2004年度 センター試験【日本史B(追試)】解説
第1問 古代から現代までの民衆の生活や運動に関する問題
A 古代・中世の民衆の生活
問1「東歌と狂言」(正しい組合せ択一) 1 正解は(4)
P.70の11~13行目 「『万葉集』は奈良時代後期までの歌約4,500首を集めた歌集で、そのなかには東歌・防人歌など、民衆の歌も多数採録されている。」 および 教科書 P.66 「山上憶良「貧窮問答歌」の資料」
P.100の2~5行目 「12世紀はじめに片仮名まじりの和漢混淆体で書かれた『今昔物語集』は、インド・中国・日本の仏教説話を集大成したものであるが、とくにその世俗編では武士や民衆の生活がいきいきと描きだされている。」
P.146の8~9行目 「能の合間には滑稽なしぐさで狂言が上演され、 従者が主人をからかったりして庶民の笑いをさそった。」
P.149の17~19行目 「御伽草子も人々に愛好され、『一寸法師』『物ぐさ太郎』『文正草子』などの短編物語は、ながく庶民に親しまれた。」
P.224の2~4行目 「江戸では、 田沼時代から柄井川柳に代表される川柳や、 大田南畝(蜀山人)・石川雅望(宿屋飯盛)らで知られる狂歌がさかんになった。」
P.100の10~12の行目 「芸能では、貴族は前代以来の歌謡である催馬楽朗詠を楽しんだが、民間の娯楽である猿楽や、本来地方農村の労働歌舞であった田楽にも興味を示した。」
 『万葉集』で農民の気持ちを詠んだ作品とあることから東歌か防人歌が、 また能の合間に演じられる風刺性のある喜劇とあることから狂言が自然に浮かんでくる。
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問2「中世において武士や民衆に愛好された文化」(正文択一) 2 正解は(2)
P.224の7~9行目 「……その後人形浄瑠璃は歌舞伎におされて衰え、かわって唄い物系の浄瑠璃の各流派(常盤津節・清元節・新内節など)がさかんになった。」
P.170の1~3行目 「また民衆の間には、 堺の高三隆達が節づけた隆達小歌(隆達節)が流行し、 出雲の阿国が創始したといわれる歌舞伎踊りも盛んとなった。」
P.149の18行目~P.150の1行目 「また、 『閑吟集』は庶民が口ずさんだ小歌を集めている。……また『節用集』のような簡単な辞書もあらわれて、必要な生活知識が庶民のあいだにひろがった。」
P.201の14~15行目 「近松の作品には、 当時の町人社会に題材をとり義理と人情の葛藤を描いた世話物と、 歴史上の事件に題材をとった時代物がある(下注(2) 「世話物では『曽根崎心中』、時代物では『国性爺合戦』などがある。」)。」
 出雲阿国の歌舞伎踊りは桃山文化、『国性(姓)爺合戦』は元禄文化(ともに近世)に属し、『節用集』は室町時代の実用辞書である。
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B 近世の民衆の運動
問3「島原の乱後におこった出来事」(正しい組合せ択一) 3 正解は(3)
P.182の9行目~P.183の2行目 「1637(寛永14)年、 九州肥前の島原・天草地方の農民たちが、領主きびしい年貢とりたてやキリスト教弾圧に反抗して一揆をおこした。一揆勢は益田(天草)四郎時貞という少年を大将とし、前領主の牢人の指導のもと、3万人あまりが原城跡にたてこもって抵抗した。幕府は九州の諸大名など12万人あまりの大軍を動員し、老中松平信綱を派遣して、翌年ようやく鎮圧することができた(島原の乱、島原天草一揆)。」
P.211の2~6行目 「百姓一揆は江戸時代を通じて約3200件が判明しているが、 享保期以降にとくに頻発するようになり、 ……さらに、都市貧民の打ちこわしが発生するようになり、とくに飢饉による米価高騰のさいには米屋や豪商がおそわれた。」
P.171の3~5行目 「1614(慶長19)年冬と1615(元和元)年夏の2回にわたる大坂の役(大坂冬の陣、夏の陣)で秀頼を攻め、これを滅ぼした。」
P.176の5~7行目 「幕府は、1643(寛永20)年に田畑永代売買禁止令を出し、 1673(延宝元)年には分割相続による耕地の細分化をふせぐために分地制限令を出した。」
P.183の4~6行目 「1639(寛永16)年、幕府はポルトガル船の来航を禁止し、 1641(寛永18)年には、 平戸のオランダ商館をポルトガル人の去ったあとの長崎出島に移した。」
P.182の5行目 「1624(寛永元)年にはイスパニア船の来航を禁じた。」
 a~dまで、いずれも政治・土地制度・外交上の基本的な年代である。
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問4「江戸時代の社会体制を批判する動き」(誤文択一) 4 正解は(4)
P.218の24~26行目 「本多利明は外国との交易による富国を説き、……」
P.218の8~10行目 「18世紀なかばには陸奥国八戸の医師安藤昌益『自然真営道』を著し、「万人直耕の自然世」を理想として封建的な身分制を否定した。」
P.218の16~17行目 「1767(明和4)年には江戸で尊王論を説いた山県大弐が処刑された(明和事件)。」
