2008年度 センター試験【日本史A】解説
第1問 明治初期の錦絵からみる交通や通信の発達と海外との交流に関する問題
問1 電信と石炭 正答は3
明治初めの錦絵などを展示
→ 教科書p.64のビジュアルページ「近代への転換」
この絵(図1)
→ 教科書p.20の4行目「下の錦絵は高輪(東京都港区)あたりを通過する汽車のようすを描いたものです」(東京名勝之内高輪蒸気車鉄道全図)
当時の蒸気船の絵(図2)
→ 教科書のp.58の図「ペリー艦隊の「黒船」」
point
電話の東京〜横浜間の開通は1890年。電信について、モールスが電信を発明したのは1837年、ペリーが幕府に献上したのが1854年、東京〜横浜間の開通は1869年。
問2 明治初期の交通と通信 正答は1
高橋是清が日本郵政会社を設立
→ 教科書のp.94の「歴史のまど」8行目
「土佐藩の岩崎弥太郎は、廃藩後に藩の事業を引きつぎ、海運業の三菱商会をおこした。・・・三菱汽船会社は、明治14年の政変で大隈が失脚したのち、政府が創立した共同運輸会社とはげしい競争の結果、共同運輸と合併して日本郵船となった。」
新橋・横浜間にはじめて鉄道が開業した
→ 教科書のp.69の21行目
「1872年には新橋−横浜間に鉄道を開通させ」
人力車や乗合馬車が用いられた
→ 教科書のp.64のビジュアルページ「近代への転換」
「文明開化−銀座の情景」4行目「街路樹・ガス灯にはさまれた舗装道路を走るのは千里軒の乗合馬車。人力車(1870年に発明)も走る。」
飛脚に代わって官営の郵便制度が整えられた
→ 教科書のp.69の20行目「前島密の建議によって郵便制度を発足させ」
point
高橋是清(1854〜1936)は日本銀行総裁を勤め、その後政治家として政友会に属し第2次護憲運動で活躍し、首相(1921〜1922)・大蔵大臣を歴任したが、2・26事件で暗殺。日本郵船会社は、1885年に三菱会社の岩ア弥之助が三井が母体の共同運輸を合併し創設。
問3 海上交通に関する問題 正答は2
日本の朱印船が東南アジアへ渡航して、さかんに貿易が行われた
→ 教科書のp.50の16行目
「大名や豪商に朱印状を与えて朱印船貿易を奨励した」
point
鑑真(688〜763)は754年6度目の渡航で来日。朱印船は徳川将軍の許可状(朱印状)を携えた貿易船で1635年に全面禁止。咸臨丸は1860年に日米修好通商条約批准の遣米使節の随行艦として太平洋横断。艦長は勝海舟
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第2問 近世から近代にかけての政治・外交と貿易に関する問題
問1 オランダ国王の国書とアヘン戦争 正答は3
イギリス商人が中国役人と広東で争いを起こし,ついに大きな戦争
→ 教科書のp.59の2行目
「このころ中国では,アヘン戦争後,列強の侵略がはげしくなり,中国農民の反乱である太平天国の乱に乗じて,イギリス・フランスが第2次アヘン戦争(アロー戦争)をおこしていた。」
point
オランダ国王(ウィレムU世)の開国勧告の国書が幕府へもたらされた年(1844)とその内容がアヘン戦争(1840〜1842)と当時の国際情勢に基づいていることは把握しておくべきこと。なお、アロー戦争は1856〜60年、太平天国の乱は1851〜64年、シパーヒ(セポイ)の反乱は1857〜1859年。
問2 鎖国政策と日露和親条約 正答は4
ロシアとの間に条約を結び、国境を定めていた
→ 教科書のp.72の6行目
「日露和親条約は択捉島以西の諸島を日本領としたが,樺太(サハリン)の所属を定めなかったので,しばしば両国の紛争がおこった。政府は,北方の緊張を緩和するためにロシアに譲歩し,1875年に全千島列島を日本領,樺太をロシア領とする樺太千島交換条約をむすんだ。」
point
ゴローニン事件(1811)を機にロシアとの関係は国境問題を含め改善されたが、条約として正式に国境を定めたのは日露和親条約(1855)。
問3 19世紀の対外関係 正答は4
長州藩の砲台を,四国連合艦隊が攻撃した。
→ 教科書のp.61の7行目
「イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊は,外国船砲撃に対する報復として下関を攻撃した。」
異国船打払令(無二念打払令)をゆるめて,薪水給与令が出された
→ 教科書のp.55の15行目
「1825(文政8)年には,異国船打払令(無二念打払令)を出して,中国・オランダ船以外の日本寄港を武力で排除しようとした。」
ロシア使節レザノフが,通商を求めて長崎に来航した。
→ 教科書のp.55の4行目
「1804(文化元)年,ラクスマンにわたした入港許可証を持ったレザノフが長崎に来航したが,」
point
4カ国連合艦隊下関砲撃事件(1864)、アヘン戦争の結果を受けて出された天保の薪水給与令(1842)、ロシア使節レザノフの長崎来港(1804)。「列強の接近から開国」及び「和親条約から修好通商条約」の歴史的な流れは、近代日本外交史全体の動きの中で理解する必要。
幕末の貿易や経済の様子
→ 教科書のp.59の表「貿易品の品目別構成と横浜港における相手国」
問4 横浜港からの輸出入額 正答は2
point
生糸は1864年に輸出量及び輸出額が減少している。輸出額に関しては同年は7割を下回っている。
問5 横浜・長崎・箱館港の輸出入額 正答は3
point
長崎港は一貫して輸入超過の状態となっている。輸出入額を1865年の段階で比較すると横浜港が輸出入とも8割以上を越え国内最大の貿易港であることがわかる。
問6 幕末の貿易や経済 正答は4
生糸などの流通統制を目的とし,幕府は五品江戸廻送令を出した。
→ 教科書のp.59の21行目
「輸出の増大は国内の物資の不足を招き,物価を騰貴させた。幕府は五品江戸廻送令を出し,江戸の特権商人を通じて貿易を統制しようとしたが,成功しなかった。」
point
五品江戸廻送令(1860)は生糸・雑穀・水油・・呉服を産地からいったん江戸に送ることを命じた江戸の問屋保護と経済の統制のための法令。改税約書(1866)は安政の五カ国条約の輸入関税約20%を一律5%に引き下げた条約。
問7 西郷隆盛と大久保利通 正答は2
条約改正をめざした遣外使節団
→ 教科書のp.66の13行目とp.70のピックアップ「岩倉使節団が見てきたもの」の2行目
「特命全権大使の右大臣岩倉具視以下48人の岩倉遣外使節団を欧米に派遣した。」
「1871(明治4)年11月,右大臣岩倉具視を大使とし,参議木戸孝允・大蔵卿大久保利通・工部大輔伊藤博文らを副使として,政府高官多数をふくむ48名の大使節団が横浜から旅だった」
point
西郷隆盛は島津斉彬に、大久保利通は島津久光に登用され共に討幕運動の中心人物となる。西郷は維新政府で征韓論を唱え、大久保と対立し、政府を辞し西南戦争(1877)で敗れ自刃。
問8 岩倉遣外使節団 正答は4
使節団は,不平等条約の改正に成功した。
→ 教科書のp.70のピックアップ7行目
「使節団の当初の目的の一つは,条約改正の予備交渉であったが,最初の訪問国アメリカで交渉を断念した。」
使節団は,征韓論を主張して,留守政府と対立した。
→ 教科書のp.72「歴史のまど」の27行目
「日本国内では,不平士族らが征韓論をとなえはじめた。岩倉具視らの外遊中に,西郷隆盛らの留守政府は征韓論を決定したが,帰国した岩倉・大久保利通・木戸孝允らが内治優先を主張してこれに反対したため,征韓派の西郷らは辞職した」
point
1971年、岩倉具視を大使として大久保利通・伊藤博文・伊藤博文らが欧米に派遣された。目的は条約改正の予備交渉に失敗し、欧米の制度・文物を視察し73年帰国。大久保らは留守政府の征韓論と対立。
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第3問 近現代の社会・文化に関する問題
問1 新婦人協会と日本農民組合 正答は1
1920年に設立された新婦人協会は,平塚雷鳥や【ア】らを中心に,女性の政治的権利を求める運動を展開した。
→ 教科書のp.113の13行目
「1920年,平塚・市川房枝らは,新婦人協会を組織して,治安警察法第5条改正運動を展開した。」
