2005年度 センター試験【世界史B本試】解説
第1問
問1 1 【「新大陸発見」400周年記念としてのシカゴ万博】
(1)○→教科書p.167「
コロン(コロンブス)は,インドへの近道として西まわり航路をくわだて,スペインのイサベル女王の援助を受けて
1492年にパロスを出港し,大西洋を横断してサンサルバドル島に到着した。彼は4回にわたる航海でアメリカ大陸にも達した。」
(2)イギリスの
北アメリカで最初の植民地はヴァージニア植民地で,17世紀初め。
→教科書p.189「北アメリカにおいては,
17世紀はじめから東岸にヴァージニア植民地がひらかれ,さらに本国で宗教上の迫害を受けたピューリタンなどがニューイングランド植民地をひらいた。」
(3)独立宣言は1776年。
→教科書p.218「大陸会議は,ワシントンを総司令官に任命して抗戦の決意を固め,
1776年7月4日には,フィラデルフィアで,ジェファソンらの起草した
独立宣言を発表した。」
(4)合衆国憲法は1787年。
→教科書p.219「
1787年にフィラデルフィアで憲法制定会議がひらかれ,
合衆国憲法が採択されると……」

1890年代のシカゴ万博が400周年記念なのであるから,1890年代-400=1490年代にあったできごととなる
選択肢はアメリカ史における重要なできごとであり,年代をふくめて注意したい。
問2 2 【19世紀後半の欧米の文化・社会】
(1) 第-次世界大戦後だから20世紀前半のできごと
→教科書p.302「大戦を経て,ヨーロッパ諸国への債務国から債権国へと立場をかえたアメリカでは,……,……大量消費社会が出現した。……,映画や
ジャズなどの大衆文化がひろく普及していった。」
(2) フルトンは18世紀後半~19世紀前半の人物
→教科書p.231 「また水上では,アメリカ人
フルトン(1765~1815)の
実用化した蒸気船がしだいに利用されるようになった。」
(3)→教科書p.194「
18世紀のフランスでは,理性を基準としていっさいの迷蒙を打破しようとする啓蒙思想がうまれた。……。……。……,……,また,
ディドロやダランベールらの編集した
『百科全書』に結集した百科全書派は,……」
(4)○
→教科書p.257 19世紀のヨーロッパ・アメリカの文化と第2次産業革命の中項目のなかの表中に「
ダーウィン(英) 進化論の提唱,
『種の起源』」とある。

19世紀後半の欧米のできごとを選ぶ時期を特定する問題。正確の年号でなくとも何世紀のできごとであるかに注意したい。
問3 3 【アメリカ合衆国の海外への勢力拡大】
(1) セオドア=ローズヴェルト大統領ではなく,マッキンリー大統領
→教科書p.280「アメリカも海外市場を求める姿勢を強め,
パン=アメリカ会議をひらいてラテンアメリカへの勢力拡大に力を入れた。
マッキンリー大統領のときには,キューバ独立支援を理由に米西戦争をおこし(1898年),勝利をおさめてスペインからフィリピン・
グアム・プエルトリコを獲得した。
キューバは,この戦争の結果
スペインから独立したものの,事実上アメリカの保護下におかれることになった。」
(2) セシル=ローズはアメリカ人ではなく,イギリス人。
→教科書p.282「
イギリスは,ボーア人と対決しつつ,ケープ植民地の北方に勢力をひろげ,1895年にはローデシアをたてた。」及び注(1)に「ローデシアは
セシル=ローズ(Cecil Rhodes,1853~1902)の名にちなんで命名された。ローズは,ダイヤモンド・金の採掘を独占して財をなし,当時ケープ植民地の首相(任1890~96)であった。」
(3) ○ →教科書p.280 (1)参照
(4)キューバは,フランスではなく,スペインが支配していた。→教科書p.280 (1)参照

帝国主義各国がどのようなことを行ったのか,事項を整理しておくことが必要である。そのなかでアメリカについては,フロンティアの消滅後も西や南に勢力を伸ばしたことに注意したい。
問4 4 【イラクと近隣諸国】

イラク問題は報道され続けてきた。時事的によく取り上げられている事件や地域については地図をよく見て確認したい。→教科書p.362 「1980年9月には,イラン革命の影響を恐れるフセイン大統領指導下の隣国イラクが,
イランに侵攻し,イラン=イラク戦争をひきおこした。この戦争は,決着がつかないまま1988年8月まで続いた。イラン=イラク戦争で経済的に疲弊したイラクは,ついで1990年8月に豊富な石油産出国である隣国
クウェートを占領し,国連の撤退要求決議を無視したため,アメリカやイギリスなどの多国籍軍との間で湾岸戦争(1991年1~2月)がおこった。」
問5 5 【イスラームの諸宗派】
(1) →教科書p.101「
シーア派 第4代カリフのアリーを支持する党派(シーア=アリー)を起源として,シーア派が形成された。シーア派は,アリーとその子孫をイスラーム共同体の最高のイマーム(指導者)と信じるが,だれを最高のイマームとして認めるかによって諸派にわかれ,また派によって教説の特徴をもつ。これに対して,イスラーム共同体が受け入れてきた預言者のスンナ(慣行・範例)に従う多数の人々を
スンナ派とよぶ。」
(2) →教科書p.258注(1)「『コーラン』と預言者のスンナ(→p.101)への復帰を唱える
ワッハーブ派が,アラビアの豪族サウード家とむすんでたてた王国。」
(3) →教科書p.49 注(4)「キリストの神的性質と人間的性質を分離させることを批判された。
ネストリウス派はペルシアを経て唐代の中国に伝わり,景教とよばれた。」
(4)○ →教科書p.101 (1)参照

