2005年度 センター試験【日本史B】解説
第1問 原始・古代から現代までの集落や都市の歴史に関する問題
A 原始・古代の社会と集落
問1 弥生時代の集落と生活
環濠集落
教科書 p.36、17行「大集落のまわりに深い濠をめぐらして防御した環濠集落も存在する」

弥生時代の集落には壕や土塁をめぐらしたものが少なくない。神奈川県大塚遺跡佐賀県吉野ヶ里遺跡など防御用施設を持つ集落は弥生時代が戦争の時代に入ったことを物語っている。
高地性集落
教科書 p.40、注(4)「このことを示す遺跡が高地性集落である。・・・高地性集落は,弥生時代中期と後期の2時期に多く営まれた」

環濠集落と同様に戦争に備えた集落。香川県紫雲出山遺跡など瀬戸内海沿岸を中心とする西日本に多く存在する。
鉄製農具
教科書 p.36、4行「後期になると,鉄鎌や鉄の刃先をつけた鍬の使用が拡大するなど農具の鉄器化がすすみ生産性は高まった」

弥生後期に入ると農具や工具など実用品の鉄器化が進み、鉄器時代となる。青銅器は祭祀用。
青銅器
教科書 p.39、10行「弥生時代の人々は,大陸の鋳造技術を学んでみずからも青銅器を製作した」

青銅器は九州北部で銅矛・銅戈、近畿を中心に銅鐸が多く分布。祭祀を共通にする地域的なまとまりの形成されていることがわかる。
須恵器
教科書 p.48、18行 「石室や横穴のなかには武器や馬具のほか,須恵器や土師器など日常の飲食器もおさめられている」

須恵器は灰色でかたい陶質の土器で,5世紀はじめに朝鮮半島南部から製法が伝えられた。土師器は弥生土器の系統をひく在来の土器。
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問2 古墳時代の集落と生活
古墳時代
教科書 p.46、1行 「3世紀後半ころ出現した古墳は,大和政権の政治連合に参加した首長や有力層の墳墓であった。古墳がさかんにきずかれた3世紀後半から7世紀を古墳時代という」

平形銅剣や銅矛などの青銅祭器は弥生時代の人々の祭祀に使用されたもの。弥生時代後期に大型の墳丘を持つ墓が発見されているが、一般に前方後円墳の出現する時期以降を古墳時代とする。
埴輪
教科書 p.46、注(3)「埴輪には,古墳時代初期に円筒埴輪があらわれ,ややおくれて,家などをあらわした形象埴輪が加わる」

形象埴輪のうち,動物や人物の埴輪は5世紀以後の古墳で出土する。
小規模な古墳
教科書 p.48、6行「5世紀後半ごろから各地で小古墳の築造が増えはじめていたが,6世紀になるとその動きはいっきに加速した」

小古墳の多くは,直径10m前後の円墳で,10数基から100基程度のまとまりをもって群集するため群集墳とよばれている。
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B 中世・近世の都市
問3 室町時代の都市の種類と例
港町
教科書 p.154、5行「兵庫・敦賀・小浜・桑名・大津など,海陸の要衝には港町ができ」

桑名は揖斐川の河口に発達した港町で、伊勢湾の最奥部に位置し京機と東海地方を結ぶ要地。
門前町
教科書 p.154、6行「巡礼の旅人でにぎわう有名寺社のあるところには門前町が成立した」

門前町としては伊勢神宮の宇治・山田善光寺の長野興福寺の奈良延暦寺の坂本などが著名。
寺内町
教科書 p.154、11行「一向宗では蓮如の活発な布教活動がおこなわれ,越前吉崎や摂津の石山などに一向宗門徒の寺内町が成立」

寺内町としては京都の山科奈良の今井町加賀の金沢河内の富田林などが著名。
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問4 戦国時代から江戸時代にかけて発達した都市
城下町
教科書 p.154、6行「戦国大名の居城も従来の山城から,交通の便利な平野部へ進出・・・各地で城下町の形成をみた。」