杉山元治郎らを中心に,1922年に結成された【イ】は,日本最初の小作人組合の全国組織としてその後の小作争議を指導した。
→ 教科書のp.113の5行目
「農村では小作料の軽減や耕作権の確保を求める小作争議が激増し,1922年,杉山元治郎らが全国的農民組織である日本農民組合(日農)を結成した。」
point
新婦人協会平塚雷鳥市川房枝らが設立(1920)。治安警察法(1890)の5条「女子の政治結社・政治集会禁止」の撤廃運動を行なう。集会参加は認められ、1922年解散。市川はその後、婦人参政権獲得運動を組織。日本農民組合杉山元治郎加賀豊彦らにより設立。最初の全国組織の小作人組合。
問2 都市化の傾向 正答は2
point
人口規模別市町村人口及び産業別就業者数の各統計資料を慌てず落ち着いて読み取ること。教科書の統計表などもきちんと読んでおく習慣をつけたい。
問3 大正期の文化 正答は4
新橋−横浜間に日本ではじめての鉄道が開通した。
→ 教科書のp.69の21行目
「1872年には新橋−横浜間に鉄道を開通」
東京の銀座通りに日本ではじめてのガス灯が設置された。
→ 教科書のp.64のビジュアルページ「近代への転換」
「2年前に大火で焼失した銀座には、この年、文明開化の最先端をいく街並が出現した。・・・街路樹・ガス灯にはさまれた舗装道路を走るのは千里軒の乗合馬車。人力車(1870年に発明)も走る。」
point
明治期の文化との比較が必要。「サンデー毎日」と「週間朝日」が1922(大正11)年に創刊。「東京日々新聞」は1872年に発刊された東京で最初の日刊紙。
問4 選挙ポスターから歴史をよむ 正答は4
point
リード文の「候補者の氏名の左側にハングル(朝鮮文字)のルビがある」、「列島に居住する朝鮮人は、この点に限っては日本人と同等の権利を行使できた」から考える。
問5 普通選挙制度 正答は2
普通選挙制度
→ 教科書のp.121の14行目
「普通選挙法を成立させた。この法律は25歳以上の男子に選挙権を,30歳以上の男子に被選挙権を与えるものだった。」
1946年の衆議院議員総選挙で,はじめての女性代議士が誕生した。
→ 教科書のp.156の19行目
「女性の参政権が実現した。翌46年4月,戦後最初の総選挙がおこなわれ,39人の女性議員が誕生した。」
→ 教科書のp.151の8行目「ピックアップ 家族制度と女性」
「翌1946年4月,戦後はじめての衆議院議員選挙がおこなわれ,女性も選挙権を行使した。定数466人に対し立候補者は2782人に及んだ。そのうち女性の立候補者は79人をかぞえ,39人が当選した。」
1919年に政党内閣のもとで,男子普通選挙が実現した。
→ 教科書のp.120の20行目
「原内閣は1919年,与党の安定多数をねらって選挙法を改正し,選挙人資格を直接国税3円に引き下げ,小選挙区制に改めた。」
point
普通選挙法を成立させたのは加藤高明内閣(1925年)。1919年の原敬内閣では直接国税3円以上納入者の制限選挙。1946年の戦後初の総選挙で女性代議士39名が誕生した。
問6 1945年に起きた出来事 正答は1
米軍が沖縄に上陸して沖縄戦がはじまった。
→ 教科書のp.144の15行目「歴史のまど」
「日本の沖縄守備軍は9万6000の兵力だったため,一般県民を防衛隊に召集し,中学校などの男女生徒を鉄血勤皇隊や女子学徒隊などに編成した。」
広島・長崎に原爆が投下された。
→ 教科書のp.145の14行目
「これに対してアメリカは,8月6日,広島に原爆を投下し,ソ連は8日,日本に宣戦布告して9日に満州・朝鮮に侵入し,関東軍を壊滅させた。この日,長崎にも原爆が投下された。」
皇族の東久邇宮稔彦が内閣を組織した。
→ 教科書のp.149の16行目
「ポツダム宣言受諾後に成立した東久邇宮稔彦内閣は,一億総ざんげ,天皇制護持を唱えて,指導者の戦争責任を問うことなしに,従来の政治体制を継続させようとした。」
point
沖縄戦は米軍が4月に本島に上陸。広島は8月6日長崎は8月9日に原爆投下。東久邇宮稔彦皇族内閣は8月17日。終戦までの流れを確認。
問7 戦後の民主化 正答は3
民法が改正され,戸主の権限が強化された。
