であり、1609年に薩摩藩の侵攻を受けるまでに衰退はしていない。
→教科書p.54「ティムールは,マムルーク朝やオスマン帝国とたたかい,サマルカンドを都として中央アジアからイランに及ぶ大帝国をたてた。」
(3) イル=ハン国の中心都市はサライではなく、タブリーズ。サライはキプチャク=ハン国の中心都市。
→教科書p.40地図
(4) ブハラ(ボハラ)・ヒヴァ・コーカンドの3ハン国は、清ではなく、ロシアに併合された。

近年、内陸アジア、特にモンゴル帝国は世界史において頻出の地域である。
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問5 5【中国の河川やその流域】
(1)カラコルムは元の都ではなく、モンゴル帝国の都。元の都は大都 。
→教科書p.40「モンゴル帝国の大ハン位をついだチンギス=ハンの第3子オゴタイは,10世紀から朝鮮半島を統一していた高麗に侵入した。また,1234年には,華北を支配していた金を滅ぼして,翌年カラコルム(和林)に都を定めた。」
→教科書p.40 地図
(2)大運河の建設は明代ではなく、隋代にはじまった。
→教科書p.12「隋は黄河流域と長江流域とを大運河によってむすびつけ,経済的にも南北の統合をすすめた。」
(3)天津は長江河口ではなく、黄河河口。
→教科書p.105地図
(4)○
→教科書p.105「ロシアはアイグン条約(1858年)によって黒竜江以北の地を手に入れ,……」

地域を仕切る自然環境や建造物は、地図で位置を確認させておきたい。
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問6 6【遊牧と農耕の王朝】
(1)(2) 匈奴は、唐や北宋とはあらそってはいない。秦・漢代を中心とし、その後、五胡の一つとして中国に侵入した。 →教科書p.40「始皇帝は,北方の遊牧民の匈奴の侵攻を防ぐために,……。……。……。漢の武帝は匈奴を攻撃して北辺を固めたほか,……」 
(3)遼は、唐ではなく宋と抗争した。
→教科書p.14「は唐滅亡の混乱期以来,華北の一部を占領し,金は1126年,淮水以北の全華北を占領した。宋は南にのがれて臨安(浙江省杭州)に都を移した(南宋)。」
  →教科書p.14地図
(4)○
→教科書p.14地図

遊牧民の王朝が、中国の王朝とからめて出題された。世界史Aではこのような出題が今後も見られると思われる。
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問7 7【ヨーロッパの中東進出】
ア スエズ運河の開通は、1869年に完成。
→教科書p.95スエズ運河 解説 「スエズ運河 フランス人レセップスがエジプトと共同開発で,1859年に着工し,10年間の難工事により完成。」
イ ワフド党の活動は第1次世界大戦後
→教科書p.135「……エジプトは,戦後ワフド党が中心となり,反英運動を展開した。イギリスは,1922年,立憲王政を発足させ,懐柔をはかったが,名目だけの独立に,民衆の不満は募り,ワフド党はこれを背景に政権をにぎり,完全独立をめざす運動を続けた。」
ウ ナポレオンによるエジプト遠征は、18世紀末
→教科書p.80「……ナポレオンであった。彼は,イタリアに進撃してオーストリア軍をやぶり,ついで,イギリスとインドとの連絡をたつため,エジプトに遠征した。この地で故国の動向を注視していたナポレオンは,1799年に帰国して総裁政府を倒し,……」

年代は完全に覚える必要はないが、何世紀の前半・中頃・後半あたりは定着させておきたい。
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問8 8【イスラーム教について】
(1)正しい
→教科書p.22「ムハンマドへの神の啓示は『コーラン』にまとめられ,信仰や宗教行為だけでなく,世俗生活すべてにおいて,信徒の指針となった。」
(2) 正しい
→教科書p.22「神の啓示を受けて,唯一神アッラーへの絶対服従(イスラーム)を説いた。」
(3)○イスラームの成立は、6世紀ではなく、7世紀。
→教科書p.22「7世紀,交易の拠点メッカに預言者ムハンマドがあらわれ,神の啓示を受けて,唯一神アッラーへの絶対服従(イスラーム)を説いた。」
(4)正しい
→教科書p.22「ムスリムは1日5回,メッカに向かって礼拝をおこなう。」

