2006年度 センター試験【日本史B本試】解説
第1問 原始・古代から近代までの文化と国際交流に関する問題
A 原始・古代から中世の文化と国際交流
問1 土偶とその時代の信仰
土偶
教科書 p.33 2行「女性の特徴を示す土偶・・・,収穫のゆたかさや集団の繁栄を祈願する呪術的な儀礼が発達したことを示し」

20㎝内外の土人形。女性をかたどったものが多く、生殖・収穫を祈る呪術に用いられたと考えられる。
アニミズム
教科書 p.33 1行「この時代には,動植物だけでなく,あらゆる自然物や自然現象に精霊が宿ると考えられ,信仰された。これをアニミズムという」

縄文時代の信仰や習俗については、アニミズム(精霊信仰)土偶と石棒など呪術的な儀礼に使われたとされる器物、抜歯や叉状研歯などの習俗、死者の埋葬法である屈葬などを確認。
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問2 正倉院の宝物
正倉院の宝物
教科書 p.72 注(1)「正倉院の宝物は,聖武太上天皇の死後,その遺品を光明皇太后が東大寺の・・・,当時の最高水準の工芸の粋といえる。」

正倉院宝物は、唐や新羅からの渡来品も多く、技法やデザインには,インド・ペルシア・東ローマにいたる東西文化交流のあとがうかがわれる。正倉院宝庫は校倉造による。
唐招提寺
教科書 p.71 3行「唐から日本に渡来して戒律を伝え,唐招提寺をひらいた鑑真」

唐招提寺は鑑真により創建され、唐招提寺金堂は天平建築の遺構で和様建築の起点とされる。唐招提寺講堂は平城宮朝集殿を移築したもので平城宮唯一の遺構。
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問3 日本海側の交流
十三湊
教科書 p.136 25行「津軽の十三湊は,14世紀には北方地域と畿内をむすぶ日本海交易の北の湊として栄えていた」

津軽の日本海側に面した十三湊は中世に蝦夷地と日本海海運の要所として発達した。中世に蝦夷を支配した安藤(安東)氏もここを本拠とした。
渤海
教科書 p.64 21行 「世紀末,中国東北部におこった渤海は,唐や新羅に対抗するため・・・,以後しばしば使節を交換した」

渤海使は727年から919年の間に34回来日。日本海が側の越前の松原客院や能登の能登客院に来航、毛皮や人参をもたらした。
安藤(東)氏
教科書 p.136 「和人たちは津軽の安藤(東)氏の支配下にあり,沿岸ぞいに点々と居住地をひろげ,有力者は館をきずいて館主といわれる」

津軽の豪族安藤氏は鎌倉初期に北条氏の被官となり北条義時の時に蝦夷管領に任じられた。15世紀になると蝦夷地南部に安藤氏の配下であった蠣崎氏が台頭してくる。
東廻り海運
教科書 p.197 10行「17世紀後半には,河村瑞賢が東北地方の幕府直轄領の年貢米を江戸に運ぶため,東回り航路・西回り航路を整備した。のち,西回り航路では北前船が活躍した。」

河村瑞賢は太平洋沿岸の陸奥荒浜から江戸までの東回り航路と,出羽酒田から大坂を経て江戸にいたる西回り航路を整備した。酒田からの東回り航路は江戸後期になって開通した。
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B 中世から近代の外来文化
問4 歴史学と資料
歴史学とさまざまな資料
教科書p.5~p.11の「資料をよむ」、「資料にふれる」

文献資料、図像資料、映像・音声資料、考古資料、民俗資料など様々な資料を用いて歴史は叙述されている。新課程の「歴史の考察」に対応した問題。
一遍上人絵伝
教科書 p.9 1行「この絵巻は鎌倉時代,時宗の開祖一遍の教化遍歴の生涯を描いた・・・,一遍行脚の足跡を丹念にたずね歩いて記録したものと伝えられている」

一遍上人絵伝は京都・鎌倉をはじめ日本各地の町や村,寺社,市などを舞台に,当時の民衆の暮らしぶりや風景が生活実感のあるタッチで描かれている。源氏物語絵巻は平安末期の作品で絵は藤原隆能。
ポルトガル
教科書 p.159 注(1)「ポルトガル語では,カッパ・ラシャ・ビロード・タバコ・カルタ・メリヤスなど,スペイン語ではメリヤス・カナリヤなどがのこっている」