→ 教科書のp.157の21行目
「1947年には新民法が制定され,戸主権と家督相続制を柱とした家族制度が廃止され,男女同権,財産の均分相続が定められた。」
労働組合法が公布され,労働者の争議権が保障された。
→ 教科書のp.157の22行目
「労働基準法・労働組合法などが制定され,労働者の権利も保障された。」
日本国憲法が公布され,天皇が主権者と規定された。
→ 教科書のp.157の9行目
「国民主権の原則の明確化,生存権規定の追加などの修正がおこなわれて日本国憲法が可決成立し,11月3日に公布,翌年5月3日施行された。新憲法は,国民主権,戦争放棄,基本的人権の保障を三大原則と定め,国会が国権の最高機関とされた。天皇は統治権者としての地位を失ったが,「日本国民統合の象徴」としてのこされた。」
point
GHQが日本の民主化のため、労働組合の組織化を奨励し、1945年12月に「労働組合法」が制定。労働者の団結権・団体交渉権・争議権が保障。
問8 人間宣言 正答は2
point
人間宣言とよばれる昭和天皇の詔書をきちんと読むことができるか。証書は五箇条の誓文の想起が目的であったとされるが、一般的には天皇が現人神であることを否定したものと受けとめられている。
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第4問 明治前期の政治に関する問題
私擬憲法
→ 教科書のp.76の3行目「歴史のまど」
「大日本帝国憲法の発布以前につくられた憲法の私案を私擬憲法と呼んでいる。」
内閣制度を創設
→ 教科書のp.80の16行目
「伊藤博文は,憲法制定の準備に取りかかった。1884年には華族令を定めて,上院(貴族院)の設置にそなえた。翌年太政官制度を廃止して内閣制度を創設し,伊藤が初代の内閣総理大臣となった。」
大日本帝国憲法を発布
→ 教科書のp.81の2行目
「そして,天皇が定めた憲法(欽定憲法)として,1889年2月11日,紀元節の日を選んで天皇主権の大日本帝国憲法を発布した。」
問1 国会期成同盟と集会条例 正答は1
国会期成同盟
→ 教科書のp.75の23行目
「1880年3月,愛国社は,国会開設をめざす全国組織として,大阪で国会期成同盟を結成し」
集会条例
→ 教科書のp.75の26行目
「政府はこれらを受け入れようとせず,かえって集会条例を定めて取締りを強めた。」
保安条例
→ 教科書のp.79の23行目
「1887年夏からは,地租軽減,言論・集会の自由,外交の挽回(条約改正)を要求する三大事件建白運動が全国にひろがった。これに対し政府は,保安条例を定め,運動の中心人物を強制的に東京から追放した。」
愛国社
→ 教科書のp.74の16行目
「1875年2月,板垣らは,全国の結社の連絡組織として,大阪で愛国社を創立した。」
point
1880年に愛国社を母体とした国会期成同盟が国会開設の請願書を政府に提出。この運動の高揚に対する政府の弾圧法が集会条例
問2 私議憲法 正答は3
この人物は,革命権や抵抗権を規定した憲法草案を起草した。
→ 教科書のp.76の7行目
「土佐出身の植木枝盛が起草した「日本国国憲案」は全220か条からなり,自由・権利の保障について,34か条にわたって詳しく規定している。法のもとでの平等,思想・言論・集会・結社の自由などを定めており,また,政府が憲法に違反したときにはこれに従う義務はなく,政府の暴虐行為には実力で抵抗することができ(抵抗権),政府が憲法に反して国民の権利をふみにじったときには政府を倒して新政府を建設することができる(革命権)などとしている。」
この草案は,地域の青年たちの学習活動から生まれた。
→ 教科書のp.76の14行目
「東京都五日市町(現あきる野市)で1968年に発見された「日本帝国憲法」(五日市憲法草案)は,山村の住民たちの討論をもとに,小学校教員千葉卓三郎がまとめあげたもので,全204か条からなる。」
point
政府に対する革命権抵抗権を規定した植木枝盛「日本国国憲按」および1968年東京都の五日市町(現あきる野市)で発見された、地域の青年たちによる討議をもとに千葉卓三郎がまとめた「大日本帝国憲法(五日市憲法草案)」は私擬憲法の中でも特に重要。