この時期に栄えた城下町には、北条氏の小田原今川氏の府中大内氏の山口大友氏の豊後府内島津氏の鹿児島などがある。
角倉了以
教科書 p.197、注(2)「17世紀はじめ,京都の豪商角倉了以が幕府の命により高瀬川・保津川・富士川などの水路をひらいた」

角倉了以は京都の豪商で、朱印船の派遣者としても有名。
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C 近現代の都市と社会・経済史
問5 文化住宅と高度成長
文化住宅
教科書 p.301、5行「都会では,電気やガスを使う生活がひろがり,長屋から庭付き一戸建ての文化住宅と呼ばれる郊外住宅に移り住む人も増加した。」

文化住宅は大正末から昭和初期にかけて流行した住宅。この時代には電灯が食卓を灯した。石油ランプは明治時代。
高度成長
教科書 p.355、6行「1955年ころから73年ころにかけて年率10パーセント前後の世界でも異例の高度経済成長をとげ・・・1968年にはアメリカについで資本主義世界第2位となった。」

1950年代半ばに石炭から石油にエネルギーの転換が進み、高度成長期には太平洋側に石油化学コンビナートなど新工場の建設され、太平洋ベルト地帯が出現した
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問6 1910年代の工業の発展
重化学工業生産額
教科書 p.325、注(2)「工業生産額のうち,重化学工業の占める比重は,1929年の32.2%から1937年の54.9%へ増大した」

重化学工業が軽工業生産額を上回るのは1930年代のこと。満州事変以後の軍需の拡大が重化学工業生産額の増大をもたらした。また、猪苗代・東京間の送電は1912年着工、1915年完成した。工業生産額が農業生産額を超えるのもこの頃。
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第2問 古代の歴史書と歴史研究に関する問題
A 『日本書紀』と律令国家成立期の政治
問1 『日本書紀』と大化改新
『日本書紀』
教科書 p.69、21行「720(養老4)年に,政府が公式に編纂した史書である『日本書紀』が完成した」
稲荷山古墳出土鉄剣
教科書 p.44、写真とキャプション

『日本書紀』神話~持統天皇までを記述したもの。古い部分の記述は同時代の中国史書金石文と比較・分析をすることではじめて史実の確認ができる。
改新の詔
教科書 p.56、1行「646(大化2)年正月には,改新の詔を出して新政の大綱を示した。『日本書紀』に記されている・・・定める」
国・郡制
教科書 p.56、注(1)「この詔は,当時の原文のままではなく,のちの大宝令の制を参照して書きなおされた部分がある」
藤原京跡出土の木簡
教科書  p.58、写真とキャプション

国・郡の制において,「」の字を用いるのは大宝令制以後であって,それまでは「」の字を用いていたことが,近年発見された木簡(→p.58写真説明)の記載で明らかとなった」
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問2 『帝紀』・『旧辞』
『帝紀』・『旧辞』
教科書 p.50、20行 「国家の統一のすすんだ6~7世紀には,・・・大王家の神話・伝説および大王家の系譜とともに『帝紀』『旧辞』にまとめられた」

『帝紀』は大王家の系譜をまとめたもの,『旧辞』は神話・伝説をまとめたもので欽明朝に成立。『古事記』・『日本書紀』の原資料。蘇我馬子が編纂したとする記録はみられない。
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問3 天智天皇と天武天皇
八色の姓
教科書 p.57、23行「684年,八色の姓が定められたが,これは古い姓の制を改め,天皇を中心とする新しい身分秩序に豪族層を編成することをめざしたもので,皇親氏族に与えられる真人の姓が最上位におかれた」
庚午年籍
教科書 p.57、9行「670年にはじめて全国を対象とする戸籍をつくった。これを庚午年籍という」
飛鳥浄御原令
教科書 p.58、5行「689年に飛鳥浄御原令が施行され,太政官を中心とする政治組織,税制・兵制や班田収授の制なども整備され」

律令国家成立期の政治については天智天皇・天武天皇・持統天皇の事績についての確認。八色の姓は天武天皇、庚午年籍は天智天皇、飛鳥浄御原令を施行(689年)したのは持統天皇。
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B 六国史などの歴史書と歴史研究
問4 『続日本紀』と長屋王
『続日本紀』
教科書 p.70、注(1)「『日本書紀』以後は,『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』が編纂」

