p.77 14行~16行 | 空海は,大学や国学にはいれない庶民を教育するための学校として綜芸種智院をひらいた。 |
p.77 注の(1) | 各氏の大学別曹は,自己の氏の大学生を寄宿させて,そなえつけの書籍を利用させ,大学での勉強の便宜をはかった。 和気氏の弘文院,藤原氏の勧学院,橘氏の学館院,在原氏や皇親一族の奨学院などが有名である。 |
p.70 注(3) | 石上宅嗣は,自分の屋敷に![]() |
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有力貴族の大学別曹名は確認しておく必要が有る。庶民教育の機関としては空海の設けた学校の綜芸種智院は重要事項。 |
p.149 1行~2行 | 関東では15世紀の前半に上杉憲実が足利学校を再興している。 |
p.149 注(1) | 戦国時代末期,「坂東の大学」として宣教師を通じてヨーロッパにも知られた。 |
p.148~149 23行~1行 | 肥後の菊池氏や薩摩の島津氏は,桂庵玄樹をまねいて朱子学の講義をきき,この地方に薩南学派が興隆するもとになった。少しおくれて土佐では南村梅軒が朱子学を講じ,海南学派(南学)を形成した。 |
p.145 13行~15行 | 五山の禅寺では,大陸文化の影響をつよくうけた文化がうまれた。禅僧は漢詩文に巧みで,義堂周信・絶海中津らによって五山文学の隆盛をみた。 |
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応仁の乱で京都が焼失すると,京都をはなれる公家・僧侶も多く,各地に新しい文化の拠点がつくられたことに着目。 |
p.189 17行~18行 | 江戸の湯島に孔子をまつる大成殿をたて(湯島聖堂),林信篤(鳳岡)を大学頭に任じた。 |
p.212 9行~10行 | 1790(寛政2)年には林家に朱子学以外の学問を聖堂で教えることを禁じた(寛政異学の禁)。 |
p.212 注(3) | 朱子学を正学とし,古文辞学(徂徠学)(→p.202)や折衷学(→p.229)など他の諸学を異学とした。林家の私塾であった聖堂学問所の運営も改められ,定信辞職後の1797(寛政9)年には幕府直営となり,のち昌平坂学問所と称されるようになった。 |
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家康の侍講となった林羅山にはじまる林家は鵞峯・鳳岡(信篤)と続き、綱吉の時に鳳岡が大学頭に任ぜられ、以来世襲。藩校も整理しておくこと。 |
p.229 9行~11行 | 民間の私塾も・・・大坂町の設立になる懐徳堂・・・咸宜園などが有名である。 |
p.229 11行~13行 | とくに懐徳堂は,朱子学を中心としつつも特定の学派にこだわらない学風で知られ,富永仲基・山片蟠桃らのすぐれた町人学者を出した。 |
p.229 13行~15行 | 京都の石田梅岩は心学をはじめ,商行為の正当性と正直・孝行・倹約などの日常道徳を説いた。心学はその後,手島堵庵や中沢道二によって各地に心学講舎がたてられ,普及していった。 |
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庶民教育では読み・書き・そろばんを主とする寺子屋があるが、懐徳堂・咸宜園・含翠堂などの民間私塾と石田梅岩の心学は必須。 |
p.255 9行~16行 | 1872(明治5)年,文部省はすべての国民が男女とも学ぶ国民皆学を理念とし,教育を国民の義務とする学制を公布した。学制は,学問が個人の立身・発達のためにあるとする啓蒙主義的な教育観を述べていた。 |
p.255 22行~24行 | 民間でも福沢諭吉の慶応義塾(1858年)や新島襄の同志社(1875年),大隈重信の東京専門学校(1882年)などが設立された。 |
p.254 1行~7行 | この時期の著・訳書としては,福沢諭吉の『学問のすゝめ』,『文明論之概略』,中村正直の『西国立志編』(スマイルズの『自助論』の訳),中江兆民の『民約訳解』(ルソーの『民約論』の訳)などがある。 |