問3 内閣制度の創設 正答は4
伊藤博文が初代内閣総理大臣となった。
→ 教科書のp.80の16行目
「伊藤博文は,憲法制定の準備に取りかかった。1884年には華族令を定めて,上院(貴族院)の設置にそなえた。翌年太政官制度を廃止して内閣制度を創設し,伊藤が初代の内閣総理大臣となった。」
point
内閣制度の創設は憲法制定に先立ち、太政官制度から国会開設にそなえて行政府の強化を意図したもので、太政官制を廃止して成立した(1885年)。
問4 大日本帝国憲法の制定 正答は2
point
伊藤博文はドイツのグナイストやオーストリアのシュタインらから君主権の強いドイツ流の憲法を学び、井上毅伊東巳代治金子堅太郎らに加え、政府顧問のロエスレルの援助も得ながら草案を作成。草案は1888年に枢密院で審議され,翌1889年2月11日に天皇の定める憲法(欽定憲法)として公布された。
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第5問 尾崎行雄と近代・現代の政治と外交に関する問題
尾崎行雄
→ 教科書のp.105の1行目
「第3次桂内閣に対して,「閥族打破・憲政擁護」の護憲運動を展開した。政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅がその先頭にたった。」
第一次世界大戦
→ 教科書のp.106の1行目
「20世紀初頭のヨーロッパでは,イギリス・ロシア・フランスによる3国協商と,ドイツ・オーストリア・イタリアによる3国同盟との対立が激化した。「ヨーロッパの火薬庫」といわれた対立の焦点バルカン半島のサラエボで,オーストリア皇太子が射殺された事件(サラエボ事件)をきっかけに,1914(大正3)年7月,第1次世界大戦がはじまった。」
アメリカ政府が【イ】の開催を提起すると,日本政府はこれに参加することを決定し,翌1922年には海軍軍縮条約が締結された。
→ 教科書のp.109の14行目
「1921年11月から開催されたワシントン会議では,太平洋の領土に関する各国の権利の尊重を約束した4か国条約のほか,主力艦の保有比率をアメリカ・イギリス5,日本3,フランス・イタリア1.67に制限する海軍軍縮条約」
1930年には2度目の海軍軍縮も実施
→ 教科書のp.124の7行目
「政府は,同年のロンドン海軍軍縮会議で,海軍軍令部の主張をおさえて,補助艦の比率を米10,英10,日6.975とする条約に調印した。」
問1 大正政変とワシントン会議 正答は2
大正政変
→ 教科書のp.105の6行目
「つめかけた民衆の波を見て,桂首相は総辞職を決意した。民衆運動の力が内閣を倒した最初であり,桂内閣は53日間の短命内閣となった(大正政変)。」
パリ講和会議
→ 教科書のp.108の1行目
「第1次世界大戦は,1918(大正7)年11月,ドイツが連合国に降伏して終結した。翌年,パリで開かれた講和会議に,日本はイギリス・アメリカ・フランス・イタリアとともに5大国の一つとして参加した。」
ワシントン会議
→ 教科書のp.109の14行目
「1921年11月から開催されたワシントン会議では,太平洋の領土に関する各国の権利の尊重を約束した4か国条約のほか,主力艦の保有比率をアメリカ・イギリス5,日本3,フランス・イタリア1.67に制限する海軍軍縮条約」
明治十四年の政変
→ 教科書のp.77の10行目
「岩倉・伊藤らを中心とする勢力は,国会開設の勅諭によって1890年に国会を開くことを約束するとともに,官有物の払い下げを中止し,大隈を政府から追放した(明治14年の政変)。」
point
大正政変での尾崎行雄の行動の中で桂太郎内閣弾劾議会演説は重要な出来事。アメリカ政府が開催した軍縮会議とあることからワシントン会議(1921年〜1922年)を導き出す。パリ講和会議は第一次世界大戦の講和会議(1919年)でヴェルサイユ条約が調印。
問2 第一次世界大戦前後の日本外交 正答は4
シベリア出兵を行った
→ 教科書のp.107の27行目