P.210の24~25行目 「17世紀後半には村役人が村民を代表して領主に直訴する代表越訴型一揆(P.211の下注(1) 代表越訴型一揆の例としては、下総佐倉の佐倉惣五郎や上野磔茂左衛門の指導によるものが知られている。 彼らは義民とよばれ、佐倉惣五郎は幕末に演劇などにとりあげられるようになった)が一般化した。」
P.239の24行目~P.240の4行目 「政争の激化は民衆の社会不安をつのらせ、 物価高騰による生活苦も加わって、 各地で世直しを唱える百姓一揆(世直し一揆)や打ちこわしが頻発した。 さらに、 1867(慶応3)年の後半には「ええじゃないか」の乱舞がおき、社会情勢は騒然としていった。」
 (1)~(3)は江戸中後期を代表する社会思想家で、佐倉惣五郎は江戸前期の代表越訴型一揆の指導者であり、世直し一揆は江戸後末期に発生した。
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C 20世紀初頭の民衆の運動(大正デモクラシー)
問5「日露戦争」(正文択一) 5 正解は(3)
P.277の20行目~P.278の3行目 「1904(明治37)年2月、日本政府はロシアに通告するとともに、仁川と旅順のロシア艦隊を攻撃し、日露戦争がはじまった。」
P.318の3~6行目 「大正から昭和にかけての民主主義は、 政党政治が「憲政の常道」となった時代の民主主義思想であり、社会運動にたち上がる中・下層の人々の社会的平等要求をも組み入れた新しい民主主義であった。それを一般に大正デモクラシーという。」
P.308の3~4行目 「1921年11月から翌年2月まで、アメリカ大統領ハーディングのよ
びかけにより、ワシントンで海軍軍縮会議が開催された。」
P.312の17行目~P.313の7行目 「1927年4月の金融恐慌をきっかけに田中義一政友会内閣が誕生すると、外相を兼任した田中は方針を干渉政策(積極外交)へと変えた。……北伐を阻止するため3次にわたる山東出兵がおこなわれた。」
P.278の15~16行目 「同(1905)年5月の日本海海戦の大勝を機に、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトに調停を依頼した。」
P.274の5~8行目 「条約(下関条約)の内容は、 清国が朝鮮の独立を認め、 遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲し、賠償金2億両(約3億円)を支払い、沙市・重慶・蘇州・杭州を開市・開港することなどであった。」
 リード文から、「20世紀初頭に起こった戦争」が日露戦争であることを読み取る。
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問6「1910年代から20年代の出来事」(正文択一) 6 正解は(1)
P.320の1~2行目 「鈴木三重吉は『赤い鳥』を創刊して児童文学を開拓した。」
P.293の下注(3) 「1892年、 久米の「神道は祭天の古俗」論文が田口卯吉編集の雑誌に掲載されたのに対して、神道家らがこれを攻撃し、辞職に追い込んだ(久米邦武事件)。」
P.322の9行目~P.323の3行目 「……海軍青年将校らが首相官邸を襲撃し、首相犬養を射殺する五・一五事件が発生した。……この結果、護憲三派内閣以来の政党内閣制は終わりを告げ、政党の力の低下と軍部・官僚の発言力の増大がもたらされた。」
P.334の8~12行目 「1940(昭和15)年に、近衛文麿が一国一党をめざす新体制運動をおこすと、軍部は新しい国民動員組織としてこれを歓迎し、政友会・民政党・社会大衆党なども争って解党して、新党参加の態勢をとった。」
 大正デモクラシーの時代の政治・社会・外交・文化などの特徴をしっかりと把握しておくことが大切である。
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第2問 原始・古代の対外関係に関する問題
A 『漢書』地理志・『後漢書』東夷伝・『魏志』倭人伝などの記述
問1「楽浪郡と奴国」(正しい組合せ択一) 7 正解は(4)
P.39の1~6行目 「中国の『漢書』地理志によると、 紀元前1世紀ごろ、倭人の社会は百余国にわかれ、漢が朝鮮半島においた楽浪郡に定期的に使者を送っていた、という。また、『後漢書』東夷伝には、 57年に倭の奴国の王の使者が、 後漢の都洛陽にいき、光武帝から印綬を与えられ、 107年にも別の倭国の王が160人の生口を後漢の安帝に献上したことが記されている。」
 小国の分立関係の基本的史料をしっかり読み込んでいれば問題はなし。
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問2「邪馬台国の女王、卑弥呼」(誤文択一) 8 正解は(3)
教科書 P.40の6行目~P.41の5行目 「中国では後漢が…、220年に滅んで・呉・蜀が対立する三国時代となった。 ……諸国は共同して卑弥呼という女王をたて、邪馬台国を中心とする約30国からなる連合体をつくった。……卑弥呼は、宮殿の奥深くに住み、呪術を用い、宗教的権威によって政治をおこない、弟が補佐した。邪馬台国では支配階級の王と大人、 被支配者階級の下戸にわかれ、生口もいた。一定程度の統治組織・租税・刑罰の制度がととのえられており、諸国に市がひらかれた。」