1543(天文12)年,ポルトガル人をのせた中国船が,南西諸島の種子島に漂着し,ヨーロッパ人による日本進出がはじまった。ポルトガル人は,澳門を根拠地として長崎・平戸・府内(大分)など九州諸港に来航し,対日貿易の主導権をにぎった。イスパニア人は,1584(天正12)年,おくれて平戸へ来航した。
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問5 近世におけるヨーロッパとの文化交流
活字印刷
教科書 p.158 17行「ヴァリニャーノのもたらした活字印刷術によって,日葡辞書や教義書・文学書の出版もおこなわれた(キリシタン版・天草版)」

イエズス会宣教師ヴァリニャーノが西洋の活字印刷術を伝えた。ポルトガル系のローマ字体で辞書や教義書・文学書の出版を行った。これらをキリシタン版天草版といい、『天草版平家物語』、『天草版伊曽保物語』などが刊行された。
南蛮屏風
教科書 p.168 5行「都市生活の繁栄を伝える『洛中洛外図屏風』や南蛮人・民衆の姿を描いた風俗画もさかんであった」

南蛮屏風南蛮人との交易や南蛮人の風俗を主題とした風俗画で、多くの作品を狩野派の絵師が描いている。
司馬江漢
教科書 p.154 6行「近世初頭に伝わった洋画はその後とだえていたが,・・・田沼時代には平賀源内が油絵を描き,司馬江漢は日本で初めて銅版画を制作した」

司馬江漢前野良沢に蘭学を学んだ。平賀源内とも交流し、遠近法・陰影法を取り入れた洋風画を描き、日本で初めて銅版画を制作した。司馬江漢の代表作は銅版画『不忍池図』
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問6 西洋建築に影響を受けた日本の建造物
第一国立銀行
教科書 p.247 注(4)「アメリカの制度を模範としたもので,国立といっても民間銀行であった・・・,設立されたのは第一国立銀行(1873年開業)以下4行のみであった」

渋沢栄一が中心となってアメリカの銀行制度を模範とし、国立銀行条例を制定,民間の資本で兌換紙幣を発行させようとした。しかし民間にも正貨はとぼしく、設立されたのは第一国立銀行(1873年開業)のほか4行。
文化住宅
教科書 p.301 5行「都会では,電気やガスを使う生活がひろがり,長屋から庭付き一戸建ての文化住宅と呼ばれる郊外住宅に移り住む人も増加した」

第一次大戦中の経済発展はその後の社会の質を大きくかえた。都市化が進展し、国民の生活水準を大幅に引き上げた。1919年には「都市計画法」が制定され、都市計画が東京市以外の都市にもおこなわれるようになり社会資本も急速に整備され、市街電車に加えて郊外電車も発達し、モータリゼーションもはじまった。
開智学校
教科書 p.256 写真とキャプション

開智学校(長野県松本市)は1876年建築の洋風の小学校校舎。ニコライ堂はロシアの宣教師ニコライが東京神田に建てた日本ハリストス正教会の聖堂。設計監督はイギリス人建築家コンドルで1891年に完成。
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第2問 古代の土木・建築に関する問題
A 古代の土木工事
問1 地図をよむ(地図より墳丘の長さと古道の方位をよむ)
前方後円墳
教科書 p.46 注(2)「古墳時代を通じて墳丘の長さが200mをこえる古墳はすべて前方後円墳である」
条里制
教科書 p.62 注(1)「政府は土地を把握するために,条里制を施行した。これは,土地をまず6町四方(1町は約109m)に区切り・・・1町四方の区画はさらに十等分される」

墳丘の長さについては、リード文にある条里制の区画の長さ知識が必要。『日本書紀』が伝えるこの古墳は箸墓古墳のことである。また、リード文と地図の読み取りから古道の方角を判断する問いは思考・判断を問う。
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問2 古代の都造営を詠んだ万葉歌
『万葉集』
教科書 p.57 注(4) 「『万葉集』によると,天武・持統朝には,「大君は神にし坐せば」という句が,天皇を神格化し,有力な皇子をほめたたえる歌に用いられた」難波宮恭仁京
教科書 p.67 9行 「都は平城京から山背(城)の恭仁京,摂津の難波宮,近江の紫香楽宮を転々とした」