イスラームの基本的知識、特に偶像崇拝を禁じていることや、五行については知識を定着させておきたい。
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問9 9【19世紀におこった反乱や独立運動】
(1)マフディー勢力が抵抗したのは、フランスではなくイギリス。
→教科書p.102「エジプトのアラービー=パシャの乱は鎮圧したものの,同時期にスーダンでおきたマフディー運動をおさえるのには10年以上を費やさなければならなかった。」
(2) ○
→教科書p.95「ロシア・イギリスへの屈従とイラン社会の封建制に反対して,1848年には農民・商人・手工業者などのバーブ教徒が蜂起したが,政府により弾圧され……。」
(3) アラービー=パシャの反乱は、シリアではなくエジプトでおこった。
→教科書p.95「1881年アラービー=パシャは,「エジプト人のエジプト」をめざす民族運動をおこしたが,イギリスが出兵して鎮圧し,エジプトを軍事占領した。」
(4)オスマン帝国内の自治国であったブルガリアは、1908年にオスマン帝国から完全な独立を獲得した。
→教科書p87地図解説 「ブルガリア→露土戦争で拡大した領土は縮小、自治国に」

帝国主義諸国の支配に対するに反乱は、どこでおこった何国に対する反乱なのか整理させたい。
第2問
問1 10【アメリカ大陸の資源と人々とのかかわり】
(1)スペイン人がくるまでには製鉄技術はなかった。
→教科書p.52「武器の性能が劣っていたインディオは,大航海時代に鉄砲と馬をもって侵入したスペイン人に征服された」
(2) ポトシ銀山は、イギリスの植民地ではなくスペインの植民地
→教科書p.52「スペイン人は金銀を略奪し,大土地所有をすすめ,……」
(3) ○
→教科書p.89 地図解説 「アメリカがカリフォルニアを獲得した1848年,この地に金鉱が発見され、一攫千金を夢見る人々がおしよせて人口が急増した(ゴールド=ラッシュ)」
(4)ロックフェラーは鉄鋼業ではなく、石油産業で独占資本家となった。 →教科書p.128 「世界経済の中心もロンドンからニューヨークに移り,アメリカは世界の指導的大国の道をあゆみはじめた。自動車工業や石油産業などが基幹産業となり,……」

資源に注目した出題。出題の意図を理解すれば、石油関係がないことに気づくはず。ただ、正しいものを選ぶのであり、教科書掲載の頻度の高いものが正解になっている。
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問2 11【アメリカ合衆国のアジア・太平洋における対外活動】
(1)シンガポールを19世紀末に占領したのはアメリカではなく、イギリス。
→教科書p.99「東南アジアのその他の地域では,イギリスがシンガポール・マラッカ・ペナンからなる海峡植民地を成立させた。」
(2) ○
→教科書p.154「当初はアメリカの軍事援助を受けた国民党が優勢であった。しかし,土地改革やモラルの高さで民衆の支持を得た共産党が攻勢に転じて1949年10月1日に,北京で中華人民共和国の成立が宣言された。一方,蒋介石のひきいる国民党は台湾にのがれ,中華民国を維持した。」
(3) タヒチは仏領で、アメリカが占領したことはない。
→教科書p.103地図
(4)太平洋安全保障条約にはインドネシアははいっていない。
→教科書p.153地図中 「太平洋安全保障条約(ANZUS)(1951年) 米・オーストラリア・ニュージーランド(1977年解散)

アメリカとからむその他の太平洋海域には、ハワイ、グアム、フィリピン、沖縄があるので注意したい。
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問3 12【木材の生産量の推移からみるアメリカ合衆国の歴史】
(1) 20世紀前半で木材の生産量が最大となったのは,グラフでは1920年代後半であり、すでに第一次世界大戦は終了している。
→教科書p.126「●第一次世界大戦後の東・中ヨーロッパ諸国(左は大戦前) パリ講和会議で,オーストリア・ロシア両国から独立を認められた国々は……。(本文) 1919年1月,パリ講和会議がひらかれた。」
(2) ○ 1910年以降で木材の生産量が最低になったのは,1933年頃である。
→教科書p.131「1929年,ニューヨーク株式取引所でおこった株価の大暴落をきっかけに恐慌が発生した。第一次世界大戦後,各国の経済はアメリカと深くむすびついていたため,影響は世界に及び,かつてない大規模な恐慌となった。これを世界恐慌という。各国の工業生産は激減し,多数の失業者が出た。……(中略)……。共和党のフーヴァー大統領は,景気は自然に回復すると考え,特別な対策をとらなかった。しかし不況は長引き,1932年の大統領選挙では民主党のフランクリン=ローズヴェルトが,ニューディール(新規まきなおし)をスローガンに当選し,政府による経済への大幅な介入に着手した。」
(3) ドル危機は、1971年で、2000年における木材の生産量よりはるかに多い。
→教科書p.149流れ図中 「ドル危機(1971)」
(4) 20世紀後半で木材の生産量が最大となったのは,1973年でレーガン大統領のときではない。
→教科書p.173「アメリカは,レーガン政権以来重点をおいてきた産業競争力強化政策を1990年代にはいっそう強めた。」