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学制、明治初期の啓蒙思想家と啓蒙書は必須事項。中江兆民はフランスのルソーの『民約論』を日本に紹介。ヘボンはアメリカ人。 |
p.290 7行~10行 | 学制により近代的学校教育がはじまったが,・・・文相森有礼が1886(明治19)年に公布した学校令でようやく安定した。これにより小学校は尋常科と高等科にわけられ,尋常科4年間が義務教育とされた。< |
p.291 注(2) | 東京専門学校は1903年,早稲田大学と改称,関西法律学校は1905年,関西大学と改称。こうした私立大学を政府が正式に大学と認めたのは,1918年の大学令においてであった。 |
p.302 3行~6行 | 1918(大正7)年には大学令の制定や高等学校令の改正がおこなわれ,大学・高等学校・専門学校の増設がすすむとともに,それまで専門学校とされてきた慶応義塾大学のような公・私立の大学が正式に大学とされた。 |
p.312 1行~2行 | 宇垣軍縮の名で知られる陸軍軍縮もおこなった。 |
p.312 注(1) | 陸軍大臣宇垣一成の手によってすすめられた軍縮で,陸軍師団数を21から17に減らすとともに,軍備の近代化をはかった。 |
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学制(1872)・教育令(1879)・学校令(1886)・教育勅語(1890)・大学令(1918)の制定に関しては、年代と法令の内容の把握が必要。宇垣は護憲三派内閣(加藤高明内閣)の陸軍大臣で宇垣軍縮を行なった。 |
p.45 5行~8行 | 氏の名は葛城・平群・蘇我など地名によるものや,大伴・物部・土師・錦織など職掌と関係のあるものなど,さまざまである。 |
p.48 15行~16行 | 6世紀には前方後円墳から円墳にいたるまで,横穴式石室がひろく採用された。入り口をひらいて追葬ができる墓室構造は,家族の合葬に適したものである。 |
p.52 3行~5行 | 6世紀の末,大臣の蘇我馬子は大連の物部守屋を滅ぼし、さらに592年,崇峻天皇を暗殺させて,権力をますます強大なものとした。 |
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氏姓制度を確認する。古墳時代には埋葬品として銅鏡が含まれているが、銅鐸は弥生時代の紀元前1世紀に多い。物部氏は蘇我氏と対立し滅ぼされたことを確認。 |
p.61 3行~5行 | 上級の官人は,官職・位階に応じて封戸(食封)・田地・絹・布などが俸給として与えられ,経済的にも恵まれていた |
p.62 3行~4行 | 上級官人には口分田以外に位田・職田などが支給され,有力な寺社には寺田・神田の所有が認められた。 |
p.62 9行~11行 | 位階をもつ官人は調・庸などの税を免除されたされたが,一般の人民は租・調・庸・雑徭などの重い税を負担しなければならなかった。調・庸は毎年作成される計帳にもとづいて徴収された。 |
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律令制度の官制・身分制度と土地制度・税制と兵士役(軍役)は貴族・官人と庶民との違いを確認したうえで整理しておくと良い。 |
p.63 7行~8行 | 50戸ごとに2人の正丁を徴発して,都ではたらかせる仕丁の制度もあった。 |
p.65 6行~10行 | 708(和銅元)年に和同開珎を鋳造したあと,・・・金属貨幣は畿内やその周辺地域では用いられたが,それ以外の地域では稲・麻布などが貨幣の役割をはたした。 |
p.62 5行~6行 | 賤民には官有の陵戸・官戸・公奴婢と,私有の家人・私奴婢の5種があり(五色の賤),官有の賤民は良民と同額の口分田,私有の賤民は3分の1の口分田が与えられた。 |
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選択肢の正誤を注意深く判断する必要。銭貨の全国流通や条里制の全国での実施、官有の賎民と私有の賎民などを確認。 |
p.73 9行~12行 | 坂上田村麻呂を征夷大将軍とする第3次軍は,・・・蝦夷の首長阿弖流為を屈服させ,胆沢城をきずいて鎮守府を多賀城からここに移した。 |