歌を詠んでいる人物と歌に付記されている注釈にも注意しながら年代の判断が求められる問題。「神格された天皇から天武・持統を想起。また、橘諸兄政権と藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の藤原四兄弟政権について確認。
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問3 古代の田地
口分田
教科書 p.61 11行「良民に対しては,6歳以上の男子に田2段(約24a,1段は360歩),同じく女子にはその3分の2を,それぞれ目標として口分田として授け」
公営田
教科書 p.79 注(4)「朝廷はこれに対して,天皇家の勅旨田,小野岑守(大宰大弐)の建議による大宰府などの公営田,畿内諸国の官田,諸官庁の諸司田といった直営の田を設置」

地図は奈良盆地の地図である。公営田は823年に大宰府管内に設けられ、大宰府が経費を負担する直営田。小野岑守(大宰大弐)の建議による。官田は879年に中央官庁役人の給与、財源不足を補うために畿内に4千町歩もうけられた田。律令国家成立期の政治については天智天皇・天武天皇・持統天皇の事績についての確認。八色の姓は天武天皇、庚午年籍は天智天皇、飛鳥浄御原令を施行(689年)したのは持統天皇。
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B 古代の建築技術
問4 醍醐寺五重塔
曼荼羅
教科書 p.77 1行「絵画では,不動明王像や仏の世界を構図化した曼荼羅が発達した」
来迎図
教科書 p.87 11行「往生する人を阿弥陀仏がむかえにくる情景を示した来迎図もさかんに描かれた」

醍醐寺五重塔は高さ約36㍍、醍醐寺は951年に完成、五重塔は法隆寺・室生寺の塔に次いで古い。礎石建ちは建物の柱の基礎に礎石を据える建築法で、飛鳥時代頃から従来の直接地面に柱を埋め立てる掘立柱に替わり寺院建築に採用される。
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問5 醍醐朝の出来事
醍醐天皇
教科書 p.78 11行「ついで醍醐天皇も摂政・関白をおかず,・・・最後となった班田制の励行令や,延喜の荘園整理令が出された」
阿衡の紛議
教科書 p.78 注(3)「このとき,基経は詔の文言中にあった「阿衡の任」について,これが名目のみで関白の職掌をともなわないと反発して「阿衡の紛議」をおこした」。
菅原道真の大宰府左遷事件
教科書 p.78 12行「901(延喜元)年,道真は時平の策謀によって大宰府に左遷された」
意見封事十二箇条
教科書 p.79 注(3)「914(延喜14)年に三善清行は醍醐天皇に「意見封事十二箇条」を提出し,地方政治の乱れを具体的に指摘した」

醍醐天皇の治世は897年から930年におよび延喜の治と称せられる。唐の滅亡は907年。阿衡の紛議宇多天皇の時代の出来事。藤原北家が代々摂政・関白となって国政を独占する時期の藤原氏にかかわる政治事件を確認すること。
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問6 藤原道長・法成寺と白河天皇・法勝寺
藤原道長
教科書 p.83 5行「藤原道長は,4人の娘をつぎつぎに皇后や皇太子妃にたて,権力をふるった。後一条・後朱雀・後冷泉3代の天皇は道長の外孫」
北面の武士
教科書 p.95 「白河上皇は,畿内や近国の武士を院の御所に北面の武士として組織し,独自の軍事力ももった」
長講堂領
教科書 p.95 注(4)「八条院領は鳥羽上皇が皇女八条院に伝えたもの。長講堂領は後白河上皇が持仏堂に寄進したもので,最盛期にはそれぞれ220か所,180か所に及んだ」

藤原道長は,4人の娘を皇后や皇太子妃にたて,後一条・後朱雀・後冷泉3代の天皇の外祖父となった。道長の法成寺は京極の東辺に阿弥陀堂を建てたことに始まる。宇治の別荘は藤原頼通の建てたもので、後に平等院鳳凰堂が建立。また、北面の武士は院の御所に置かれた。
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第3問 中世における人や物の交流に関する問題
A 鎌倉時代
問1 鎌倉と京都
公文所(政所)
教科書 p.104 8行「頼朝は,鎌倉に公文所(のち政所)を開設して大江広元を別当に起用し,支配地域の拡大にともなって複雑化する政務を担当させたほか,問注所も設けて三善康信を執事とし」
『海道記』
教科書 p.120 15行「訴訟のため鎌倉へくだった阿仏尼の『十六夜日記』のほかに,『海道記』『東関紀行』のような紀行文もうまれた」