イスラームの学習においてスンナ派とシーア派との区別は重要な基本事項である。イランとイラク南部にはシーア派が多い。カルバラーはシーア派の聖地。
問6 6 【イスラームの王朝・国家】
(1) 奴隷王朝を建てたのは,アウラングゼーブではなく,アイバクである。
→教科書p.113「デリーにはいった
アイバク(トルコ人マムルーク出身)は,1206年に自立し(
奴隷王朝),以後,320年間,イスラームの5王朝が交代した(デリー=スルタン朝)。
(2)15世紀にマリ王国からソンガイ王国にかわった。
→教科書p.114「西アフリカ……,……。……,14世紀に
マリ王国が栄え,15世紀後半には
ソンガイ王国にかわった。
(3)オスマン朝は,16世紀ではなく13世紀におこった。
→教科書p.197「13世紀なかごろ……。同世紀末,西北端のセルジューク・ビザンツ国境地帯で,オスマン=ベイのひきいるトルコ系イスラーム王朝がおこった。この
オスマン帝国は,……」
(4)○
→教科書p.362「1979年2月に,独裁的君主であった国王パフレヴィー2世の支配体制はくずれ(イラン革命),
ホメイニのひきいるシーア派イスラーム勢力による,イスラーム国家の建設がはじまった。」

イスラームの王朝については,大まかな世紀,建国場所と地図での確認,建国者,滅ぼした王朝や勢力について整理しておきたい。とくに,アフリカのイスラーム王朝についてはアフリカの東西南北のどちらの方角にあたるか要注意。
問7 7 【世界の歴史的建造物・遺跡】
(1)○→教科書p.54「……
インダス文明とよばれる。とくに大きな都市遺跡は,パンジャーブ地方のハラッパー,シンド地方のモヘンジョ=ダロである。大きな都市では,道路や排水溝がととのえられていた。城塞と市街地とにわかれ,城塞には,大沐浴場・穀物倉庫・集会所などの公共施設が設けられた。」
(2)ペルセポリスの王宮はアケメネス朝ペルシアのものである
→教科書p.30「アケメネス朝のもとで強大になり,……。ダレイオス1世は,……。首都はスサであったが,新たに
ペルセポリスをたてて祭儀の場所とした。」
(3)シャルトルの大聖堂は,中世に建てられた教会で,宗教改革はその後のことである。
→教科書p.160「ゴシック様式の聖堂は,中世に生きる人々のあつい信仰心と天上へのあこがれを示したものといわれ,北フランスのアミアンや
シャルトルの聖堂,……,……などが代表的なものである。
(4)ハギア=ソフィアは,ウィーンではなくコンスタンティノープルにある。
→教科書p.143「美術・建築においてはビザンツ様式がうまれた。円屋根とモザイクの壁画を特徴とする,コンスタンティノープルの
ハギア(聖)=ソフィア(アヤ=ソフィア)教会,……」

建造物は,建てられた時代と場所について関連させて学習することが必要である。
問8 8 【ヨーロッパ各地の凱旋門】

アの4世紀の皇帝はユスティニアヌスではなく,コンスタンティヌス。イのオーストリア継承戦争を戦ったのは,ウィルヘルム1世ではなく,フリードリヒ2世
→教科書p.49「313年,
コンスタンティヌス帝は迫害を停止して宗教の自由を認め(ミラノ勅令),キリスト教を公認した。」
→教科書p.42「
ユスティニアヌス帝(位527~565)はイタリアの東ゴートとアフリカのヴァンダルを滅ぼし,イベリア半島の西ゴート領の一部をも獲得した。こうして,ローマ帝国の旧領土がほぼ回復された。彼はまた法の集成を命じ,『ローマ法大全』をまとめさせた。
→教科書p.185「
フリードリヒ2世は外政面では,オーストリアのマリア=テレジアの即位をめぐるオーストリア継承戦争に乗じてシュレジエンをうばい,……」
→教科書p.277「ビスマルクが,労働者保護立法についての意見対立から皇帝
ヴィルヘルム2世と衝突して1890年に辞任すると,……」
問9 9 【フランス最古のモニュメント】
(1)
マチュピチュはインカ帝国の遺跡
→教科書p.96地図
(2) (3)○
→教科書p.20「スペインの
アルタミラ洞窟や
フランスの
ラスコー洞窟の躍動的な彩色動物画などの原始美術」
(4)
ネアンデルタールは,ドイツにある
→教科書p.19地図