797年成立。697年(文武朝)から791年(桓武朝)までを記す。奈良時代の根本史料。
長屋王
教科書 p.66、6行「不比等の死後,天武天皇の孫の長屋王が右大臣となり政権をとった」

長屋王は天武天皇の長子高市皇子の子。藤原不比等の死後に政権を担当藤原氏に対する皇親勢力の中心。長屋王の邸宅跡(平城京左京の三条二坊)からは多数の木簡が出土。
長屋王の変
教科書 p.66、17行「729(天平元)年,左大臣にのぼった長屋王に謀反の疑いをかけて自殺に追いこみ(長屋王の変)」

729年、長屋王が謀反の疑いをかけられ妻子とともに自殺した事件(長屋王の変)。これにより藤原不比等の四子が政権を掌握し、不比等の三女で聖武天皇の妃であった光明子が皇族以外で初めて皇后になった。
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問5 六国史と格式
六国史
教科書 p.70、注(1)「『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』が編纂され,『日本書紀』とあわせて六国史という」

奈良時代から平安前期にかけて完成した6つの勅撰史書(正史)。漢文・編年体。神代から光孝天皇まで記述。
律令格式
教科書 p.75、5行「律令を補足・修正した格や,施行細則である式が多数出され・・・弘仁格式・貞観格式・延喜格式がつぎつぎと編纂された(三代格式)」

平安時代に整理・編集された弘仁格式(嵯峨天皇)・貞観格式(清和天皇)・延喜格式(醍醐天皇)(三代格式)は独立した法として機能している。
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問6 平安時代の文学
『伊勢物語』
  教科書 p.85、16行「物語文学では,伝説を題材とした『竹取物語』や,一貴族の生涯を歌物語としてつづった『伊勢物語』」

『伊勢物語』は10世紀の前半に成立した歌物語。作者不詳で、在原業平をモデルとする。
『紫式部日記』
教科書 p.86、3行「日記文学では,10世紀はじめに紀貫之が紀行文『土佐日記』を・・・『紫式部日記』があらわされ」

『紫式部日記』紫式部が宮仕えしていた間(1008~1010年)のことを記した日記と書簡。
『栄花物語』
  教科書 p.100、7行「道長の一生を追憶した『栄華(栄花)物語』や,摂関家を中心とした歴史を客観的に描いた『大鏡』がつくられた」

『栄花物語』は『世継物語』ともいう。宇多天皇から堀河天皇にいたる編年体の歴史物語。前編は藤原道長の栄華を中心、後編は道長の死後を叙述。
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第3問 中世の社会と文化に関する問題
A 中世の戦乱と社会
問1 鎌倉武士と元寇
騎射三物
教科書 p.112、10行「犬追物・笠懸・流鏑馬(騎射三物)などの武芸を競う習慣が強く,また巻狩などの大規模な狩猟も催されて,兵の道が尊ばれ」

犬追物は馬場に犬を放し、馬上より弓で射る(傷つけぬよう鏃はない)。笠懸は的場に笠をかけ馬上から遠矢を射かけるもの。
文永の役
教科書 p.123、13行「元は1274(文永11)年に高麗軍を加え,約3万の軍勢でまず対馬・壱岐を占領し,・・・ようやく難をのがれることができた(文永の役)」
弘安の役
教科書 p.124、9行「1281(弘安4)年になると,東路軍・江南軍の二手にわかれて・・・決定的な打撃を受けて退却した(弘安の役)」

1274年の文永の役、1281年の弘安の役の2度に渡る蒙古の襲来(元寇)を幕府が武士をよく統率し、また、日本軍がよく戦ったことによって撃退した。
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問2 南北朝の内乱と土一揆
刈田狼籍
教科書 p.130、注(2)「この時代の守護は他人の田畠の稲などを一方的に刈りとってしまう刈田狼藉の取り締まりや・・・権限を一手ににぎるようになった」