「欧米列強がロシア革命への干渉戦争を開始すると,日本政府は,満州北部やシベリアへの勢力拡大をねらい,1918年8月,シベリアに出兵した。」
中国政府に二十一カ条の要求を行った。
→ 教科書のp.107の11行目
「1915年,日本は,中国政府に21か条要求をつきつけた。その内容は,山東省のドイツ権益の継承,旅順・大連の租借地と南満州鉄道の権益の99年間の延長,中国政府への日本人顧問の採用などで,単なる経済的要求にとどまらず,中国の主権を著しく侵害するものであった。」
日英同盟を理由にドイツに宣戦布告した。
→ 教科書のp.107の2行目
「日本は日英同盟を根拠に1914年8月23日,ドイツに宣戦布告して参戦した。」
point
1914年の7月サラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発。日本は大正新時代の天佑として、日英同盟を理由に参戦(1914年)し、中国での権益確保のため対中国二十一か条の要求(1915年)。1917年11月レーニンのもとロシア革命により初の社会主義国が成立すると、欧米列強諸国と共に革命干渉のためシベリア出兵(1918〜22年)を実行。
問3 海軍軍縮条約 正答は3
統帥権干犯問題
→ 教科書のp.124の9行目
「軍部・民間右翼・政友会は,政府による兵力量の決定は天皇の統帥権をおかすものだと攻撃し,枢密院・貴族院の一部もこれに同調した(統帥権干犯問題)。」
point
1930年のロンドン海軍軍縮時の内閣は浜口雄幸内閣で、全権は若槻礼次郎。条約締結に関して統帥権干犯問題が起こった。
問4 1930年代の軍部の行動 正答は2
関東軍が,柳条湖で満鉄の線路を爆破した。
→ 教科書のp.125の8行目
「1931年9月18日夜,関東軍は,奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で満鉄線路を自ら爆破し,これを中国軍の行為だとして張学良軍を攻撃し,翌日には奉天城を占領した(柳条湖事件)。第2次若槻礼次郎内閣は,不拡大方針を唱えたが,関東軍は計画的に戦線を拡大し,半年後には満州の主要部分を占領した(満州事変)」
陸軍の青年将校らが,部隊を率いて政府要人や重要施設を襲撃した。
→ 教科書のp.128の5行目
「さらに同年5月15日,海軍青年将校らが首相官邸などを襲撃して,犬養毅首相を殺害した(5・15事件)。」
海軍の青年将校らが,犬養毅首相を射殺した。
→ 教科書のp.128の8行目
「天皇親政を唱える皇道派の青年将校はそれに危機感を強め,1936年2月26日,約1400名の兵力でクーデタをおこした。反乱軍は,蔵相高橋是清,内大臣斎藤実らを殺害し,首相(岡田啓介)官邸や議事堂などを占拠した(2・26事件)。」
point
1930年代の軍部の行動は満州事変のきっかけとなる柳条湖事件(1931年)、犬養毅首相が暗殺された五・一五事件(1932年)、陸軍の青年将校らが政府の要人や重要施設を襲撃した二・二六事件(1936年)の順。
問5 軍部の行動に対する史料の読み取り 正答は3
point
尾崎行雄は当時の軍部が政治に干渉したり,横暴な振る舞いをする傾向をみて危険な存在とみなし,その行動を規律の頽廃を示すものとみていた。また官民こぞって軍部を支持している状況を嘆いている。
問6 サイパン島の陥落と朝鮮戦争 正答は4
このような選挙を実施した東条内閣も,1944年の【ウ】をきっかけに総辞職し,
→ 教科書のp.144の5行目
「1944年7月,絶対国防圏の要衝マリアナ諸島のサイパン島陥落を機に東条内閣は総辞職し,小磯国昭内閣が成立した。」
東西冷戦が激化し,1950年に【エ】が勃発するという国際政治の現実のなかで,大きく揺らぐこととなる。
→ 教科書のp.160の17行目
「1950年6月,北朝鮮軍は南へ急進撃し,朝鮮戦争がはじまった。」
ヴェトナム戦争
→ 教科書のp.168の1行目
「ヴェトナムでは,インドシナ休戦協定にもとづく統一選挙をこばむ南ヴェトナム(ヴェトナム共和国)政府と,1960(昭和35)年に成立した南ヴェトナム解放民族戦線とのあいだで内戦がはじまった。」