原始時代についてセンターでは出題することがあるので,代表的な化石人類やその遺跡・遺物などの重要事項は整理しておこう。
第2問
問1 10 【ソフィストについて】
(1)この主張をおこなったのは,ソクラテスではなくプロタゴラス。
→教科書p.37注(2) 「代表的なソフィストのプロタゴラス(Protagoras,前485ごろ~前415ごろ)は,
「人間は万物の尺度である」と論じた。
(2)ソフィストは,万物の根源を探求したのではなく,政治や道徳を論じ法や道徳の相対性を主張した。(3)○
→教科書p.37「ギリシア哲学は,イオニアの自然哲学からはじまった。タレースは
万物の根源を水だと考えた……」
→教科書p.37「
政治や道徳を論じるソフィストがあらわれ,法や道徳の相対性を主張した。」
(4)キリスト教における教父は,前5世紀に存在しない。
→教科書p.49「キリスト教はしだいに独自の文化をうみだした。……,
教父が皇帝などに対しておこなった弁明などが書かれた。」
教父の注として →教科書p.50注「使徒よりのちの,初期キリスト教会の指導者・学者。」

ソフィストとソクラテスとの考え方の違いは重要。古代ギリシアからローマに至る思想の内容を整理しておきたい。
問2 11 【マケドニアのギリシア支配】
(1)→教科書p.45「アントニウスがエジプト女王クレオパトラとむすぶにいたって,オクタウィアヌスは,前31年
アクティウムの海戦で彼らをやぶった。」
(2)○
→教科書p.39「アテネなどのポリス連合軍は弱体化しており,
カイロネイアの戦いでやぶれ,フィリッポスはコリントにスパルタをのぞくギリシア都市を集めてヘラス連盟(コリント同盟)を結成して,その事実上の盟主となった。
(3) (4)→教科書p.35「前490年の
マラトンの戦いで,アテネは重装歩兵軍によりほとんど独力でペルシア軍を撃退した。ペルシアはふたたび侵入したが,ポリス連合軍は
サラミスの海戦やプラタイアイの戦いで勝利した。」

古代ギリシア・ローマ時代の戦跡は多い。戦いのあった時代・内容・場所について整理をしておくことが重要である。
問3 12 【ストア哲学の著作】
(1)ヴェルギリウスではなく,ヘシオドスの著作。
→教科書p.37「ヘシオドスは
『労働と日々』で農民の勤勉な生き方を歌った。」
(2)キケロではなく,リウィウスの著作。
→教科書p.50「ウェルギリウスのローマ建国叙事詩『アエネーイス』,……。歴史書にはリウィウスの
『ローマ建国史』,……,……をあらわした。」
(3)○
→教科書p.50「哲学・思想ではストア派が知識人に好まれ,キケロ・セネカ・エピクテトスが出,皇帝マルクス=アウレリウスは
『自省録』をあらわした。」
(4)ディオクレティアヌス帝ではなく,アウグスティヌスの著作。
→教科書p.50「これに対してアウグスティヌスは,5世紀はじめ『神の国』をあらわして,……」
→教科書p.50注(2)「彼がマニ教(→p.52)から改宗した体験を中心としてつづった
『告白録』も名高い。」

ヘシオドスの『労働と日々』,マルクス=アウレリウス=アントニヌスの『自省録』は正誤問題で頻出される事項。なお,ローマ史における「V」は,「ウ」とも「ヴ」とも表記されている。
問4 13 【『五経正義』の編纂者】
(1)→教科書p.89「唐詩は……。8世紀には李白・杜甫・王維,9世紀には
白居易(白楽天)らが著名である。」
(2)→教科書p.89「絵画では,人物画にすぐれた閻立本,山水画の王維・
呉道玄・李思訓らが出た。」
(3)→教科書p.73「
班固は前漢時代を記述した『漢書』をあらわし,……」
(4)○→教科書p.89「儒教の研究では,訓詁学が大成され
孔穎達が
『五経正義』をあらわし,古典の標準的解釈を示して科挙試験のよりどころとなった。

儒学の書物には,『五経正義』と『五経大全』,『四書大全』と『四庫全書』など類似した書名が多い。時代・著者・作品名について整理しておくことが重要である。また,このような形式の出題は正答率がかなり高いので,うっかりとしたミスをしないようにしたい。
問5 14 【明代の民衆統治・教化】
→教科書p.205「人民の戸籍は民戸・軍戸・匠戸などに区別し,
里甲制をしいて,里内の戸口・田土を調査し,……。軍戸は
衛所のもとに編成され,兵農一致の軍制が確立した。また唐以来の律令を改めて大明令や大明律を制定し,道徳の基準を定めた
六諭(6か条の教訓)が公布された。」
→教科書p.67「周は一族・功臣を支配地に諸侯として封じ,……。諸侯は周王の祖先をまつる祭祀に参加し,……。……。この支配体制を封建制度というが,……,父系の血縁的なつながりを基礎にしたものであった。同じ祖先をもつ大小の宗族の維持のための礼法として,
宗法が定められていた。」