グラフの読み取りは、事項の年代とからめる設問となる場合が多い。学習には、細かな年号を定着させる必要はないが、〜年代、〜世紀といったことに目を向ける必要がある。
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問4 13【17世紀のヨーロッパ諸国の外洋航海に使用した船】
(1) 現代史に登場する艦船であり、17世紀の船でないことは明白。
(2) 外輪船は産業革命以降に誕生している。
→教科書p.115図と図解説 「ペリー艦隊の旗艦サスケハナ 1853年に日本に来航して……、2隻が蒸気船(外輪船)で、……」
(3) ○
→教科書p.68 アムステルダム港
(4) 日本の朱印船であり、ヨーロッパの船ではない。

普段から図版などを通じて、当時の雰囲気を知る必要があり、教科書のみならず図説なども活用したい。
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問5 14【ハワイ諸島について】
a マゼラン(マガリャンイス)が殺害されたのは、ハワイではなく、フィリピン。
→教科書p.51「ラプラプの像 解説 フィリピンに着いたマゼランは現地人と紛争をおこしてラプラプ王に殺された」
b ○
→教科書p.101「1898年スペインに宣戦し勝利した(米西戦争)。この結果,アメリカはフィリピン・グアム・プエルトリコを獲得し,戦争中にハワイを併合した。」

ハワイにかかわる歴史は近年、世界史で出題される頻度が高いので注意したい。
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問6 15【オーストラリアや太平洋の島々】
(1) オーストラリアの開拓は、フランスではなくイギリス
→教科書p.103地図
→教科書p.103「1901年,オーストラリア連邦としてイギリスの自治領となった。このほかイギリスは,マオリ人が居住するニュージーランドなども領有した。一方,フランスはニューカレドニア・タヒチなどを獲得し,ドイツもミクロネシアの島々を領有した。アメリカも米西戦争後,太平洋に進出した。」
(2) ○
  →教科書p.103地図
→教科書p.103 (1)記載
(3) ニューカレドニアは、イタリア領ではなくフランス領
→教科書p.103地図
→教科書p.103 (1)記載
(4) ニュージーランドは、アメリカではなくイギリスの自治領。
→教科書p.103 (1)記載

旧ドイツ領やフィリピンは宗主国が変化するので注意したい。
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問7 16【石油について】
(1) ○
→教科書p.115「……化学工業や電気工業を含む重工業が重視され,企業の規模ははじめから大きく,技術の進歩とともにますます巨大化していった(第2次産業革命)。
→教科書p.128「アメリカは世界の指導的大国の道をあゆみはじめた。自動車工業や石油産業などが基幹産業となり,……」
(2)アメリカの対日禁輸は1920年代ではなく第二次世界大戦直前である。
→教科書p.144「英米やオランダは日本の侵略拡大を警戒し,対日経済制裁をおこなった。」
(3) モサデグはイラクではなくイランの石油国有化を行った。
(4) 因果関係が逆で、第4次中東戦争が原因となり石油危機がおこった。

石油をテーマにした設問。大問レベルのテーマとして扱うことができるので、パレスティナ問題、独占、アメリカ現代史、OPEC,OAPEC、イランの石油国有化、イラン革命、イラン=イラク戦争、北海、黒海、パイプラインなど幅広くい分野の学習を整理しておく必要がある。
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問8 17【中東諸国の近代化】
(1) ドイツではなく、イギリスの支配下。
→教科書p.102「イギリスは,スエズ運河の株を買収したのちはエジプトへの介入を強め,3C政策の一環として,カイロとケープ植民地を鉄道でむすぶアフリカ縦断政策を宣伝した。」
(2)タンジマートは、イランではなく、オスマン帝国で行われた。
→教科書p.94「多民族をかかえるオスマン帝国では,……。……。……。「東方問題」の深刻化と帝国の危機に対処するために,タンジマート(恩恵改革)とよばれる近代化政策が実施され,軍事・行政制度などの西欧化がすすめられた。」
(3) レザー=ハーンは、シリアではなく、イランで政権をにぎった。
→教科書p.135「イランには大戦中,イギリスとロシア軍が進駐し,ロシア革命後はイギリスの支配下におかれた。1921年2月,レザー=ハーンはクーデタで政権をにぎり,1925年にはカージャール朝を廃し,パフレヴィー朝をひらいた。」
(4) ○
→教科書p.134「……トルコは,……。これに対して,ケマル=パシャは1920年4月,アンカラに新政府をたて,侵入してきたギリシア軍を撃退した。1922年にはスルタン制を廃止し,……。……トルコ共和国を樹立して,初代大統領に就任した。以後内政では,政教分離・文字改革・教育制度の整備などの近代化につとめた。」