朝鮮戦争
→ 教科書のp.160の17行目
「1950年6月,北朝鮮軍は南へ急進撃し,朝鮮戦争がはじまった。」
point
サイパン島をはじめとするマリアナ諸島の陥落(1944年)により東条英機内閣は総辞職に追い込まれる。ミッドウエーの海戦(1942年)は日本海軍の機動部隊が大敗した戦闘で、以降アメリカが戦局の主導権を握ることとなる。
問7 国際連盟と国際連合 正答は3
国際連盟はアメリカ大統領の提唱で設立された。
→ 教科書のp.108の8行目
「アメリカ大統領ウィルソンが提唱した平和のための14か条の原則にある民族自決主義にもとづいて,かつてのロシア帝国,オーストリア・ハンガリー帝国,ドイツ帝国が領有していた地域に多くの独立国が誕生した。平和維持の国際的機構として国際連盟も創設された。」
日本は国際連盟の常任理事国であった。
→ 教科書のp.108の注
「(1) 日本は常任理事国の地位をえたが,アメリカは加盟せず,列強間の協調は実現しなかった。」
日本の敗戦後,国際連合の設立準備がはじまった。
→ 教科書のp.154の24行目「ピックアップ 平和を創る動きと日本国憲法第9条」
「そして1945(昭和20)年4月から6月まで開かれたサンフランシスコ会議で,50か国の代表の参加のもと国際連合憲章が採択され,10月24日に国際連合が活動を開始した。」
日本の国際連合加盟は,日ソ国交回復後に実現した。
→ 教科書のp.163の22行目
「鳩山内閣は1956年10月,日ソ共同宣言に調印し,同年12月,日本は国際連合に加盟した。」
point
国際連盟はアメリカ大統領ウィルソンの提唱で第一次世界大戦後に設立。日本は常任理事国。国際連合は1945年6月、国際連合憲章を50ヵ国が参加したサンフランシスコ会議で採択し、日本の敗戦後間もない10月に正式に発足した。
問8 高度経済成長時代の出来事 正答は4
自衛隊が発足し,防衛庁が設置された。
→ 教科書のp.163の17行目
「自衛隊を発足させて防衛力強化にのりだした。」
為替相場が変動相場制に移行した。
→ 教科書のp.172の11行目
「1971年,ドルと金の交換停止などドル防衛策を発表した。この結果,為替相場は同年12月から1ドル=308円となり,73年2月からは変動相場制に移行した。」
東海道新幹線が開通した。
→ 教科書のp.166の4行目「歴史のまど」
「オリンピックにあわせて,政府は東海道新幹線を開通させ,東京の道路網を整備し,高速道路の建設もはじめた。」
point
高度経済成長期の1960年代に起こった出来事としては, 公明党の結成(1964)と東海道新幹線開通(1964)が挙げられる。主要政党の結成時期は確認しておく。変動為替相場制への移行は1873年から。
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第6問 近現代の文化と政治に関する問題
問1 科学技術 正答は3
ラジオ放送
→ 教科書のp.119の11行目
「1925年にはラジオ放送がはじまり,人々は居ながらにして浪花節・講談・落語などの大衆娯楽を楽しむことができるようになった。いっぽうラジオの出現は,ラジオ体操のように全国の人々を同時に動かすことができる時代,情報や指示を瞬時に全国に伝えることができる時代の幕開けともなった。」
本多光太郎
→ 教科書のp.99の表「科学技術の進歩」
point
北里柴三郎は細菌学者でジフテリア血清療法を発明、ペスト菌を発見。伝染病研究所所長、北里研究所を設立。岸田劉生は洋画家でフューザン会を結成。「麗子像」が有名。八木秀次は電気工学者で超短波用の八木アンテナの発明者。本多光太郎は物理学者でKS磁石鋼を発明。
問2 昭和初期の文化 正答は1
トーキー(発声映画)の制作がはじまった。
→ 教科書のp.119の注3
「(3)無声だったため,弁士がセリフをしゃべり情景を説明した。1930年ころには発声映画となった。」
point
1931年に最初の本格的トーキー映画が公開される。榎本健一(エノケン)は1922年に浅草オペラの舞台に立ち、1929年に喜劇に転じ人気を得、演劇・映画で喜劇王と呼ばれるようになる。昭和期の喜劇俳優。