鎌倉幕府の職制は確認すると共に初代の長官は重要。公文所の別当大江広元、問注所の執事の三善康信は共に京の法曹官僚。『十訓抄』・『宇治拾遺物語』・『古今著聞集』・無住の『沙石集』などは説話集。
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問2 鎌倉と京都間の交渉
新古今和歌集
教科書 p.120 23行「後鳥羽上皇が心血を注いだ『新古今和歌集』は,藤原定家・藤原家隆らの編者をえて,技巧に富んだ観念の美を創造し,伝統文化の世界に新しい境地をひらいた」
御成敗式目
教科書 p.110 2行「1232(貞永元)年,泰時は評定衆とはかり,御成敗式目(貞永式目)51か条を制定した」
平頼綱
教科書 p.125 3行「1285(弘安8)年に有力御家人安達泰盛の反乱がおき,・・・御内人を代表する内管領平頼綱の勢力が強まった」

御成敗式目は1232(貞永元)年,北条泰時が制定。
八代集最後の勅撰和歌集の新古今和歌集は1205年に成立。平頼綱は1285年の霜月騒動後幕府実権を握るが、1293年に執権北条貞時に滅ぼされる。平頼綱の乱(平禅門の乱)
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問3 鎌倉時代の商品生産と商工業
瀬戸焼
教科書 p.123 2行「尾張の瀬戸焼など大陸の製陶技術を学んだ陶器生産も発展した」
荏胡麻
教科書 p.123 1行「水稲耕作のほか,各地域の自然条件にあわせて,桑(絹・綿)・苧(布)をはじめ,荏胡麻(灯油)・藍(染料)・楮(紙)・漆などの原料作物の栽培・加工がおこなわれ」
長船長光
教科書 p.123 1行「工芸では,刀剣に京都の粟田口吉光,鎌倉の岡崎正宗,備前の長船長光らの名工があらわれ,鎧・兜に明珍が出た」
干鰯
教科書 p.123 1行「肥料も,従来の刈敷や草木灰・下肥などの自給肥料のほか,干鰯・油粕・〆粕などの購入肥料(金肥)が利用されるようになった」

鎌倉時代の商品生産の確認。肥料に関しては鎌倉時代は刈った草を田畠に敷きこみ,腐敗させて肥料とする刈敷や,草木を焼いて灰にした草木灰が肥料としてひろく用いられる。干鰯は江戸時代の金肥
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B 室町時代
問4 今川了俊・日朝交流
今川了俊
教科書 p.132 3行「征西将軍懐良親王の活躍でいちじ南朝方に制圧されていた九州も,九州探題として下向した今川貞世(了俊)が,1372(応安5)年に大宰府を制し・・・安定にむかった」
一条兼良
教科書 p.148 8行「。一条兼良は『公事根源』で有職故実を明らかにし,『古今和歌集』の秘伝を特定の人だけにさずける古今伝授もはじまった」
二条良基
教科書 p.149 11行「二条良基の『菟玖波集』は勅撰に準ぜられ,連歌の規則書『応安新式』ができた」

リード文にある今川了俊(貞世)は九州探題として活躍した武将で、『難太平記』の著者。隠退後は和歌・連歌に専念。二条良基は和歌の伝統をひき、幽玄美を理想とする堂上連歌を確立。準勅撰『菟玖波集』は最初の連歌集。また、連歌の規則書『応安新式』を制定。朝鮮からの輸入品は仏教の全教典の集大成である大蔵経(一切経)をはじめ朝鮮人参・綿布。日本からの輸出品は銅・硫黄、琉球貿易で得た胡椒・薬種・香木。
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問5 足利義満の地方統制
鎌倉将軍府
教科書 p.128 注(2)「建武新政権では,このほか北畠顕家を中心とする陸奥将軍府,足利直義を中心とする鎌倉将軍府ができ,それぞれ親王の1人が将軍になった」
奥州総奉行
教科書 p.106 注(1)「奥州藤原氏の勢力圏をひきついだ頼朝は,ここを幕府の直轄統治とした。陸奥・出羽2国には守護をおかず,奥州総奉行をおいた」
応永の乱
教科書 p.133 8行「義満は,足利一門以外の有力な守護大名に攻勢をかけ,・・・1399(応永6)年に周防の大内義弘を敗死させて(応永の乱),権力の集中をはかった」
永享の乱
教科書 p.142 4行「将軍の地位をねらっていた鎌倉公方の足利持氏は,1438(永享10)年に反乱をおこしたが,関東管領上杉憲実が幕府側についたため,翌年やぶれて自殺した(永享の乱)」