オスマン帝国のケマル=アタチュルクの政策はセンター試験で頻出。
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問9 18【大韓民国とインドネシアの民主化】
ア 1960年代に大韓民国で政権を担ったのは金大中ではなく、朴正熙。
→教科書p.169 「2000年6月,韓国の金大中大統領と北朝鮮の金正日総書記が,平壌で会談をおこなった。」
イ 1990年代にインドネシアで政権を担ったのはスカルノではなく、スハルト。

大韓民国やインドネシアは政治・経済両面で日本とも関係が深いので、両国の現代史は整理しておきたい。
第3問
問1 19【イギリス産業革命】
ア リヴァプールは貿易港で、マンチェスターが工業都市。
→教科書p.74「マンチェスター・バーミンガムなどの工業都市やリヴァプールなどの貿易港が急速に成長した。これらの都市には,農村から人口が集中してスラムが形成され,社会問題が生じた。」
→教科書p.74 図版「イギリスの労働者の住環境 1842〜44年にマンチェスターに滞在したエンゲルスは、この地での観察と調査にもとづいて『イギリスにおける労働者階級の状態』をあらわした。
イ 毛織物はイギリスで古くからさかんであったが、技術革新を引きおこしたのはインド産綿布に対抗しようとした綿工業においてであった。
→教科書p.72 「イギリスは古くから良質の羊毛を生産し,それを原料とする毛織物工業がさかんであった
→教科書p.72 ・73 「17〜18世紀に,イギリスではインド産綿製品が新種の衣料として好まれただけでなく,奴隷貿易の対価としても利用され,需要が高まった。イギリスでは,17世紀に木綿工業がおこっていた。しかし,上質で安価なインド産綿製品に対抗し,生産力を向上させるため技術革新が求められていた。」

イギリス産業革命における主要産業都市の位置や主要な発明品の整理は重要である。また、近年は環境や労働という側面からの出題も多い。
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問2 20【19世紀後半のヨーロッパ各国】
(1) 労働党ではなく、自由党。
→教科書p.84「イギリスは,ヴィクトリア女王の治世に,最盛期をむかえた。トーリー党とホイッグ党はそれぞれ保守党自由党と改名し,ディズレーリ(保守党)やグラッドストン(自由党)らの指導下に政策を競いあって,典型的な二大政党制を現出した。」
(2)○
→教科書p.87「1853年ロシアは,オスマン帝国に対しクリミア戦争をおこしたが,イギリス・フランスがトルコ側についてたたかったため,敗北した。」
(3) 第三共和政によりパリ=コミューンは鎮圧された。
→教科書p.85 「帝政は倒れ,パリでは共和政(第三共和政)が宣言されたが,翌年,……,パリ=コミューンとよばれる社会主義的な自治政府を樹立した。しかし,まもなく鎮圧され,1875年,第三共和国憲法が成立した。」
(4) フランスと戦ったのではなく、フランスの協力を得て、オーストリアと戦った。
→教科書p.86 「サルディニアの国王ヴィットリオ=エマヌエレ2世と首相カヴールは,1859年,ナポレオン3世の援助を得てオーストリアとたたかい,ロンバルディアを確保した」

イギリスの労働党と自由党との識別、フランスが第何共和政であるかはセンター頻出事項。
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問3 21【1914年における列強の本国面積と植民地面積の比較】
ウの識別は大変難しいが、アは本国面積が非常に少なく植民地面積が最大であるのでイギリス、イは逆に本国面積が大きく、植民地面積が少ないのでアメリカ合衆国であることはわかりやすい。その結果、(4)が正解となる。
→教科書p.92 第一次世界大戦まえの各国の工業生産と植民地領有