p.69 1行~2行 | 道鏡は,称徳天皇のもとで,太政大臣禅師をへて法王という特別の地位につき,勢力をふるった。 |
p.74 16行~18行 | 810(弘仁元)年,嵯峨天皇と平城上皇の不和を背景に,薬子の変がおこった。天皇はあらかじめ腹心の藤原冬嗣(北家)を蔵人頭に任命してこれに対処した。 |
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坂上田村麻呂・称徳天皇・薬子の変などの人物・事件から年代判定、坂上田村麻呂の東北遠征の時期を注意すれば比較的易しい。 |
p.67 14行~17行 | 743(天平15)年には,紫香楽に盧舎那仏をつくる大仏造立の詔を発した。大仏はその後,東大寺の本尊として鋳造され,孝謙天皇の752(天平勝宝4)年に開眼供養の儀式が盛大におこなわれた。 |
p.71 18行~20行 | 絵画では,薬師寺の吉祥天像,東大寺正倉院の鳥毛立女屏風,建築では,東大寺法華堂・唐招提寺金堂や,平城宮の建物を移築した唐招提寺講堂などがある。 |
p.64 3行~5行 | 薬師寺・大安寺(もと大官大寺)・元興寺(もと飛鳥寺)など,藤原京や飛鳥地方にあったおもな寺院は,平城京に移された。 |
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文化史(天平文化)の問題。東大寺の盧舎那仏造立に関する細かい知識も必要。東大寺大仏殿は江戸元禄期。 |
p.111 8行~11行 | 執権時頼は,・・・翌1247(宝治元)年,鎌倉における最大の対抗勢力であった三浦泰村一族を宝治合戦で一掃して,北条氏の覇権をいっそう確実なものにした。 |
p.125 1行~4行 | ・285(弘安8)年に有力御家人安達泰盛の反乱がおき,北条氏の専制に不満をもつ御家人たちが多数これに加わったが,敗北に終わり,御内人を代表する内管領平頼綱の勢力が強まった(霜月騒動)。 |
p.108 7行~8行 | 北条義時は,1213(建保元)年に和田義盛を倒して侍所別当の地位をうばい,ここに北条氏は民政・軍事にわたる幕府内の要職を独占。 |
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北条氏が御家人最大のライバル三浦氏を倒した宝治合戦と北条得宗家の専制体制を確立する霜月騒動は基本的な重要事項。 |
p.109 14行~18行 | 義時のあとをついで執権となった泰時は,・・・新たに時房を連署に任命して執権の補佐役とした。また政務に練達した武士を選んで評定衆とし,執権・連署と評定衆の合議によって幕府の政策が決定される態勢をととのえた。 |
p.111 8行~9行 | 後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を将軍にむかえて鎌倉を権威づけ(皇族将軍),また弘長の関東新制を発して厳格な政治をおこなった。 |
p.108 17行~18行 | 1246(寛元4)年,前将軍九条頼経を陰謀の疑いで京都に送還する。 |
p.111 11行~14行 | 裁判制度の整備につとめた時頼は,1249(建長元)年に御家人の訴訟を専門に扱う引付を設置し,評定衆から選ばれた頭人のもとに引付衆を分属させて,裁判を迅速におこなうこととし,御家人層の要望にこたえた。 |
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北条時頼の政治に関する基本的な問題。北条執権体制における政務機関は確認。源氏将軍の後の最初の摂家将軍と皇族将軍の名前と出自も注目。 |
p.142 図版 | 『真如堂縁起絵巻』 略奪行為をする足軽の図 |
p.160 図版 | 『長篠合戦図屏風』 長篠合戦の図 |
p.134 図版 | 『倭寇図巻』 倭寇の図 |
p.8 図版 | 『一遍上人絵伝』 福岡の市の図 |
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図版はどれも有名な場面。問題文との関連は薄く、図版そのものの知識が問われる問題。 |
p.143 史料 | 『大乗院寺社雑事記』より山城の国一揆の史料文 |