衛所制は明代の兵農一致の兵制,宗法は宗族内で守る規範。
問6 15 【唐宋時代の文化】
(1)○
→教科書p.89「文章家としては
韓愈(韓退之)・
柳宗元らがあげられ,いずれも四六駢儷文を批判して漢以前の
古文の復興を主張した。
(2)王羲之は,唐代ではなく東晋の時代に活躍した書家
→教科書p.83「東晋の……,この時代の文学の粋がおさめられている。書・絵画でもすぐれたものがうまれ,
王羲之は書聖,……」
→教科書p.90「書道では初期の
欧陽詢・虞世南・
が楷書にすぐれ,」
(3)高宗ではなく,徽宗。
→教科書p.124注(1)「院体画の名手として,
北宋の
徽宗皇帝や……があり,……」
→教科書p.87「7世紀末,
高宗の皇后則天武后(武則天)は,いちじ皇帝となって国号を周とし,……」
(4)王維は,南宋ではなく唐代の人物。
→教科書p.90「 絵画では,人物画にすぐれた閻立本,山水画の
王維・呉道玄・李思訓らが出た。
→教科書p.89「8世紀には李白・杜甫・
王維,……。……。絵画では,……,山水画の
王維・……。」

唐代・宋代の詩や文章は国語でも扱っている。その際,作者や時代背景にも目を向け,国語は国語,世界史は世界史という科目の区別をつけないで総合的に学習することが大事である。
問7 16 【12世紀のヨーロッパ】
(1)メロヴィング朝が成立したのは5世紀
→教科書p.133「フランクは
メロヴィング朝(481~751)のクローヴィスによって統一された。……,クローヴィスは5世紀末に正統のアタナシウス派に改宗したので,……」
(2)○
→教科書p.152「イングランドでは,ノルマン朝が征服王朝であったため,はじめから王権が比較的強かった。ノルマン朝をついだ
プランタジネット朝のもとで……」
→教科書p.152注(4)「フランスのアンジュー伯が血縁によってイングランド王ヘンリ2世(HenryⅡ,位1154~89)となってひらいたものであったから,フランス西部にも多くの領土を有した。」
(3)カルマル同盟が結ばれたのは14世紀。
→教科書p.158「1397年にデンマーク王女マルグレーテの主導でデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3王国が連合して
カルマル同盟を成立させた。
(4)アヴィニョンに教皇庁が移されたのは14世紀。
→教科書p.151「1309年にフィリップ4世は教皇庁を南フランスの
アヴィニョンに移し,約70年にわたって教皇はフランス王の支配下におかれた。」

時期を特定する設問である。世紀という切り口で同時代史は頻繁に問われる。学習の際,どの時代なのか注意して学習したい。12世紀は,「12世紀ルネサンス」という表現もあるようにヨーロッパにとっては重要な世紀である。
問8 17 【中世ヨーロッパの神学】
(1)→教科書p.158「13世紀のドミニコ修道会士
トマス=アクィナスは,アリストテレス哲学をふまえた神学の再構築にいどみ,
『神学大全』を大成した。」
(2)○『神曲』はラテン語ではなくトスカナ地方の口語で表現された。
→教科書p.163「 はやくも14世紀には,
トスカナ地方の口語で雄大な叙事詩
『神曲』を書いた
ダンテ,……」
(3)→教科書p.158「普遍論争 スコラ哲学最大の論争は,
アンセルムスらの実在論とアベラールらの唯名論の間でおこなわれた普遍論争であった。」
(4)→教科書p.159「ウィリアム=オッカムは,人間は直観によって個物を確認できると考え,信仰と理性の分離をとなえたので,科学的思考の基礎としての
経験論(注)に道をひらいた。」
→教科書p.159注(1)「13世紀のフランチェスコ修道会士
ロジャー=ベイコン(Roger Bacon,1214?~94)もイスラームの学問に学び,自然科学の方法を考察した。」

中世の神学や神に対する考え方(教父時代やルネサンスを含む)は,生徒にとってはなかなか理解しにくい箇所である。人物,著作,考え方を整理するのは重要である。
問9 18 【大学と学問体系】
→教科書p.162「古典の研究を通じて,知性と感情の調和した人間性ゆたかな生き方を追求しようとする態度は,一般に
人文主義(ヒューマニズム)とよばれ,」
→教科書p.158「中世の学問は神学が中心であり,教会や修道院の付属学校(スコラ)がおもな舞台となり,
スコラ哲学とよばれる神学・哲学の体系がうまれた。」
→教科書p.159「なかでも,パリ大学・
オクスフォード大学の神学部,最古の大学といわれる
ボローニャ大学の
法学部,
サレルノ大学の医学部などが名声を博した。」

中世ヨーロッパの大学について,大学名・有名な学部,作られた世紀と場所を整理しておきたい。
第3問
問1 19 【ヨーロッパの農民や農村の生活】
(1)→教科書p.139の絵及び「農民たちは,三圃制の維持や
共同地の利用などのために,村落共同体を営んで自給自足的な経済をおこなった。」
(2)→教科書p.139「11世紀から12世紀にかけて,三圃制農法が普及し,
鉄製有輪犂などの技術改良がおこなわれて生産力が向上すると,……」
(3)○ この時期の囲い込みは,木綿生産とは関係なく,毛織物工業の原料である羊毛をとる牧羊地確保のためのものであった。
→教科書p.177「イングランドの絶対王政は,このとき修道院の財産を獲得したり,
毛織物工業の原料確保のための第1次
囲い込み運動をおこなったりしたジェントリを基礎にしていた。」
(4)→教科書p.171「
ドイツ農民戦争 ルターの改革に刺激された中・南部ドイツの農民は,
農奴制の廃止などを求めて,1524~25年に大規模な反乱をおこした。」