帝国主義時代の列強の本国面積と植民地の割合についてアメリカ・イギリス・ロシアの特色はよくおさえておきたい。
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問4 22【ムガル帝国やデリーについて】
(1) ○
→教科書p.24図 デリースルタン朝
(2)ムガル帝国の最大の版図は、バーブル帝ではなく、アウラングゼーブ帝のとき。
→教科書p.54「16世紀はじめ,ティムールの一族のバーブルは,アフガニスタンから北インドに侵攻してムガル帝国を建設した。」
→教科書p.55「17世紀後半になると,アウラングゼーブ帝が南インドを征服して帝国の領土を最大にしたが,……」
(3) ムガル帝国の時代には、すでに宋は滅亡していた。
→教科書p.14 中国の統一は開封(河南省開封)を首都とする宋(960〜1279)(北宋)(960〜1127)によって回復された。
→教科書p.54 16世紀末から17世紀にかけて,ユーラシア大陸では,東の中国(明)と西のヨーロッパ諸国との間にイスラーム諸帝国が並びたっていた。インドのムガル帝国,イランのサファヴィー朝,それに隣接して北アフリカ・西アジア・ヨーロッパにまたがる地域を支配したオスマン帝国の三つの帝国である。」
(4) タージマハル廟を建てたのはシャー=ジャハーン帝。
→教科書p.54 「17世紀前半には,シャー=ジャハーン帝のもとで栄え,タージ=マハル廟など,イスラーム文化と土着のヒンドゥー文化を融合させたインド=イスラーム文化が発達した。」

イギリスの労働党と自由党との識別、フランスが第何共和政であるかはセンター頻出事項。
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問5 23【イギリスのインドやその周辺地域で行った軍事行動について】
(1) ○
→教科書p.96「イギリス東インド会社は,……。……,地方勢力への武力侵攻をすすめ,数度にわたるマイソール戦争(1767〜99)・マラータ戦争(1775〜1818)・シク戦争(1845〜49)でこれらの勢力を解体し,服属させた。」
→教科書p.96地図 地図解説 「シク教は、イスラームの教えをとりいれてヒンドゥー教を改革した宗教として、16世紀はじめにナーナクがはじめ、パンジャーブ地方にひろがった。」
(2)シパーヒー(セポイ)はイギリス人ではなくインド人傭兵。
→教科書p.97「セポイ(シパーヒー)とよばれるインド人傭兵が蜂起し,大反乱がはじまった。」
(3)アフガン戦争は、パフレヴィー朝ではなくロシアのアフガニスタンに介入を警戒してイギリスが引きおこした。
→教科書p.98「イギリスは,1877年にインド帝国を樹立した。さらに,アフガン戦争をおこなうなかで……」
→教科書p.98注(1)「ロシアはバルカンへの南下政策が挫折したあと,アフガニスタンへ南進した。これに対抗したイギリスがアフガニスタンに侵攻し,第2次戦争で保護国とした。」
(4) マラータ戦争は20世紀ではなく18世紀後半〜19世紀前半にかけて行われた。
→教科書p.96 上記(1)参照
→教科書p.96地図

イギリスのインド支配の過程のなかでおこった、マイソール戦争・マラータ戦争・シク戦争は入試頻出であるので、その時・場所とともにセットで把握しておきたい。
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問6 24【独立後のインドについて】
(1) ○ →教科書p.157「1954年4月,……。同年6月には,インドのネルー首相と中国の周恩来首相が会談し,平和五原則(領土・主権の相互尊重,相互不可侵,内政不干渉,平等互恵,平和共存)を発表した。翌年4月,インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ29か国の代表によるアジア=アフリカ会議(バンドン会議)がひらかれ,「平和十原則」が採択された。この会議を契機として,新興独立国は東西どちらの陣営にも属さない第三勢力として結集し,非同盟主義を原則とする立場で,国際政治に発言し,影響を与えることになった。」
(2)新インド統治法は、インド独立以前の1935年に制定された。 →教科書p.136「イギリスは3次にわたる英・印円卓会議をひらき,さらに1935年に新インド統治法を制定して懐柔をはかったが成功せず,インド人の独立運動は続いた。」
(3)インドと同時に分離独立を果たしたのはバングラディシュではなく、パキスタン。 →教科書p.154「1947年にヒンドゥー教徒の多いインド連邦とムスリムの多いパキスタンに分離独立した。その後も両教徒の対立が続き,インドとパキスタンの衝突がくりかえされた。」
→教科書p.179年表 1971年 第3次インド・パキスタン戦争 バングラディシュの独立(東パキスタンの独立)
(4) インドは西側陣営に加わらず、非同盟主義をとった。
→教科書p.157 (1)参照