守護の権限は従来の大犯三カ条に加え刈田狼籍の取り締まり使節遵行権が加えられた。
『増鏡』
教科書 p.144、15行「歴史書では『増鏡』が源平の争乱から後醍醐天皇までの歴史を公家の立場でとらえ」

『増鏡』は1180年の後鳥羽天皇の代から1133年の後醍醐天皇の京都還幸までを記述した編年体の歴史物語。四鏡の1つ。
正長の土一揆
教科書 p.141、9行「1428(正長元)年,近江坂本の馬借が徳政を要求したのをきっかけに,・・・・証文を焼き捨てた(正長の土一揆)」

1428年,近江坂本の馬借の蜂起をきっかけとする正長の土一揆『大乗院日記目録』に「日本開闢以来、土民蜂起是れ初めなり」と記されており、支配層が大きな衝撃を受けた一揆である。
嘉吉の土一揆
教科書 p.141、16行「1441(嘉吉元)年におきた嘉吉の土一揆は最も大規模なもので・・・幕府もやむなく徳政令を発布した」

正長の土一揆は4代将軍義持の死後,嘉吉の土一揆は6代将軍義教の死後におきた。ここには将軍の代がわりを機に,徳政と世直しを期待する庶民の願望がこめられていた。
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問3 織田信長の統一事業
足利義昭
教科書 p.159、15行「1568(永禄11)年,信長は13代将軍義輝の弟である義昭を奉じて入京し,・・・義昭を将軍職につけて実権をにぎった」
長篠の戦い
教科書 p.160、3行「1575(天正3)年に甲斐の武田勝頼を長篠の戦でやぶり」
桶狭間の戦い
教科書 p.159、14行「1560(永禄3)年,上洛の途にあった駿河の今川義元を桶狭間の戦で倒し」

織田信長の天下統一事業の流れを確認。1560年桶狭間の戦い、1568年足利義昭を奉じて入京、1570年姉川の戦い、1571年比叡山焼き討ち、1573年将軍義昭追放、1575年長篠の戦い、1576年安土城、1580年石山合戦の勝利、1582年本能寺の変。
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B 中世における寺社復興と文化
問4 東大寺の再建
東大寺の再建
教科書 p.121 13行「東大寺再建に活躍した重源は,宋人陳和卿の協力をえて,大陸から新たに大仏様(天竺様)の技法・・・巨大建築をつくることに成功した」

東大寺は重源の勧進活動によって再建される。最大の出資者は源頼朝と鎌倉幕府の御家人などである。空也は10世紀の半ば京において民衆に念仏をすすめた市聖とも呼ばれる僧。棟別銭は鎌倉後期から戦国期にかけて家屋に課した税。
運慶
教科書 p.121 19行「彫刻では南都仏師に運慶・湛慶父子や快慶らが出て,力強さに満ちた写実的な仏像や肖像を数多くつくって一時期を画し,重源らの事業に協力した」

鎌倉時代には運慶・快慶ら慶派とも呼ばれる奈良仏師が活躍。東大寺南大門金剛力士像をはじめ多数の傑作を残している。
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問5 東福寺再建のための貿易船とその時代
東福寺
教科書 p.145、注(1)「京都五山は南禅寺を五山の上とし,天竜・相国・建仁・東福・万寿の5寺,鎌倉五山は建長・円覚・寿福・浄智・浄妙の5寺をいう」

東福寺京都五山の1つで、1235年摂家将軍九条頼経の父道家が円爾弁円を開山として創建した寺。問題の沈没船は鎌倉後期の貿易船であり、新羅は935年には滅亡した国でありとの勘合貿易が始まるのは1404年からであることから考える。
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問6 能の上演図

(1)は『洛中洛外図屏風』に描かれた観世能の上演図、(2)は『一遍上人絵巻』に描かれた踊り念仏図、(3)は『月次風俗図屏風』に描かれた室町時代の田楽と田植えの図、(4)は人形浄瑠璃を描いた図。
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第4問 近世の政治・社会・文化に関する問題
A 近世の寺社と宗教政策
問1 史料「出羽国村山郡文書」
出羽国村山郡文書
教科書 p.175、図版史料「宗門改帳」とキャプション
宗門改帳
教科書 p.175、9行「幕府は,家光のころよりキリスト教根絶のため宗門改をおこない,人々がいずれかの寺院の檀徒(檀家・檀那)となることを強制」