イギリスにおける囲い込み運動は,第1次が毛織物工業の原料確保のため牧羊地として囲い込む目的,第2次が穀物価格の上昇のため中小農民の土地や共同地を囲い込む目的であった。
問2 20 【14・15世紀の戦乱】
(1)フスが処刑されて,フス戦争がおこった。
→教科書p.152「コンスタンツ公会議は,ウィクリフの説を異端とし,フスを処刑し,……。フス派を中心とするプラハ市民は,その後,長く反乱を続けた(
フス戦争)。」
(2) ジャックリーの乱ではなく,ワットタイラーの乱。
→教科書p.150「
フランスの
ジャクリーの乱(1358年)やイングランドのワット=タイラーの乱(1381年)などがその例である。」
(3)○→教科書p.154「……百年戦争とよばれる断続的な長い戦いがはじまった。……。……。戦局ははじめイングランドに有利であり,フランスの騎兵は,
エドワード黒太子のひきいる
長弓隊にしばしばやぶれた。」
(4)ジャンヌダルクが登場するのは,ばら戦争ではなく,英仏百年戦争である。
→教科書p.154「……農民の娘
ジャンヌ=ダルクが,1429年にオルレアンの囲みをやぶって戦局を逆転させた。……イングランド軍を撤退させた。……。イングランドでは,百年戦争の直後に,王位継承をめぐって
ばら戦争とよばれる内乱が生じた。」

英仏百年戦争中に,フランスでおこったのがジャックリーの乱,イギリスでおこったのがワットタイラーの乱である。エドワード黒太子やジャンヌダルクが活躍した英仏百年戦争が終了したのは1453年,敗北したイギリスではその後,ばら戦争がおこった。
問3 21 【19世紀以降の科学や科学上の業績】
(1)
キュリー夫妻が発見したのは,X線ではなく,
ラジウム。
X線は,
レントゲンである。
→教科書p.257表
(2)○
コッホは
細菌学の他にコレラ菌の発見の業績もある。
→教科書p.257表
(3)相対性理論は
メンデルではなく,アインシュタイン。メンデルは
遺伝の法則の発見
→教科書p.365「20世紀にはいって,科学技術は驚異的な発展をとげた。理論面では,
アインシュタインによる
相対性理論の発見,……」
(4)
ファラデーはエネルギー保存の法則ではなく,
電磁誘導・反磁性体の発見。
エネルギー保存の法則は
マイヤー・ヘルムホルツ
→教科書p.257表

その他,病原菌の発見と伝染病の治療に功績のあったパストゥールをコッホと区別したり,モールス・ベル・エジソン・マルコーニーの発明したものの区別はつけておくようにしたい。
問4 22 【スリランカ(セイロン島)の歴史】
(1)
アショーカ王は,中国ではなくマウリヤ朝の王。
→教科書p.57注2「アショーカ王は,各地にストゥーパ(仏塔)を建立した。彼の時代,仏教教団の浄化がはかられ,仏典結集(仏典の編集)がおこなわれ,スリランカに仏教が伝えられた(→p.58)。」
→教科書p.58地図
(2)オランダは
16世紀初めには独立していない。
→教科書p.187「オランダは,1602年に連合東インド会社を設け,200年間で100万人がアジアへ向かった。……」
→教科書p.188地図
(3)○
→教科書p.189「イギリスは,1600年に東インド会社を設立し,アンボイナ事件以後はもっぱらインドの支配と経営に力をそそぎ,……」
(4)セイロン(1872年にスリランカ共和国と改名)は,
フランスではなく,イギリスから独立した。
→教科書p.339「セイロンは,1948年にイギリスから独立し,非同盟中立の立場を堅持し続けて,第三勢力内で重要な役割を演じた。」

時代をこえて歴史上に出てくる島・半島・地域については整理しておきたい。
問5 23 【植民地支配と栽培植物】
ア
コーヒーではないことがわかる。
→教科書p265「ナポレオン戦争後,オランダの東インド総督ファン=デン=ボスによって,
コーヒー・サトウキビ・タバコ・藍など輸出用作物の強制栽培制度がはじめられた(1830年)。しかし,この方法は稲作を犠牲にしておこなわれたものが多く,……。その後,ヨーロッパ人による投資が増大し,」19世紀末にはジャワ島をはじめとして多くの島々にプランテーション経営がひろまった。
→教科書p.265注(1)「オランダ連合東インド会社は,1602年に設立されたが,イギリスの進出によって経営難におちいり,1798年に活動を停止し,1800年に消滅した。」
イ
カピチュレーションではないことがわかる。
→教科書p.200注(1)「スレイマン1世が,神聖ローマ帝国に対抗してフランスと同盟したさい,通商を活発にする意図もあって,1535年,フランス人に居住・通商の自由,領事裁判権などを恩恵として認めた特権。のち,イギリス人・オランダ人などにも拡大された。」
ウ
ビルマはフランスではなく,イギリスの植民地
→教科書p.264「3回にわたるイギリス=ビルマ戦争で,南部ビルマや,コンバウン(アラウンパヤー)朝の支配する北部ビルマなどを占領し,ついに全
ビルマをインド帝国に編入した。そして,エーヤワディー川下流域のラングーンにイギリスの政庁をおき,南部ビルマのデルタ地域を開発して輸出向けの稲作を発展させた。」