インド・パキスタンの関係は頻出。バングラディシュは独立後のパキスタンにおける東パキスタンがその後、バングラディシュとして独立した。
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問7 25【ピョートルT世について】
(1) ロマノフ朝が成立したのは17世紀前半で、ピョートルT世が皇帝になったのは17世紀後半。
→教科書p.66「1613年にロマノフ朝が成立し,17世紀末以降,西欧文化を積極的にとりいれて近代化をはかったピョートル1世やポーランド分割に参加したエカチェリーナ2世のもとで,バルト海に進出し,シベリアを東進してアラスカまで到達し,大国となった。」
(2)○
→教科書p.66 参照(1)
(3)ポーランド分割に参加したのはエカチェリーナ2世
→教科書p.66 参照(1)
(4)日本との交流をもとうとしたのは、ピョートル1世ではなく、エカチェリーナ2世。
→教科書p.66 図版解説  「エカチェリーナ2世 使節を日本に送り、通商を求めた。初のロシア使節ラクスマンは北海道の根室に来航したが、江戸幕府は通商を認めなかった。」
 

ピョートル1世(大帝)は頻出で、彼とエカチェリーナ2世(女帝)との業績を比較させながら学習させておきたい。
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問8 26【第二次世界大戦について】
(1) ドイツに対して、ソ連ではなく、英仏が宣戦布告をおこなった。 →教科書p.142「ドイツはポーランドに侵攻し,英仏両国が対独宣戦布告して,第二次世界大戦がはじまった。」
(2)フィンランドは中立を保つことはできなかった。
→教科書p.142 地図 
→教科書p.142「ドイツはたちまちのうちにポーランドの西半を占領し,まもなくソ連もポーランドの東半を占領し,さらにバルト三国も併合した。」
(3)○
→教科書p.146 「ヨーロッパでは,1943年2月,ソ連がスターリングラード包囲をやぶって反撃に転じ,各地でドイツ軍を撃破して東欧・バルカンに進出した。」
→教科書p.142 地図 「スターリングラード」から矢印がでている。
(4)ノルマンディー上陸後ではなく、シチリア上陸後にムッソリーニが失脚した後に無条件降伏した。
→教科書p.146「これをみた米英軍が同年夏シチリアに上陸すると,イタリアでは政変がおこってムッソリーニは失脚し,連合軍に無条件降伏した。」

第二次世界大戦における盲点をついた出題。フィンランドのような世界史学習であまり授業時間をとらない箇所からの出題で、世界史Aは現代史重視であり、細かい箇所も学習しておくべきだという意味にとっておきたい。
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問9 27【ロシアの対外政策について】
(1) ○
→教科書p.82注「◆神聖同盟 ロシア皇帝アレクサンドル1世が提唱し,キリスト教の精神にもとづいて結成された。イギリス・ローマ教皇・オスマン帝国をのぞくヨーロッパ諸国が参加。」
(2) ロシア・イギリス・フランスは、オスマン帝国を支援していない。
→教科書p.94 「19世紀にはいると,エジプトが事実上独立し,ギリシアもロシア・イギリス・フランスの支援を受け,独立戦争に勝利した。」
(3)英露協商は、アフリカではなくバルカンの権益を調整した。
→教科書p.122 「極東進出の失敗によって,ロシアの関心がふたたびバルカン半島に向けられたため,二つの同盟の対立が激化した。そして英仏協商(1904年),英露協商(1907年)の成立によって,ヨーロッパの6大国が,独・墺・伊の三国同盟とそれに対抗する英・仏・露の三国協商の2陣営にわかれた。」
(4)ロシアの立場は、パン=ゲルマン主義ではなく、パン=スラブ主義。
→教科書p.122「ロシアは汎スラヴ主義の立場からバルカン同盟を結成させた(1912年)。」
 