宗門改帳はキリシタンの禁制の徹底を図るために作成されたもので、寺院が檀家であることを個人ごとに証明し、人別帳と一緒になって宗旨人別帳とも言う。18世紀には戸籍の役割を果たす。
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問2 キリスト教と幕府の貿易制限
コレジオ・セミナリオ
教科書 p.158、14行「イエズス会は,布教のため教会やセミナリオ・コレジオといった学校をつくり,そこで日本人宣教師などを養成した」
唐人屋敷
教科書 p.183、注(2)「長崎の中国人は当初日本人と雑居していたが,1688(元禄元)年に唐人屋敷に居住させられることになった」
中国船以外の外国船の入港制限
教科書 p.182、2行「1616(元和2)年,中国船以外の外国船の入港を平戸・長崎の2港にかぎり」

イエズス会が活発に活動したのは16世紀の後半、中国船以外の外国船の寄港地が平戸と長崎に限定されるのは1616年、中国人の居住地を長崎の唐人屋敷に限定したのは鎖国体制が完成してしばらくした1688年のこと。
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問3 安土・桃山時代から江戸時代の寺社や宗教
金光教 教科書 p.230、19行「新たな民衆宗教がおこった。黒住宗忠の黒住教,中山みきの天理教,川手文治郎の金光教などが庶民生活に根ざした教えを説き,人々の心をとらえた」
方広寺の鐘名問題 教科書 p.171 注(1)「家康は,秀頼が再建した京都方広寺の鐘銘に「国家安康,君臣豊楽」・・・これが冬の陣の勃発につながった」
有馬晴信 教科書 p.158 10行「1582(天正10)年,キリシタン大名の大友義鎮・大村純忠・有馬晴信は・・・ローマ教皇のもとに派遣した(天正遣欧使節)」

方広寺の鐘名問題を契機に家康は冬・夏の2回にわたる大坂の陣豊臣秀頼を攻め、豊臣氏を滅ぼした。1612年に出された禁教令とは因果関係は認められない。金光教は備前の川治文治郎が1859年に創始。有馬晴信は代表的なキリシタン大名。
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B 江戸時代の政治と社会
問4 江戸時代の都市社会
かぶき者 教科書 p.188、注(1)「都市では,異様な服装で徒党を組み,反社会的な行動に走る者・・・彼らは「かぶき者」といわれ,幕府の弾圧の対象となった。」

かぶき者は奇妙な振る舞いや格好をした者で旗本・町人のかぶき者それぞれ旗本奴・町奴と呼んだ。かぶき者の発生は江戸初期。
大槻玄沢 教科書 p.227、14行「大槻玄沢は江戸で芝蘭堂という蘭学塾をひらいて門人を育て・・・門人稲村三伯は最初の蘭日辞書である『ハルマ和解』を刊行した」

蘭学者大槻玄沢杉田玄白にオランダ医学、前野良沢にオランダ語を学ぶ。蘭学入門書『蘭学階梯』を著し、江戸の芝に蘭学塾の芝蘭堂を開き多くの門人を育てた。芝蘭堂の新年会は「オランダ正月」とよばれた。
西山宗因
教科書 p.200、15行「大坂の西山宗因が奇抜な趣向を得意とする談林派を形成した」

西山宗因俳諧の流派の談林派の創始者。俳諧を庶民の文学にし、17世紀後半に大坂で活躍した。
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問5 松平定信と寛政の改革
松平定信と寛政の改革
教科書 p.212、3行「家斉が11代将軍に就任すると,陸奥白河藩主松平定信が・・・吉宗の時代を理想として寛政の改革をすすめた」
七部金積立法
教科書 p.213、六行「七分金積立法(七分積金の法)を設けて・・・その運用によって貧民救済や中・下層町人への低利融資をはかった」
海国兵談
教科書 p.213、10行「『海国兵談』を出版して海防の急を説いた林子平を罰した」