地理・現代社会・政経の用語や学習についても目を配って学習しておきたい。
問6 24 【広域的な労働力の流れ】
a 中国からの東南アジアへの移住はとだえていないので誤り。
→教科書p.213「清代には人口が激増したため,耕作地をもてない農民は他郷への出稼ぎを余儀なくされ,四川・雲南・陝西・湖北や東三省へ
移住したり,広東・福建などからは東南アジア方面へ渡航する者も多く,後者はのちにとくに華僑とよばれた。」
b フランスで19世紀に奴隷貿易を禁止する動きがあり,正しい。
→教科書p.224「ハイチの奴隷反乱をきっかけに
黒人奴隷制の廃止もおこなうなど,社会的不平等の是正をはかった。」

人々の移動は,新課程の重要なテーマである。華僑だけでなく,印僑についても整理しておきたい。
問7 25 【産業の振興や国土の開発】
(1)19世紀後半ではなく,19世紀前半。
→教科書p.240「オーストリア帝国では,
1848年にウィーンで三月革命がおこり,民衆が市内にバリケードをきずき,
メッテルニヒはイギリスに亡命した。」
(2)三国干渉を主導したのはイギリスではなく,ロシアで,ドイツ・フランスをともなっておこなった。
→教科書p.286「ロシアは,フランス・ドイツとともに遼東半島の返還を日本に申し入れ(
三国干渉),」
(3)○
→教科書p.306「 スターリンは,急速な工業化による社会主義建設の路線をおしすすめ,1928年からは
第1次五か年計画に着手した。」
(4)人民公社が設立されたのは20世紀前半ではなく,後半。
→教科書p.335「1958年にはじめた大躍進運動のなかで,経済中心の農業生産合作社は,政治と経済を一体化させた大規模な
人民公社に再編成された。」

具体的な事件については,年号を忘れても,世紀の前半・中半・後半の区別がつけられるようにしておきたい。
問8 26 【20世紀後半の環境問題】
ア 枯れ葉剤は,インドシナ半島でおこったヴェトナム戦争で使用された。
→教科書p.349「アメリカのヴェトナム介入に対しては,世界各地ではげしい非難の声があがった。アメリカ国内でも,ヴェトナム反戦運動は,時を同じくして高まっていた黒人解放運動とともに,社会を大きく動揺させた。」
イ ソ連のチェルノブイリ発電所の事故は1986年のできごと。
ビキニ環礁で第五福竜丸が被爆したのは,1980年代より前のできごと。1995年~96年のフランス水爆実験はムルロワ環礁。
→教科書p.366写真解説 「ソ連の
チェルノブイリ原子力発電所の事故 中央の矢印が事故現場。1986年4月。」
→教科書p.358「アメリカ・イギリス・フランスの原
水爆実験の場となった太平洋地域は,「核」の問題に直面し続けてきた。そのなかで,「核」への反対運動は強まっていき,1985年には,オーストラリア・ニュージーランド・フィジーなどによって,南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)がつくられた。……。1995~96年にフランスが
ムルロア環礁で核実験を断行したさいにも,はげしい抗議運動が展開された。」

核関係の事件や軍縮は,きちんと年表で整理しておきたい。
問9 27 【国際連合とその活動】
(1)国際連合憲章が採択されたのは,パリ会議ではなく,サンフランシスコ会議。
(2)国際連合が発足したのは,日本の降伏前ではなく,降伏後。
→教科書p.330「国際連盟にかわる国際組織をつくろうとする動きは,戦争中からはじまり,1945年4~6月,50か国が参加した
サンフランシスコ会議で
国際連合憲章が採択された。
1945年10月に正式
発足した国際連合は,……」
(3)国連軍は派遣された。
→教科書p.336「
朝鮮戦争がおこった。……。8月末,朝鮮民主主義人民共和国の軍隊が南部のほぼ全域をおさえると,アメリカ軍を中心とする国連軍が,大韓民国を支援して中国国境にまで進出した。」
(4)○

環境問題・南北問題を含む現代史は,現代社会・政経など公民科の学習ともリンクしながら展開すると効率的である。
第4問
問1 28 【古代文明の法や制度】
(1)ハンムラビ王はアケメネス朝ではなく,古バビロニア王国の王。
→教科書p.25「 バビロニア王国をたてた。中央集権がすすみ,
ハンムラビ王は正義の施行者として『ハンムラビ法典』を制定して……」
(2)○
→教科書p. 42「ローマは……。……。……,
前5世紀なかばに
十二表法を制定して市民の権利を明確に規定した。」
(3)『ローマ法大全』を著したのは,オクタヴィアヌスではなく,ユスティニアヌス。
→教科書p.51「東ローマの
ユスティニアヌス帝の時代,トリボニアヌスらによって
『ローマ法大全』として集大成された。」
(4) ヴァルナ制は,インダス文明のものではなく,アーリヤ人により展開した。
→教科書p.55「前10世紀以降,先住民支配はひろがり,またアーリヤ人の階層分化もおこって,バラモン教とむすびついた
ヴァルナとよばれる四つの基本的身分が成立した。」