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頻出史料であり、史料内の空欄補充問題も基本的事項。 |
p.143 7行目 | 幕府のひざもとの山城でも,1485(文明17)年に・・・8年間にわたって国一揆の自治的な組織をつくってこの地を支配した(山城の国一揆)。 |
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山城の国一揆の内容を問う問題。基本的な知識を問う問題。 |
p.157 15行~16行 | 1549(天文18)年,イエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルが鹿児島に渡来した。彼は京都にのぼり,天皇や将軍から全国布教の許可をえようとしたが,争乱のためはたせなかった。 |
p.151 3行~5行 | 日蓮宗は室町時代に京都に進出した。やがて日親がでると他宗と激しい宗論をたたかわせながら,京都を中心に西日本各地にも勢力をのばした。 |
p.149 10行~12行 | 南北朝時代から公武を問わず,また庶民のあいだでも連歌がさかんとなった。二条良基の『菟玖波集』は勅撰に準ぜられ,連歌の規則書『応安新式』ができた。 |
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キリスト教の伝来は16世紀、日親の京都進出は15世紀でその後急速に京都町衆に日蓮宗は支持される。16世紀になると一向一揆と対立が激化する(天文法華の乱)。『応安新式』は南北長期の文化。 |
p.179 12行~15行 | 日本人のなかには東南アジアに移住する者がおり,・・・各地に日本町ができた。移住した日本人のなかには,シャム王朝に重用された山田長政のように活躍した者もいた。 |
p.178 12行~14行 | イスパニアにはその支配下にあったノビスパン(メキシコ)との通商を求めて,1610(慶長15)年に京都の商人田中勝介を同地に派遣した。 |
p.181 注(1) | 1614(慶長19)年には,もとキリシタン大名であった高山右近らをマニラに追放し,1622(元和8)年には外国人宣教師ら55名を長崎で処刑した(元和の大殉教)。(p.158注(2),p.165注(1)にも記述あり) |
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江戸時代イコール鎖国政策となりがちだが、江戸初期の積極外交(朱印船貿易)と日本人の海外進出に関しては重要な項目。 |
p.227 注(1) | 白石は,1708(宝永5)年に大隅国に上陸して捕らえられたイタリア人宣教師シドッチを尋問して『采覧異言』『西洋紀聞』を書き,ヨーロッパなどの地理・歴史を紹介した。 |
p.215 12行~14行 | 1808(文化5)年には,イギリス軍艦フェートン号がオランダ商船を捕獲するため長崎港に侵入するという事件がおこった(フェートン号事件)。 |
p.178 4行~6行 | 1600年,オランダ船リーフデ号が豊後の臼杵湾に漂着し,家康がその乗組員オランダ人ヤン=ヨーステン,イギリス人ウィリアム=アダムズ(三浦按針)を外交顧問としたことから,両国との交易がはじまった。 |
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比較的簡単な年代整序問題。リーフデ号漂着とフェートン号の長崎侵入は年代も含めて基本的事項。新井白石の著作『西洋紀聞』とシドッチを関連づけられているか。 |
p.181 3行~5行 | 農産物による収入が期待できなかった松前藩では,もっぱらアイヌとの交易によって収入を得,上級家臣への知行給付も交易権の分与という形をとった。 |
p.181 6行~8行 | 松前藩はアイヌに不利な取引をおこなったため,1669(寛文9)年,大首長のシャクシャインにひきいられたアイヌが蜂起したが,鎮圧された。 |
p.214 7行~8行 | 幕府でも,老中の田沼意次が工藤平助の献策を受け,ロシアとの交易や蝦夷地開発を計画して,最上徳内らを蝦夷地調査に派遣した。 |