問3 マスメディア 正答は2
海外の戦況や本土空襲に関する警報が放送された。
→ 教科書のp.141の18行目
「1944年7月にサイパン島を占領したアメリカ軍は,11月以降マリアナ諸島からB29爆撃機による日本本土空襲を開始し,大都市・工業地帯を集中的に攻撃した。」
満州事変が起こると,多くの新聞は軍の行動を支持した。
→ 教科書のp.125の10行目
「第2次若槻礼次郎内閣は,不拡大方針を唱えたが,関東軍は計画的に戦線を拡大し,半年後には満州の主要部分を占領した(満州事変)。」
昭和天皇がラジオ放送によって戦争の終結を国民に告げた。
→ 教科書のp.145の17行目
「天皇制護持の確証がえられないとして敗戦の決断をのばしていた政府・軍部も,8月14日に無条件降伏し,15日正午から昭和天皇のラジオ放送(玉音放送)という異例の手段で敗戦を国民に知らせた。」
point
満州事変は1931年9月の柳条湖事件を契機に始まる。本土空襲は1942年4月が最初、マリアナに米軍基地が作られた44年秋から本格化。1945年8月15日正午にはラジオによって終戦の詔勅が国民に伝えられた(玉音放送)。
徴兵制度
→ 教科書のp.68の1行目
「徴兵令によって,これまで軍事とは無縁だった国民にも兵役が義務づけられた。男子は20歳になると徴兵検査を受け,3年間,軍隊に入らなければならなくなった。」
問4 日本の軍隊制度 正答は4
創設当初の徴兵制度は,戸主やその跡継ぎの兵役を免除していた。
→ 教科書のp.68の注1
「(1)最初の徴兵令では,一家の主人,跡継ぎ,官吏,代人料270円を納めたものなどは徴兵を免除された。次男以下のなかには,跡継ぎのいない家の養子になって兵役を逃れるものも多かった。」
軍人の徳目を説いた軍人勅諭が発布された。
→ 教科書のp.81の15行目
「1882年,天皇は,軍人に対して軍人勅諭を与え,軍事は大元帥である天皇に直属することを明らかにして,天皇への忠誠を求めた。」
大日本帝国憲法に臣民の兵役義務が規定された。
→ 教科書のp.81の8行目
「国民は天皇の臣下(臣民)であると位置づけられ,兵役・納税の義務を負ったが,権利については法律などによって制限された。」
陸海軍の統帥は内閣総理大臣の権限とされた。
→ 教科書のp.81の4行目
「天皇は,立法・行政・司法をはじめ,すべての権力を掌り,宣戦・講和・条約締結などの外交,陸海軍に対する指揮・命令,緊急勅令の発布を独自におこなうなど,大きな権限をもつと定められた。」
point
徴兵令(1873)発布では兵役免除規定があった。1889年の改正で免除規定は全廃。天皇の大権として陸空軍の統帥権を明治憲法では定めている。
問5 軍隊と学校 正答は2
中等学校以上の学校に配属将校を置いて,軍事教練が開始された。
→ 教科書のp.121の19行目
「宇垣一成陸相は,4個師団を廃止する軍縮を実現したが,他方では軍隊の装備を更新し,中学校以上の学校に現役将校を配属して軍事教練を導入し,軍の基盤強化につとめた。」
沖縄の男子中学生らが鉄血勤皇隊に組織された。
→ 教科書のp.144の15行目「歴史のまど」
「日本の沖縄守備軍は9万6000の兵力だったため,一般県民を防衛隊に召集し,中学校などの男女生徒を鉄血勤皇隊や女子学徒隊などに編成した。」
大学や高等専門学校の文科系学生の学徒出陣が開始された。
→ 教科書のp.141の8行目
「戦線の拡大によって出征兵士が増加したため国民兵役の年齢を拡大し,さらに大学生の徴兵猶予を停止し学徒出陣させた。」
point
1925年から宇垣軍縮で生じた余剰将校を中学校・師範学校に配備し軍事教練を担当させた。1943年に理工医系・教員養成系を除く大学・高等専門学生の徴兵猶予を停止し学徒出陣は始まる。1945年3月、沖縄中学校と師範学校男子生徒などで鉄血勤皇隊が組織される。また、女子学生はひめゆり隊/span>・白梅隊などの学徒看護隊に組織。
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