環境問題・南北問題を含む現代史は,現代社会・政経など公民科の学習ともリンクしながら展開すると効率的である。
問2 29 【春秋戦国時代】
(1)藩鎮ではなく,諸侯。藩鎮は唐代に中国内部におかれた節度使が軍閥化したもの。
→教科書p.68「
周王朝の権威は失われた。前4世紀なかごろから諸侯たちは王を自称するようになり,……」
(2)墨子は法家ではなく,墨家を代表する。
→教科書p.69「
墨子に代表される墨家は,儒家を批判して血縁関係にとらわれない愛(兼愛),平和論(非攻),身分に関係なく賢者を尊重すること(尚賢)などを説いた。」
(3)○
→教科書p.69「前4世紀なかば,秦の孝公に仕えた
商鞅の改革(変法)はこの富国強兵策の典型であり,これによって秦は強国に発展した。」
(4)竹林の七賢ではなく,諸子百家。竹林の七賢は魏晋南北朝時代の知識人。
→教科書p. 82「三国時代から南北朝時代までを魏晋南北朝時代と総称するが,……。……,……清談の風がひろまった。……「
竹林の七賢」といわれる人々は,この清談の中心となった。」

儒家・墨家・法家の思想や関係する人々については整理しておきたい。特に,墨家は非常に特異な存在であり,よく出題される。
問3 30 【隋・唐の王朝】
(1)隋は,宋ではなく,陳を滅ぼした。
→教科書p.83「
隋をたて,589年には南朝の
陳も併合して中国を統一し……」
(2)○
→教科書p.90「
高句麗は以後中国北朝としばしば交戦した。……。7世紀はじめ,隋の煬帝の遠征軍を退け,その後も唐と対立したが,668年,新羅・唐の連合軍にやぶれて滅んだ。」
(3)軍機処が設置されたのは,唐代ではなく,清代。
→教科書p.209「清は中国支配にあたって,おおむね明の制度をひきついだが,雍正年間には
軍機処を設けたため,政治の実権は内閣からここに移った。」
(4)新法党と旧法党とが対立したのは,唐代ではなく,宋代。
→教科書p.117「宋は文治主義を採用したので,……。……。6代皇帝神宗は,……新法を断行し,……。……,……。その後も
新法党と旧法党の争いが激化し,国政は混乱した。」

高句麗を滅ぼしたのは,3回遠征した隋の煬帝ではない。新羅と連合して唐が滅ぼした。
問4 31 【モンゴル・チベットの歴史】
(1)○
→教科書p.79「7世紀はじめ,チベット人のソンツェン=ガンポがチベット高原に
吐蕃をたて,
ラサを都とし,……,……。文化的には……,独特のチベット仏教(ラマ教)がおこり,インド文字をもとにチベット文字がつくられた。」
(2)エセン=ハンは,16世紀ではなく,15世紀の人物。
→教科書p.207「1449年にオイラートの
エセン=ハンが,明の正統帝(英宗)を土木堡で捕虜とし(土木の変),16世紀にはタタールのアルタン=ハンがしばしば長城内に侵入して明を苦しめた。」
(3)敦煌ではなく,ラサ。
→教科書p.79「ソンツェン=ガンポ像
ラサの
ポタラ宮殿内にある。」
(4)20世紀後半ではなく,前半。
→教科書p.309「モンゴル人民共和国の成立 ……。……。1921年,ロシア革命の影響を受けてチョイバルサンらがモンゴル人民党を結成し,……。その後,活仏の死を機に共和政が宣言され,1924年9月社会主義の
モンゴル人民共和国が成立した。」

中央アジアの歴史は,最近,注目され,出題も多くなってきている。モンゴル史などの事項をよく整理しておきたい。
問5 32 【乾隆帝の事績】
→教科書p.208「国号を金(後金)と称した。その子
ホンタイジ(太宗)はタタール系のチャハルを征服し,1636年国号を清と改め,朝鮮を従えた。……,清の
順治帝(世祖)は明の降将呉三桂らの力を借りて李自成の軍をやぶり,北京を占領して都とした(1644年)。
……,
康煕帝(聖祖)はこれをのぞこうとしたため,三藩の乱がおこった。……。康煕帝は,……,1689年ネルチンスク条約をむすび,……。西方では,外モンゴル・青海・チベットにも領土をひろげ,東方では台湾を根拠地とし,……鄭氏一族を降伏させ,台湾を中国の領土とした。康煕・雍正・乾隆の3代は清朝の最盛期とされ,とくに康煕・雍正年間は国庫の収入もゆたかで,皇帝権力が強大となった。雍正帝(世宗)は,1727年ロシアとキャフタ条約をむすんで国境を定め,
乾隆帝(高宗)は,……,ジュンガル・東トルキスタンを領土に加え,清代最大の領域を確保した。」