松平定信の寛政の改革の内容理解。寛政異学の禁・棄捐令・囲米の制・旧里帰農令・七部金積立法・石川島に人足寄場の設置・『海国兵談』の著者林子平の処罰・洒落本作者の山東京伝らを処罰など確認。『海国兵談』の著者は林子平。佐藤信淵は経世家で19世紀前に活動、『経済要録』の著者。
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問6 史料『牧民金鑑』と水野忠邦の天保の改革
史料『牧民金鑑』
教科書 p.220、図版史料「人返し令」
水野忠邦と天保の改革
教科書 p.220、1行「1841(天保12)年,大御所家斉が死ぬと,老中首座水野忠邦は・・・幕政の改革に着手した(天保の改革)」
人返し令
教科書 p.220、8行「農村の復興と江戸の治安維持をねらって,農民が村を離れて江戸・・・帰郷強制などを命じた人返し令を出した」

水野忠邦の天保の改革の内容理解。株仲間の解散・人返し令・上知令・人気作者の為永春水や柳亭種彦が処罰など。史料は江戸への農村からの流入を禁じ、江戸へ流入した貧民の帰村を命じたもの。
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第5問 近代の政治と外交に関する問題
A 初期の議会
問1 第1議会
第1議会
教科書 p.270、14行「第1議会で民党は支持基盤である地主の要望にこたえるため,「政費節減・民力休養」を唱え・・・第1次山県有朋内閣と対立した」

日本の総理大臣は初代が伊藤博文、そして黒田清隆と続き、第1議会時は山県有朋が首相。民党「政費節減・民力休養」を唱え予算案をたてに対立した。
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問2 利益線
主権線と利益線
教科書 p.272、注(3)「内閣に示した意見書(「外交政略論」)で山県首相は,・・・国土の安全に密接に関わる地域(「利益線」)である朝鮮も守らなければならない,と主張した」
史料『外交政略論』
教科書 p.273 図版史料『外交政略論』(「山県首相の朝鮮政策」)

当時の日本はシベリア鉄道の建設をすすめるロシアが朝鮮半島へ進出することに脅威を感じており、日本の独立を保持するためには朝鮮半島の独立が欠かせないと考えていた。
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問3 初期議会の時期の出来事
立憲同志会
教科書 p.297、5行「護憲運動と対抗するために桂も新党結成を目指したが,それが立憲同志会の結成として実をむすんだ」
選挙資格の拡大、直接国税3円以上
教科書 p.310、注(2)「1919年,選挙資格を,直接国税3円以上納める者にまで拡大した」
選挙干渉
教科書 p.271、4行「1892(明治25)年の第2回総選挙で政府は民党をやぶるためにはげしい選挙干渉をおこなった」
壬午軍乱
教科書 p.272、4行「1882(明治15)年7月,日本と閔氏に不満をもつ兵士や民衆が蜂起し,・・・保守派の大院君を政権につけた(壬午事変・壬午軍乱)」

初期議会の時期での出来事は、第2回総選挙における政府の選挙干渉で内務大臣品川弥二郎の指示の元に行われ、全国で25名の死者を出す流血の大干渉となった。立憲同志会の結成は1913年、選挙資格の拡大は原内閣の1919年、壬午軍乱は1882年でいずれも時期が異なる。
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問4 日清戦争以前に創刊された新聞と雑誌
新聞と雑誌
教科書 p.291、3行「最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』以後,次々と新聞が発行された。・・・1880年代以降になると,『国民之友』や『日本人』などの政論雑誌が,続いて・・・総合雑誌が発行されるようになった
教科書 p.291 図版「おもな新聞と雑誌」
『キング』
教科書 p.302、7行「,『週刊朝日』や『サンデー毎日』などの週刊誌,『キング』などの大衆雑誌,円本などの低価格本が誕生した」