ロシア外交は、南下政策とからめて頻出。年代・戦争名・同盟国を整理しておきたい。
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第4問
問1 28 【新文化運動(文学革命)】
(1) ○
→教科書p.137「,知識人・学生を中心とする「新文化運動」が展開された。陳独秀は「民主」と「科学」をかかげ,1915年に上海で『新青年』を発行した。この雑誌を中心に,儒教が専制主義の基礎であると批判する論文,胡適口語文(白話)の提唱,魯迅の口語文による『阿Q正伝』の発表や……」
(2) 口語による文学を提唱したのは、金玉金ではなく、胡適。
→教科書p.137 (1)参照
(3)八一宣言は、新文化運動でだされたものではなく、長征のなかでだされたもの。
→教科書p.139 「共産党はたび重なる蒋介石の攻撃を受け,1934年に瑞金を放棄して西方へ脱出し,国民党軍の追撃をかわしながら北上して,1935年に陝西省に到着し,やがて延安を根拠地とした(大西遷・長征)。……。これに対し,共産党は八・一宣言(1935年)で内戦停止・一致抗日を全国によびかけた。」
(4)『阿Q正伝』を著したのは、胡適ではなく魯迅。
教科書p.137 (1)参照

新文化運動(文学革命)は、五・四運動に大きな影響を与えた。陳独秀・魯迅・胡適・李大サの業績を整理しておきたい。
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問2 29 【中国共産党について】
(1) 中国共産党が組織されたのは、1921年で、南京国民政府が成立するのは1927年。
→教科書p.138「また1921年には李大サらによって中国共産党が組織された。」
→教科書p.138「軍権をにぎった総司令官蒋介石は共産党の勢力拡大と労働・農民運動の激化を恐れて,1927年,上海でクーデタをおこし(四・一二事件),共産党員や同調者を逮捕・弾圧し,南京に国民政府を樹立した。ここに国共合作は終息した。」
(2) 三一運動は中国ではなく、朝鮮でおこった運動。
→教科書p.137 「1919年3月1日,ソウル(京城)で知識人による独立宣言が発表された。これがたちまち全国各地に「独立万歳」をさけぶ示威運動をまきおこした。日本の官憲は武力で徹底的に弾圧し,多数の死傷者と検束者を出した(三・一独立運動)。」
(3)中華ソヴィエト共和国臨時政府を打倒したのではなく、建設した。
→教科書p.138 「共産党は,毛沢東らを中心に紅軍を組織して華中・華南でたたかい続け,1931年に江西省瑞金を中心として中華ソヴィエト共和国臨時政府建設した。」
(4)○
教科書p.138 地図

中国共産党の長征と、蒋介石の北伐とを比較して整理しておきたい。
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問3 30 【社会主義運動について】
a コミンテルンの結成は1919年。
→教科書p.130「1919年にはコミンテルンを結成して各国の革命勢力を指導した。」
b 第2インターナショナルの結成は1889年。
→教科書p.88「1889年からの第2インターナショナルでも主導的役割をはたした。」
c スターリンが登場するのは、レーニンの死後のことで1924年以降。スターリン憲法は1936年に制定された。
→教科書p.130「1924年のレーニンの死後,……,しだいにスターリンが独裁体制をきずいていった。スターリンの指導のもとで……。しかし彼は,これと並行して農業集団化を強行し,多くの犠牲者をうんだ。また,1934年以後大規模な粛清をおこない,多数の無実の民衆を含む反対者を不法に処刑・処罰し,個人独裁体制を確立した。」

インターナショナルの第1・第2、コミンテルンとコミンフォルムの区別を整理させておきたい。
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問4 31 【電気通信技術やマスメディアについて】
(1) 映画を発明したのは、ノーベルではなくて、エディソン。
→教科書p.116「アメリカのエディソンが,1893年に映画を発明した。」
(2) 電話は20世紀ではなく、1876年にベルが発明した。
→教科書p.116「1876年にアメリカのベルが電話を,1895年にはイタリアのマルコーニが無線電信機を発明した。」
(3)インターネットの普及は第二次世界大戦中ではなく、20世紀末である。
→教科書p.189 「20世紀末には子どもの世界でもコンピュータゲームがゆき渡り,小学校でも生徒たちにインターネットの利用法を教える時代になった。」
(4)○
→教科書p.116 「テレビの最初の正式放送は1936年にロンドンではじまり,第二次世界大戦後,世界各地に普及し,マスメディアの主役となった。日本でも1953年に本放送が開始された。」

情報・通信の歴史は、世界史Aでは頻出事項。
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問5 32【1920年代のできごと】
(1) ○ →教科書p.126「1918年にアメリカ大統領ウィルソンが発表した,秘密外交の廃止,海洋の自由,民族自決,国際的な平和機構の設立などの理想主義的な14か条が会議の基礎とされた。」
(2)正しい。 →教科書p.128注 「1924年の移民法では、日本からの移民が事実上禁止され,……」
(3) 正しい。 →教科書p.118 「流れ作業方式で大量生産されたT型フォードは,この時代を代表する大衆車であり,1927年までに1500万台が生産された。」
(4) 正しい。 →教科書p.128 写真 解説 「禁酒法 1920年にアメリカで全国的に施行されたが、酒の製造・密売などが施行し、……」