鎌倉将軍府後醍醐天皇の建武政権での関東統治機関、奥州総奉行は奥州の藤原氏を滅ぼした後に設置した陸奥・出羽の統治機関。永享の乱は6代将軍義教に対する反乱。義満は周防の大内氏義弘を敗死させた応永の乱、山陰の山名氏清を倒した明徳の乱などによって地方を統制した。
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問6 室町時代の東アジア
14世紀ころの東アジア
教科書 p.134 地図
寧波の乱
教科書 p.134 6行「幕府政治の衰退にともなって,博多商人を背景とする大内氏や,堺商人とむすぶ細川氏・・・1523(大永3)年には寧波で双方の船団が衝突するまでになった(寧波の乱)」
鉄砲
教科書 p.156 2行「1543(天文12)年,ポルトガル人をのせた中国船が,南西諸島の種子島に漂着し・・・種子島時堯はポルトガル人のもつ鉄砲を買い求め,家臣らにその製法を学ばせた」 

14世紀ころ東アジアの地図を読む際には日明交路に関しては寧波・南京・北京の位置、日朝交路に関しては三浦(富山浦・乃而浦・塩浦)の位置は確認。また、琉球貿易の琉球やポルトガル人の来航に関わる澳門・種子島の位置も確認。
 
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第4問 近世の社会・経済に関する問題
A 近世の農業と農村
問1 江戸時代の村
結・もやい
教科書 p.185 24行「農繁期には結・もやいとよばれる相互扶助による共同労働もおこなわれた」
村方三役
教科書 p.177 4行「村では,名主(庄屋)・組頭(年寄)・百姓代の村方三役(地方三役)をおいて,本年貢その他の諸負担の納入,宗門改,法令の伝達,訴訟事務のとりまとめなどをおこなわせた」
本百姓
教科書 p.175 16行「村には,土地を所持し年貢をおさめる義務のある本百姓(高持百姓),土地をもたず他人の土地を耕作する水呑百姓(無高百姓),有力な本百姓の従属民(名子・被官・家抱など)などがいた」

江戸時代における年貢や諸役は村ごとにかかり、村がそれを完納する責任を負っていた(村請制)村方三役(地方三役)名主(庄屋)・組頭(年寄)・百姓代
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問2 江戸時代の農民の家や暮らし
分割相続
教科書 p.176 5行「幕府は,1643(寛永20)年に田畑永代売買禁止令を出し,1673(延宝元)年には分割相続による耕地の細分化をふせぐために分地制限令を出した」
離縁状(三行り半)
教科書 p.185 写真とキャプション

幕藩領主は本百姓を支配の基本にすえ,かれらが安定した農業経営を維持するために田畑永代売買禁止令・分地制限令・田畑勝手作りの禁などの法令を出している。離縁状には離縁したことと、再婚してもかまわないことが三行半に書かれ、夫から妻へ渡された。庚申講は60日に一回めぐってくる庚申の日の夜に集まって徹夜で寝食を共にする講、道教の影響。
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問3 江戸時代の都市と農村
棒手振
教科書 p.198 注(4)「小売商人のなかには,店舗をもつものもいたが,多くは店舗をもたず行商をおこなう振売・棒手振であった。なお,近江商人や富山の売薬商人の行商は有名である」
関東取締出役
教科書 p.216 17行「幕府は1805(文化2)年に関東取締出役(八州廻り)をおいて治安維持をはかった」
林業
教科書 p.216 17行「都市建設にともなう木材需要の増大とともに,各地で林業がさかんになった・・・木曽の檜,吉野・秋田の杉などが知られている」