大衆雑誌『キング』は1925年に創刊、徳富蘇峰が発行した『国民新聞』陸羯南が発行した『日本』三宅雪嶺が設立した政教社の雑誌『日本人』は、いづれも日清戦争前の明治20年代前半に創刊されている。
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B 憲政の常道と政党内閣
問5 田中義一内閣と浜口雄幸内閣
田中義一内閣 教科書 p.312、17行「1927年4月の金融恐慌をきっかけに田中義一政友会内閣が誕生すると,・・・方針を干渉政策(積極外交)へと変えた」
浜口雄幸内閣 教科書 p.315、12行「1929(昭和4)年7月に成立した立憲民政党の浜口雄幸内閣は,・・・徹底した産業合理化政策をとった」

田中義一は政友会内閣、浜口雄幸は立憲民政党内閣である。革新倶楽部は1922年立憲国民党を中心に憲政会を脱党派で結成し護憲三派内閣の時には党首犬養毅が入閣。しかし1925年分裂し多くは政友会に吸収された。
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問6 政党内閣
政党内閣制
教科書 p.311、21行「清浦内閣が倒れ,第1党となった憲政会の総裁加藤高明を首相に・・・衆議院の多数党の総裁が政党内閣を組織することが「憲政の常道」として慣行化した」

第二次護憲運動により清浦奎吾内閣が倒れ,加藤高明を首相とする護憲三派内閣が誕生し、これ以後,1932年の五・一五事件犬養毅内閣が倒れるまでの八年の間,衆議院の多数党の党首が内閣を組織することが「憲政の常道」として慣行化した。
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問7 護憲三派内閣以降の政党内閣での出来事
価格統制令
教科書 p.328、19行「1938(昭和13)年には企画院の立案した国家総動員法が制定され・・・価格等統制令などをつぎつぎと発令」
西原借款
教科書 p.298、19行「1916年10月に誕生した寺内正毅内閣は,袁世凱の死後実権をにぎった段祺瑞に・・・西原亀三を通じて巨額の借款を無担保で与えた(西原借款)」
憲政党
教科書 p.275、14行「1898(明治31)年1月に成立した第3次伊藤内閣提案の地租増徴案を両党は・・・合同して憲政党を結成した」
金輸出再禁止
教科書 p.321、13行「犬養内閣はただちに金輸出再禁止をおこない,管理通貨制度へ移行し,・・・軍部にいっそう協調的な方針をとった」

政党内閣制は1924年の加藤高明内閣から1932年の犬養毅内閣までの間。価格統制令は1938年、近衛文麿内閣の時に出された法令、西原借款寺内正毅内閣の1917年~1918年に出された貸し付け。憲政党の結成は1898年に自由党進歩党が合同した党。
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問8 天皇大権
天皇大権
教科書 p.264、15行「憲法では,天皇は統治権の総攬者となり・・・外交権,緊急勅令制定,陸海軍の指揮権(統帥権),など大きな権限(天皇大権)をもった。」

天皇大権とは天皇が明治憲法下で行使できた権限。法律の公布・施行をはじめ緊急勅令、憲法改廃権、統帥権宣戦・講和や条約締結など外交決定権、文官の任免権など広範囲にわたる。ただ、それぞれには輔弼機関があり、天皇の単独行使の例はない。法律・予算などの審議は輔弼機関の役割。
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第6問 近代の政治と経済に関する問題
A  満州事変後の国際関係
問1 国民精神総動法と日米通商航海条約
近衛文麿内閣
教科書 p.327、9行「広田内閣は1937年2月に退陣し,陸軍大将林銑十郎の内閣にかわり・・・近衛文麿が各方面の大きな期待を集めて組閣した」
国民精神総動員運動
教科書 p.329、11行「政府は1937年から国民精神総動員運動を展開し・・・日本精神発揚と生活規制をはかった」
翼賛選挙
教科書 p.334、20行「1942年4月の第21回総選挙で政府の推薦する候補を多数当選させ(翼賛選挙),翼賛政治会を結成させた」
日米通商航海条約の破棄
教科書 p.330、11行「1939年2月に海南島を占領したのをはじめ,南進政策に着手した・・・7月にアメリカは日米通商航海条約の廃棄を日本に通告」