p.214 9行~12行 | 1792(寛政4)年にロシア使節ラックスマンが根室に来航し,漂流民大黒屋光太夫らを送還するとともに通商を求めたが,幕府は鎖国を祖法として拒否した。 |
p.214 20行~ p.215 1行 | 1804(文化元)年,ロシア使節レザノフが長崎に入港して通商を求めたが,幕府はこれも拒否した。 |
p.215 注(2) | ロシアは翌年,報復措置として北前船の船主高田屋嘉兵衛をとらえたが,結局両者は交換され,事件は決着をみた。 |
p.228 4行~7行 | 伊能忠敬は幕府の命により全国の沿岸を測量して『大日本沿海輿地全図』を作成した。 |
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ロシアの日本進出と蝦夷地探検の基本的な問題。ラックスマンは大黒屋光太夫をともない根室にレザノフは長崎に来航。 |
p.238 注(1) | 福岡藩の平野国臣らが但馬生野の代官所を攻撃した生野の変(同年10月) |
p.219 18行~19行 | 越後柏崎では国学者生田万が桑名藩の陣屋をおそった(生田万の乱)。 |
p.188 4行~6行 | 1651(慶安4)年,家光のあとをついだ家綱が幼少であったことに乗じて,軍学者の由井正雪らが幕府の転覆をはかった(由井正雪の乱・慶安事件)。 |
p.181 6行~8行 | 松前藩はアイヌに不利な取引をおこなったため,1669(寛文9)年,大首長のシャクシャインにひきいられたアイヌが蜂起したが,鎮圧された。 |
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尊王攘夷運動と尊王攘夷派の挙兵事件を理解していれば問題ない。開国派が代官所を襲撃する事件は考えられない。 |
p.174 史料 | 『禁中並公家諸法度』(『徳川禁令考』、原文は和様漢文) 一、紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、……甚だ然るべからず。…… |
p.195 13行~14行 | 麻織物としては,奈良晒・近江晒・近江蚊帳・越後縮などがあった。 |
p.193 14行~17行 | 麻の原料である青苧は越後・出羽の名産で,染料としては阿波の藍,出羽の紅花などがあった。近江・摂津・河内の菜種,山城宇治や駿河の茶,会津の漆,薩摩・讃岐の砂糖が知られ,たばこも薩摩など各地に名産がうまれた。 |
p.205 5行~7行 | 染色では,扇の意匠で名声を博した京都の宮崎友禅が,友禅染の技法を創始したといわれている。 |
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近世の産業及び特産品については教科書中(p.196の表)などを参考に確認が必要。現在の特産品ともなっているものが多い。 |
p.247 21行~ p.248 3行 | 政府は,官営模範工場を設立し,先進技術を導入することで欧米に追いつこうとした。輸出増大のため製糸業の機械化をめざした富岡製糸場(群馬県),毛織物振興のための千住製絨所や,品川硝子製造所,深川セメント製造所などがその代表である。 |
p.255 表 | 「おもな来日外国人と業績」 コンドル 1877 (英)洋風建築指導 クラーク 1876 (米)教育家,札幌農学校創設 |
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最大の輸出品である製糸業の機械化をめざし政府が富岡の製糸場(群馬)を設立したことは基本的事項。主な来日外国人とその業績は整理・確認。 |
p.219 24行~25行 | 蘭学者の高野長英と渡辺崋山はそれぞれ『戊戌夢物語』・『慎機論』を書いて幕府の異国船打払政策を批判した。 |
p.248 8行~10行 | 北海道開拓では,1869年に設置された開拓使が官営工場の設立や炭鉱開発・鉄道建設をおこなうとともに,アメリカ式大農場の移植をはかり,札幌農学校を開設した。また開拓と防衛を兼ねる屯田兵もおかれた。 |
p.221 22行~23行 | これらの諸藩では,軍制改革にも取り組み,佐賀藩では反射炉を建設して大砲鋳造をおこなった。 |