都市での商品需要の増大は,諸物価の上昇をまねいたが、米価は他の商品にくらべそれほど上昇しなかった。しかし、飢饉が起こると米価は高騰し、時には米屋や豪商がおそわれる打ちこわしが発生した。
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B 江戸時代の特産物と流通
問4 江戸時代の特産品と訴願運動
特産品
教科書 p.196 表「おもな特産品」
灘の酒
教科書 p.195 21行「醸造業では,伏見・伊丹・西宮,ついで摂津の灘に酒造りが発展し,醤油も播磨の竜野や下総の銚子・野田が特産地となった」
国訴
教科書 p.217 4行「坂周辺農村では,文政期に大坂の問屋による木綿や菜種の流通独占などに対し,数か国の村々が連合して国訴といわれる合法的な訴願闘争をおこない」

江戸時代の特産品の確認。1824(文政7)年の国訴では、摂津・河内・和泉3か国の1307か村が菜種と綿実の自由な販売などを求めて大坂町奉行所に訴えている。前年にも、摂津・河内の1,007か村が木綿の自由な販売を求めて訴訟をおこしている。
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問5 江戸時代の国内外の流通・貿易

教科書 p.235 3行「輸出品は,生糸・茶・蚕卵紙・海産物など半製品や食料品が中心であり,輸入品には毛織物・綿織物のほか武器・艦船などの工業製品」
納屋物
教科書 p.198 12行「産業の発展によって納屋物といわれる一般商人の荷物もさかんに流通するようになった」
富士川
教科書p.197 注(2)「17世紀はじめ,京都の豪商角倉了以が幕府の命により高瀬川・保津川・富士川などの水路をひらいた」
五カ所商人
教科書p178 注(1)「買い取り価格は糸割符仲間(のち江戸・大坂が加わり,五カ所商人となる)が決定した。これにより国内での価格統制などをおこなった。のちオランダ・中国にも適用した」

糸割符仲間は最初は京・堺・長崎の特定商人で構成。その後、江戸・大坂の商人が加わり五カ所商人と呼ぶ。河村瑞賢は陸奥荒浜から江戸までの東廻り航路と,出羽酒田から大坂を経て江戸にいたる西廻り航路を整備した。蔵物は販売目的で、幕府・大名が大坂・江戸の蔵屋敷に送った年貢米・特産物などの貢納物。納屋物は民間ルートの品物。幕末の開港後の貿易品の品目別構成比と横浜における相手国に関してはグラフ等でも確認できる。
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問6 江戸時代の文化・思想
おもな著作物
教科書 p.203 表
教科書 p.218 表
おもな文学作品
教科書 p.201 表

江戸時代の文化・思想に関しては人物・著作等の表で確認。山鹿素行『聖教要録』朱子学を批判した書、この著作が元で幕府より播磨赤穂に流された。また彼は日本主義の書『中朝事実』を著している。
  
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第5問 近代の東京に関する問題
問1 近現代における東京の変遷
市制・町村制
教科書 p.267 6行「1888年に市制・町村制,1890年に府県制・郡制が制定され,地方自治制度が確立した」
府知事
教科書 p.244 1行「1871(明治4)年,薩長土3藩に兵を提供させ親兵とし・・・廃藩置県を断行した。全国の知藩事は罷免され,中央から府知事・県令が派遣され,ここに集権化が達成された」
美濃部亮吉
教科書 p.360 15行「地方首長選挙では都市・公害問題や老人医療無料化などが争点となり,1967年に美濃部亮吉が東京都知事に当選するなど革新首長があいついで誕生」

1871年の廃藩置県により全国は府県にかわり、府知事・県令が中央から派遣された。そして、1888年に市制・町村制、1890年に府県制・郡制が制定された。
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問2 明治初期の政府の官制
内閣制度
教科書 p.263 12行「1885年には太政官制を廃止し,内閣制度を導入し,総理大臣を中心に各省大臣が協調して政務をおこなうことにした」

内務省は1873年に設置、富国強兵のための勧業行政と治安対策を担当。初代内務卿は大久保利通西南戦争は1877年。太政官制は1885年内閣制度が採用されるまでの明治新政府の中央官制。神祇官は神祇・祭祀を担当。1869年には太政官の上位に置かれるが、1871年の太政官三院制で神祇省に格下げ。外国人裁判官任用については条約改正を理解。
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問3 文明開化の新風俗
文明開化
教科書 p.256 2行「文明開化は東京と横浜・神戸などの開港地からはじまった。洋服はすでに幕末から軍人が着用していたが,・・・太陰太陽暦(旧暦)を廃して太陽暦(新暦)を採用」