ジュンガル部の平定や,理藩院の整備から乾隆帝であると判断する。また,清朝の最大領域を確保したことも確認しておきたい。
問6 33 【清とロシアの関係】
(1)○
→教科書p.270「1860年には講和調停の報償としてウスリー江以東の沿海州を手に入れ(
北京条約)……。」
(2)トルコマンチャーイ条約は,ロシアと清との間の条約ではなく,ロシアとカージャール朝との条約。
→教科書p.261「カージャール朝が,南下してきたロシアとの国境紛争にやぶれ,1828年にむすんだ
トルコマンチャーイ条約で,アルメニアの一部を割譲するとともに治外法権を認めた。」
(3)キャフタ条約は,清が外モンゴルとロシアとの国境線を定めたもの。
→教科書p.209「雍正帝(世宗)は,1727年ロシアと
キャフタ条約をむすんで国境を定め……」
→教科書p.209注(4)「外モンゴルとロシアとの国境線を定め,北京への通商や交易場の設置などを決めた。」
(4)イリ地方と清に返還したのは,ネルチンスク条約ではなく,イリ条約。
→教科書p. 262注(1)「ロシアは,東トルキスタンのイスラーム勢力の反乱に乗じて1871年
イリ地方を占領した(イリ事件)が,1881年のイリ条約(ペテルブルク条約)でその大半を清朝に返還した。」

ロシアと清との国境線についての条約は,結ばれた年,関係者,その内容についてよく整理しておきたい。
問7 34 【国際連盟】
(1)国際連盟にアメリカは加盟しなかった。
→教科書p.300「国際連盟の
設立も決定され,ヴェルサイユ条約に国際連盟規約がもりこまれた。……。……。連盟への期待は大きかったが,アメリカが上院の反対で加入しなかったこと」
(2)○
→教科書p.305「シュトレーゼマンは,ついで外相となり,ロカルノ条約の締結や国際連盟への加入(1926年)によるドイツの国際社会への復帰を実現した。」
(3)国際連盟は,満州国を承認していない。
→教科書p.321「国際連盟は,中国の提訴に応じて,リットン調査団を派遣し,その報告にもとづいて,日本に「
満州国」承認の取り消しを求める勧告案を可決した。」
(4) 大西洋憲章は,国際連盟より後に成立した。
→教科書p.328「1941年8月,ローズヴェルトとイギリス首相チャーチルは
大西洋憲章を発表し,戦後世界についての民主主義的構想を示していた。」

国際連盟と国際連合との成立過程・加盟国・内容の相違を確認しておきたい。
問8 35 【第二次世界大戦後の諸国家間の条約】
(1)○
→教科書p.337「1951年9月に
サンフランシスコ講和会議を招集し,対日
平和条約をむすぶとともに,日米安全保障条約を締結した。その結果,独立は実現したが……」
(2) (3)第二次世界大戦後ではなく,第一次世界大戦後のできごと。
→教科書p.300「6月に調印された対独講和条約(
ヴェルサイユ条約)は,ドイツに第一次世界大戦の戦争責任を帰し,海外の植民地やアルザス・ロレーヌなどを放棄させた。またドイツはきびしい軍備制限を受け,賠償支払いの義務を課せられた。……,オーストリアとはサン=ジェルマン条約(1919年)が,……,ハンガリーとは
トリアノン条約(1920年)が,……がむすばれた。これらによってつくりあげられた国際秩序をヴェルサイユ体制という。」
(4)第2次世界大戦後ではなく,第一次世界大戦後のできごと。
→教科書p.301「……,主力艦を対象とする海軍軍備制限(
海軍の軍備を制限)を定めたワシントン海軍軍縮条約に調印した。このころ日本も含め列強は,軍縮をすすめる方向で歩調をそろえていた。ワシントン会議で決定をみなかった補助艦の保有量制限については,1927年にジュネーヴ軍縮会議が決裂したのち,1930年のロンドン軍縮会議でようやく英・米・日の保有量の上限とその比率が決められた。」

第一次世界大戦後に結ばれた条約か第二次世界大戦後に結ばれた条約との区別は,前問の国際連盟・国際連合の相違とあわせて整理しておきたい。
問9 36 【今日世界が直面する諸問題】
(1)エンクルマではなく,マンデラ。
→教科書p.363「……南アフリカ共和国では,アパルトヘイトに反対する諸国による経済制裁の圧力のもとで,1980年代からアパルトヘイトの緩和策がとられはじめた。……,その指導者マンデラが釈放されるなど,急速な変化がおこり,1991年には
アパルトヘイトが法律的に廃止された。1994年におこなわれた全人種の参加による選挙では,ANCが勝利し,マンデラが大統領に就任した。」
(2)アジェンデは,1960年代ではなく1970年代。また,軍事政権ではない。
→教科書p.357「1970年の選挙で成立したチリの
アジェンデ政権が,農地改革や,外国資本の支配下にあった鉱山の国有化をおこない,社会主義化をすすめたが,1973年,アメリカのあとおしを受けた軍部のクーデタで倒され,そのあとには独裁的な政権が誕生した。」
(3)ネルー・周恩来会談は,1070年代よりも前。
→教科書p.344「1954年4月,セイロンのコロンボで,セイロン・インド・パキスタン・ビルマ・インドネシアの首脳が会議(コロンボ会議)をひらき,……。また同年6月には中国の
周恩来首相とインドの
ネルー首相が会談し……」
(4)○

南北・南南問題・環境問題・国連改革など今日直面している問題が山積している。公民科の学習事項と共通しており,科目の枠を越えた学習の整理をしておきたい。