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渡辺崋山は高野長英とともに幕府の国防策を批判し処分(蛮社の獄)された。屯田兵の制度・徴兵令は明治時代の制度。 |
p.248 14行~16行 | 電信は,1869年に新橋-横浜間で実用化され,1875年には北海道から長崎まで開通した。また1871年には飛脚にかわって官営の郵便事業が前島密の建議によりはじまった。 |
p.283 4行~6行 | 1883(明治16)年に創立された大阪紡績会社が,最新のイギリス製機械を導入して1万錘の大規模操業をおこない成功すると,以後,機械紡績会社の設立があいつぎ,ガラ紡は衰退した。 |
p.248 17行~18行 | こうした殖産興業政策の中枢となったのは,最初は工部省で,1873年以降は内務省であった。 |
p.248 11行~13行 | 交通・通信機関については,1872年に東京-横浜間,1874年には大阪-神戸間に官営鉄道が敷設され,その後,主要都市間に敷かれるようになった。 |
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ガラ紡は1870年代末に発明され普及、大阪紡績会社は1873年に創設され最新のイギリス製機械を導入。鉄道は最初は官営事業で整備され、1880年代に入ると民間鉄道設立ブームが起こることに注意。Y・Zの正誤は判断に迷うが。 |
p.319 20行~21行 | 第一次大戦中ころから産業と科学の結合の必要が痛感され理化学研究所(理研)など多くの研究機関がうまれた。 |
p.319 注(2) | 東京帝国大学付属の航空研究所・地震研究所,東北帝国大学付属の鉄鋼研究所(のち金属材料研究所)などがつくられた。 |
p.319 | 写真 理化学研究所 |
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輸入に頼っていた機械・化学製品が第一次世界大戦中より不足し国産化へと進む。1917年には半官半民の研究所である理化学研究所が創設。 |
p.319 17行~19行 | 自然科学の分野でも,新たな発明・発見があいつぎ,本多光太郎がKS磁石鋼を発明し,野口英世が伝染病研究に貢献し, 八木秀次が八木アンテナを発明した。また,高木貞治がわが国の数学研究の水準を大幅に引き上げた。 |
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近代における自然科学分野で活躍した日本人とその業績も確認する必要。本多光太郎の業績は当時最強の特殊鋼であるKS磁石鋼の発明。 |
p.303 4行~5行 | 1925(大正14)年に放送を開始したラジオが普及した。 |
p.300 13行~16行 | 工業の発展にともない都市化が進展すると,農業も発展した。・・・大豆粕肥料や化学肥料の使用などの農業技術の進歩,さらには商業的農業の発展にともなう農民の生産意欲の高まりが,その原動力となった。 |
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ガス灯は文明開化の象徴。この設問の時期は水力発電の増加により電化が進む時期であり、ガスは風呂やストーブ・魚焼機・冷蔵庫などで使用された。 |
p.361 注(1) | 1953年にテレビ放送が開始され,70年代にはほとんどの家庭にカラーテレビが普及した。 |
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テレビ放送が1953年に始まり2003年は開始50年の年であった。原子力委員会発足は1956年、日本最初の高速自動車道である名神高速道路の開通は1964年。 |
p.352 6行~7行 | 1956年10月,鳩山内閣は懸案の日ソ共同宣言に調印し,日ソ国交回復が実現した。これにともなって同年12月,日本は国際連合への加盟を承認された。 |
p.363 1行~4行 | 世界的不況の打開のため,1975年パリで先進国首脳会議(サミット)がひらかれ,石油消費削減など先進国の協調がはかられ,以後毎年サミットがひらかれることになった。 |