文明開化に関しては錦絵などの図版でも確認。煉瓦造の耐火建築が並び,ガス灯・人力車・鉄道馬車などが錦絵が描かている。1872(明治5)年には太陰太陽暦(旧暦)を廃して太陽暦(新暦)を採用し,同年12月3日を明治6年1月1日とし,時刻の表示を一日24時間制とした。
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問4 1890年代の社会・経済
秩父事件
教科書 p.261 16行「1884年10月,秩父困民党に自由党員の一部が加わり,負債破棄を要求する大規模な農民蜂起が秩父で発生したが,軍隊により鎮圧された(秩父事件)」
労働組合期成会
教科書 p.287 18行「アメリカで労働運動を体験した高野房太郎により1897年,職工義友会が結成され,同年,片山潜も加わって,労働組合期成会に改組された」

秩父事件は1884年。俸給生活者の大量出現は1914年に始まる第一次世界大戦中の日本経済の発展(大戦景気)による。
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第6問 近現代の対外関係に関する問題
A  日清戦争
問1 近代の日朝関係
日韓関係
教科書 p.279  図版 年表「20世紀初頭の日韓関係」
第1次日韓協約
教科書 p.279 12行「1904(明治37)年,日露開戦直後,日本は,韓国に日韓議定書を強制し,・・・同年さらに第1次日韓協約をむすび,日本政府推薦の外交・財政顧問を韓国政府に設けさせた」
甲申政変
教科書 p.272 11行「1884年,独立党は駐留日本軍の支援によりクーデタをおこしたが,日本軍は駐留清国軍にやぶれ,クーデタは失敗した(甲申事変)」
甲午農民戦争
教科書 p.273 3行「1894(明治27)年,朝鮮で,東学信者を中心とする農民が日本や欧米の侵略を非難するとともに,李王朝の封建支配に対し蜂起した(甲午農民戦争)」
日朝修好条規
教科書 p.250 15行「1875年,日本軍艦雲揚が朝鮮の首都漢城(現ソウル)防衛の要地である江華島・・・翌1876年,日朝修好条規(江華条約)をむすび,朝鮮を開国させた」

征韓論以降、近代の日朝(日韓)関係、江華島事件・日朝修好条規・壬午軍乱・甲申政変・甲午農民戦争・日韓協約・韓国併合条約などは年表を活用し整理する必要。入試では頻出。
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問2 日清戦争以前の出来事
台湾出兵
教科書 p.250 9行「政府はこれをそらすため1874(明治7)年,台湾へ出兵した。その名目は,1871年におきた,台湾に漂着した沖縄島民の殺害事件であった」
閔妃殺害事件
教科書 p.277 注(3)「1895年,日本公使三浦梧楼らは守備隊などを朝鮮王宮に乱入させ親露派の閔妃を殺害した(閔妃殺害事件)」

関東州及び関東州派遣軍の指揮や南満州鉄道株式会社(満鉄)付属地を管理する関東都督府は日露戦争後の1906年旅順に設立され、その後1919年に行政担当の関東庁と軍事担当の関東軍に分離。臥薪嘗胆は1895年三国干渉後のロシアに対する日本人の合い言葉。親ロシア政策を採る閔妃の殺害事件も三国干渉後の1895年の出来事。
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問3 日清戦争
君死にたまふことなかれ
教科書 p.278 注(2)「また開戦後も与謝野晶子が戦争を嫌悪する詩『君死にたまふことなかれ』を発表した」
下関条約
教科書 p.274 3行「1895(明治28)年4月,下関で,伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章をそれぞれの全権として講和条約・・・清国が朝鮮の独立を認め,・・・賠償金2億両(約3億円)を支払い」

与謝野晶子『君死にたまふことなかれ』日露戦争中の1904年の「明星」9月号に寄せた詩。下関条約の内容は史料で確認。また、日清戦争後の中国分割は図版で確認する。
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B 大戦景気
問4 大戦景気
綿製品と水力発電
教科書 p.300 9行「水力発電の増加により工業動力も蒸気から電力に移り,在華紡の設立など中国への資本輸出もはじまった」
在華紡
教科書 p.300 注(1)「上海や青島など中国に進出した日本の綿業資本のことをいう」