近衛文麿内閣の事績を確認。近衛文麿は1937年6月~1939年1月までと、1940年7月~1941年7月、1941年7月から10月までの3次にわたって組閣している。第1次では国民精神総動員法国家総動員法を制定し戦時体制を整備した。しかし、日中戦争の長期化三国同盟問題で閣内不統一のため辞職。新体制運動を展開し米内光政内閣に代わり第2次内閣を組閣。この内閣で「基本国策綱領」を制定、そして第3次内閣では9月の御前会議で日米開戦の決定がなされ、開戦を急ぐ陸相東条英機対立し10月総辞職。なお、翼賛選挙は東条英機内閣
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問2 満州事変から日本の敗戦までの出来事
破壊活動防止法
教科書 p.353、7行「また内政では,1952年の破壊活動防止法の制定・・・などによる治安体制の強化がすすめられ」

破壊活動防止法は戦後の吉田茂内閣が制定。なお、サンフランシスコ講和後、吉田茂内閣は再軍備をすすめ、内政でも破壊活動防止法の制定、警察制度の中央集権化などによる治安体制の強化をすすめ、教育の分野では愛国心教育の必要が強調され、教職員の政治活動を規制する教育二法を成立させた。
国民徴用令
教科書 p.328、19行「1938(昭和13)年には企画院の立案した国家総動員法が制定・・・賃金統制令・国民徴用令・価格等統制令などをつぎつぎと発令」

国民徴用令は賃金統制令・価格等統制令と同じく国家総動員法に基づく勅令。1939年に7月公布。必要な労働力を軍需産業などに強制的に動員できる。徴用者には「白紙」が送られた。
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B 高度経済成長期の日本
問3 経済発展と政党の多党化
国民総生産 教科書 p.355、6行「1955年ころから73年ころにかけて・・・1968年にはアメリカについで資本主義世界第2位となった」

技術革新と大型設備投資による産業全体の重化学工業化室の高い豊富な労働力と企業の労働者管理、政府の産業保護政策などによって、年率10パーセント前後の世界でも異例の高度経済成長をとげ、国民総生産(GNP)はアメリカについで世界第2位となった。
多党化 教科書 p.360、12行「 1960年代から70年代にかけては,自民党の長期政権に対して,・・・野党の多党化現象がすすんだ」

自民党の長期政権に対して、野党側は社会党がのび悩み、1960年には民主社会党が結成、1964年には創価学会を基盤とする公明党が結成、さらに共産党も70年代にかけて党勢をのばして野党の多党化現象がすすんだ。
 
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問4 1960年代後半の出来事
ベトナム戦争反戦運動
教科書 p.358 6行「北爆や米軍の無差別住民殺害,日本政府のヴェトナム戦争協力に反対する労働組合や市民の運動も大きなひろがりをみせた」

1965年、小田実らによりベ平連(「べトナムに平和を!市民連合」)の運動がはじまった。一方で日本経済はベトナム特需の恩恵を受けた。
全日本産業別労働組合会議
教科書 p.345、注(3)「1946年,右派の日本労働組合総同盟(総同盟)と左派の全日本産業別労働組合会議(産別会議)が結成された」

日本の民主化のためGHQは労働組合の組織化を奨励した。1945年には労働組合法が制定され労働組合が急激に発展した。また、1947年には労働基準法も制定。
重要産業統制法
教科書 p.315、17行「1931年には重要産業統制法を制定し,産業合理化のためのカルテルの結成をうながした」

昭和恐慌下で基幹産業安定のため浜口雄幸内閣が産業合理化の1つとして制定。紡績・製鋼などの重要産業でカルテル結成を促し独占資本を強化した。一方で中小企業・労働者の生活を圧迫。
下山事件
教科書 p.350、注(1)「1949年7月5日,人員整理をすすめていた国鉄総裁下山定則がゆくえ不明・・・死体となって発見された」

1949年には下山事件をはじめ、7月中央線三鷹駅構内で無人電車が暴走し死傷者を出した三鷹事件。さらに8月、東北本線松川駅付近で列車が転覆し乗務員3名が死亡した松川事件などの怪事件が起こり、これらの事件はレッド=パージに利用され、労働運動は大きな打撃を受けた。
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