1920年代のアメリカの繁栄は、世界史Aでは現代に通じる高度大衆消費時代のはじまりとして、頻出の分やである。
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問6 33【第二次世界大戦の終結に至る歴史】
a 日本のポツダム宣言受諾は1945年
→教科書p.147「同年7月,米英中はポツダム宣言を発して日本に降伏をよびかけたが天皇制廃止を恐れた日本政府と軍部はそれを黙殺しようとした。翌8月,アメリカは広島・長崎に人類史上初の原子爆弾を投下し,ソ連も対日参戦した。ここにいたってついに日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏し,……」
b ドイツの無条件降伏は1945年5月
→教科書p.146「1945年5月,ソ連軍がベルリンを陥落させてついにドイツも無条件降伏した。」
c ソ連の対日参戦は1945年8月
  →教科書p.147 a参照と同じ

日本の敗戦にかかわる事件は現代にまで尾を引いているので正確に把握したい。
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問7 34【20世紀に開かれた首脳会談】
a ヤルタ会談
b ミュンヘン会談
ア 写真にはない
→教科書p.146「1943年11月に米英カイロ会談」
イ b 
→教科書p.133「1935年に再軍備を宣言し,翌年3月,非武装地帯のラインラントに軍隊を進駐させた。これに対してイギリス・フランスは,黙認する態度を示した(宥和政策)。」
→教科書p.142「イギリスのチェンバレン内閣はこれ以上領土を要求しないというヒトラーの言を信じ,同年秋のミュンヘン会談で仏伊とともにその要求を認めた。」
ウ a
→教科書p.147「1945年2月には,ローズヴェルト・チャーチル・スターリンの米英ソ首脳がヤルタ会談をひらいて,ドイツの戦後処理やソ連の対日参戦で合意していた。」

1943年以降のカイロ会談→テヘラン会談→ヤルタ会談→ポツダム会談の順と内容については良く理解しておきたい。
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問8 35【1930年代のできごと】
(1) 朝鮮戦争の始まりは1950年
→教科書p.155 「1950年6月,北の軍隊が38度線をこえて侵入し,朝鮮戦争がはじまった。」
(2) 北大西洋条約機構は1949年 
→教科書p.152 「1949年4月に北大西洋条約機構(NATO)が結成された。」
(3)○
→教科書p.135 「アラビア半島では,ワッハーブ派とむすんだイブン=サウードが統一を推進し,1924年にはメッカの支配者ハーシム家がたてたヒジャーズ王国を滅ぼし統一を完成し,1932年にサウジアラビア王国とした。」
(4) ソ連の戦時共産主義は1918年以降の干渉戦争の際におこなわれた。
→教科書p.130「1918年春以後イギリス・フランス・日本・アメリカなどが出兵し,白軍を助けた(対ソ干渉戦争)。これに対しソヴィエト政府は,穀物の強制徴発,企業の国有化などの戦時共産主義体制をとってたたかい,……」

旧ドイツ領やフィリピンは宗主国が変化するので注意したい。
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問9 36 【第二次世界大戦後の米ソの緊張】
写真A →教科書p.152 写真 ベルリン封鎖
写真B →教科書p.167 写真 カストロ
    →教科書p.167「キューバでは,1959年1月,それまで米国の後援を受けてきた独裁政権が,カストロらにより打倒された。カストロ政権が米系大企業の国有化や土地改革をすすめると,米国は国交を断絶し,反革命軍を育成して反攻をおこなわせた。同政権はこれに対抗して,1961年,社会主義革命を宣言し,ソ連の協力と支援を求めた。ソ連はキューバに中距離弾道ミサイル基地を建設しはじめたが,1962年10月,米国に探知された。ケネディ米大統領は,ソ連に撤去を要求,米ソ両国は臨戦態勢をとり,世界は核戦争の危機におののいたが,ソ連首相フルシチョフはミサイルひきあげを米国に通告して危機は回避された(キューバ危機)。」

冷戦を象徴する代表的な事件を写真で示したものである。ハンガリー動乱、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争などこの他にも多くのできごとがあり、その事件を示した図版には目を配りたい。