第一次世界大戦前後の輸出入額や国際収支に関する額はグラフなどで確認する必要。特に1914年には11億円の対外債務国であった日本は、大戦後の1919年には14億円の対外債権国になっている。電力事業は最初火力発電による電灯普及が中心であったが、明治中期から水力発電に代わり、電力事業は電灯業から工業エネルギー供給業の中心となる。
 
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問5 日本と外国との輸出入 「グラフ」
世界恐慌
教科書 p.315 18行「1929年10月,ニューヨーク株式市場の株価大暴落をきっかけに世界恐慌に突入した。その結果世界恐慌の影響が浜口内閣の緊縮政策と重なり,日本経済は深刻な経済不況(昭和恐慌)におちいった」

グラフを読み取ること。1910年代から1930年代にかけての日本の経済状況は重要。長い不況が強硬外交への支持となり、中国侵略の原因となる。
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C 戦後復興と国際社会への復帰
問6 ドッジ・ラインと国交正常化
ドッジ・ライン
教科書 p.349 27行「ドッジは,九原則にもとづき赤字をゆるさない緊縮予算を政府に作成させた(ドッジ-ライン)。また,1ドル=360円の単一為替レートが設定」
日中共同声明
教科書 p.359 7行「1972年,佐藤内閣にかわった田中角栄内閣は,米中接近のもとで,同年9月,日中共同声明に調印し,両国の戦争状態をおわらせ,国交を正常化した」
日韓基本条約
教科書 p.358 1行「1964年に成立した佐藤栄作内閣は,アメリカのアジア政策に協力し,1965年,大韓民国の朴正煕政権と日韓基本条約をむすんで国交を樹立」

1949年、ドッジ-ラインの下で1ドル=360円の単一為替レートが設定され、シャウプ使節団の勧告による税制改革が実施される。1ドル=308円となるのは1971年12月各国の合意でドルが切り下げられたことによる。また、1973年には変動相場制に移行する。日韓基本条約(1965年)は佐藤栄作内閣、日中共同声明(1972年)は田中角栄内閣。
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問7 サンフランシスコ平和条約
サンフランシスコ平和条約
教科書 p.351 7行「1951年9月,サンフランシスコ講和会議がひらかれ,日本は首相吉田茂らの全権を送って,48か国とのあいだにサンフランシスコ平和条約をむすんだ」
日米安全保障条約
教科書 p.351 16行「沖縄・小笠原・奄美の各諸島はアメリカの施政権下におかれ,本土でも平和条約と同時に調印された日米安全保障条約・・・アメリカ軍の日本駐留と基地使用が認められた」

サンフランシスコ平和条約は1951年に全権使節となった首相吉田茂が調印した。調印国は参加52か国中48か国であった。ソ連・ポーランド・チェコスロバキアは条約に調印しなかった。また、インド・ミャンマー(旧称ビルマ)・ユーゴスラビアはまねかれたが参加せず、中華人民共和国・中華民国は会議にまねかれなかった。条約は同年11月、国会で承認され、翌1952年4月に発効し,日本は主権を回復した。しかし沖縄・小笠原・奄美の各諸島はアメリカの施政権下におかれた。
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問8 1950年代の出来事
経済協力開発機構加盟
教科書 p.356 8行「1964年には国際通貨基金(IMF)8条国に移行して国際収支上の理由で為替管理ができない国となり,同年,資本の自由化を義務づけられる経済協力開発機構(OECD)に加盟した」
第五福竜丸
教科書 p.356 8行「1954年,アメリカのビキニ水爆実験で日本漁船第五福竜丸が「死の灰」をあびて犠牲者を出し,マグロなどの食料が放射能でひろく汚染された」
ニクソン-ショック
教科書 p.359 1行「国際的威信の低下に直面し,ニクソン大統領は1971(昭和46)年,訪中計画を発表し,さらに金とドルの交換停止を発表して,世界に衝撃をあたえた(ニクソン-ショック)」
極東国際軍事裁判(東京裁判)
教科書 p.342 12行「GHQは1945(昭和20)年9月以後,東条英機らを戦争犯罪人として逮捕し,翌年5月には,極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷された」

1954年の第五福竜丸の被爆は、広島・長崎の被爆体験をもつ日本国民に原水爆禁止運動をおこさせ、1955年8月6日に第1回原水爆禁止世界大会が広島でひらかれるなど国民運動となった。極東国際軍事裁判(東京裁判)は1946年5月に開廷し、1948年11月に判決が出された。
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