p.356 8行~11行 | 政府は,1960年に貿易為替自由化計画大綱を発表し,1964年には国際通貨基金(IMF)8条国に移行して国際収支上の理由で為替管理ができない国となり,同年,資本の自由化を義務づけられる経済協力開発機構(OECD)に加盟した。 |
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日ソ共同宣言は1956年(鳩山一郎内閣)、第1回先進国首脳会議(サミット)は1975年にパリで開催(三木武夫内閣)、国際通貨基金(IMF)8条国に移行し経済協力開発機構(OECD)に加盟は1964年(佐藤栄作内閣) |
p.300 8行~9行 | 貿易の拡大にともなって造船業や海運業なども発展し,都会には「成金」が輩出し,第二次・第三次産業従事者が急増した。 |
p.319 14行~16行 | 『貧乏物語』で反響をよんだ河上肇は,社会政策学者福田徳三との論争を通じて,マルクス主義経済学の確立へすすんだ。 |
p.305 3行~4行 | 1922年には杉山元治郎や賀川豊彦らによって,小作人組合の全国組織日本農民組合が結成された。 |
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成金は基本的な用語。河上肇は京都大学で経済学を講じるかたわら『大阪朝日新聞』に『貧乏物語』を連載。賀川豊彦はキリスト教社会運動家で日本農民組合を創立。 |
p.305 15行~ p.306 6行 | 歴史学の分野では,野呂栄太郎を中心に『日本資本主義発達史講座』が編まれ,その執筆にたずさわった人々(講座派)と,雑誌『労農』によった猪俣津南雄ら(労農派)との間に激しい日本資本主義論争が展開された。 |
p.324 16行~18行 | 陸軍省は,1934年に『国防の本義と其強化の提唱』を発表し,国防の絶対性を唱え,政治・思想・経済などすべてが国防に奉仕しなければならないと主張した。 |
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『日本改造法案大綱』(1919)は北一輝の著作。『暗夜行路』は志賀直哉の著作。 |
p.356 1行~2行 | 1960(昭和35)年7月,岸内閣にかわった池田勇人内閣は,政治的激動のあとを受けて「寛容と忍耐」を唱え。 |
p.358 17行~19行 | 佐藤首相は,1969年のニクソンとの会談で施政権返還を約束させ,1971(昭和46)年,沖縄返還協定が調印された。 |
p.367 1行~4行 | 1987年11月,中曽根内閣にかわって成立した竹下登内閣は,翌年に発覚したリクルート事件と消費税導入のため国民の支持を失い,89年6月1年半で退陣した。 |
p.362 9行~11行 | 1973年10月,第4次中東戦争が勃発し,アラブ産油国は原油価格を大幅に引き上げ,石油の8割を中東地域に依存していた日本経済は大きな打撃を受けた(石油危機)。 |
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池田勇人内閣の時代の歴史的な事項を確認。田中角栄内閣時代に中東戦争、中でも第4次中東戦争が起こり日本にオイルショック(石油危機)をもたらした。 |
p.363 16行~17行 | 1974年12月,「クリーンな政治」を標榜する三木武夫内閣が成立し,経済政策を安定成長政策へ転換した。 |
p.291 7行~9行 | 1880年代以降になると,『国民之友』や『日本人』などの政論雑誌が,続いて『太陽』・『中央公論』のような総合雑誌が発行されるようになった。 |
p.319 2行~6行 | 石橋湛山らの『東洋経済新報』が,二十一か条要求やシベリア出兵に反対し,反帝国主義的主張を貫いたことも異彩を放った。 |
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石橋湛山は『東洋経済新報』を拠点に大正期には普通選挙実現を要求、二十一か条要求やシベリア出兵に反対・植民地支配を批判し、昭和期も軍国主義・帝国主義に反対する論陣を張り、戦後自由民主党総裁として1956年組閣したが病気で短命内閣となった。 |