P.41の9~12行目 「卑弥呼の死後、 男王がたったが内乱がおこった。 そこで一族の女性壱与(台与)があとをついで王となると、 乱はおさまった。 壱与は、 ふたたび魏やつぎのに遣使した。 しかし、 それ以後約1世紀半のあいだ、中国の史書には倭との交渉のことはみえない。」
P.41の6~12行目 「中国では、 華北を領有した魏が3世紀前半に朝鮮半島に勢力をのぼし、楽浪・帯方(下注(2) 「後漢末期に遼東の豪族公孫氏が楽浪郡を占拠し、 その南半を割いて帯方郡を設けた。」)の2郡を支配した。」
 『魏志』倭人伝の史料をしっかり読み込んでいれば問題はない。
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問3「前期古墳」(正文択一) 9 正解は(4)
P.46の9~15行目 「初期の典型的な大型古墳は、葺石でおおい、埴輪をめぐらした墳丘の頂上部に、大きな竪穴を掘って竪穴式石室や粘土槨などの埋葬施設を設けている。……副葬品のなかには銅鏡などの宗教的な宝器を含むことから、この時期の古墳の被葬者が司祭的性格をもっていたことがわかる。」
P.59の9~10行目 「1972(昭和47)年に発見された高松塚古墳壁画(下注(2) 「男女の官人や青竜・白虎などの四神その他が、あざやかな色彩を使って描かれている。初唐の影響が著しいが、高句麗壁画の影響もある。」)もこの時期(白鳳文化)の代表作である。」
 古墳築造は3世紀後半に近畿地方から始まり、5世紀(中期)に巨大な古墳が平野部に多く造られ、7世紀に終末を迎える(飛鳥・白鳳文化の時代、代表例として高松塚古墳)。
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B 初期(7世紀段階)の遣唐使
問4「朝廷の蝦夷支配」(古いものから年代順に配列) 10 正解は(2)
P.56の12~15行目 「朝廷は支配領域の拡大にも留意して、孝徳朝にすでに越後に渟足柵・磐舟柵をおいて、蝦夷支配の根拠地としていたが、斉明朝には阿倍比羅夫が水軍をひきい、海岸づたいに秋田・津軽の方面まで進出した。」
P.73の9~12行目 「8世紀後半以来の蝦夷の抵抗に対して、3回にわたり大軍が派遣された。坂上田村麻呂を征夷大将軍とする第3次軍は、蝦夷の拠点胆沢盆地にすすんで、蝦夷の首長阿弖流為を屈服させ、胆沢城をきずいて鎮守府を多賀城からここに移した。」
P.64の8~10行目 「辺境地域の開拓もすすめ、 日本海方面では712(和銅5)年に出羽国をおき、 太平洋方面では多賀城をきずいて鎮守府をおき、 東北経営の拠点とた。」
 蝦夷支配はまず日本海側から着手し、ついで太平洋側南部に移り、次第に北上して北上川中流域へと北上していった。
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問5「百済に関連した文化」(正誤組合せ択一) 11 正解は(3)
P.54の9~11行目 「暦は百済の僧観勒によってもたらされ、 紙・墨・絵の具の製法は高句麗の僧曇徴によって伝えられ、その後の文化の発展に貢献した。」
P.59の11~13行目 「貴族のあいだでは、亡命その他で日本にやってきた百済の王族や貴族の影響もあって、 漢詩文がつくられはじめ大津皇子らがすぐれた作品をのこした。」
 曇徴は飛鳥時代に来日した高句麗僧であることに注意する。
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問6「中大兄皇子(天智天皇)の施策」(正文択一) 12 正解は(1)
P.57の1~7行目 「……朝廷は、朝鮮に大軍を送って百済を再興しようとしたが、663年、 白村江の戦で唐・新羅の連合軍にやぶれた。朝廷は大宰府を守るために水城や大野城をつくり、対馬・筑紫・長門・讃岐・大和などに朝鮮式山城をきずいて、唐・新羅の来襲にそなえた。」
P.55の14~15行目 「さらに、(中大兄皇子らは)中国の例にならって大化という年号をはじめて定め、 都を難波に移した。」
P.60の15~16行目 「軍事・警察関係では、都に五つの衛府、諸国に軍団をおき、九州には防人を配置して外敵にそなえた。」
P.44の13~15行目 「……6世紀はじめ、新羅とむすんで反抗した筑紫国造磐井をうちやぶった(磐井の乱)ことにより、大和政権の政治組織はいっそう強固となった。」
 中大兄皇子(天智天皇)の施策としては、水城・大野城など朝鮮式山城の築造、大津宮造営、庚午年籍の作成、近江令などの内政充実がある。
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第3問 古代末から中世に関する思想史・外交史
A 古代末から中世の思想史問題
問1「度会家行と『神皇正統記』」(正答組合せ択一) 13 正答は(3)
P.121の8~9行目 「伊勢外宮の度会家行は、 本地垂迹説を逆転させた神本仏迹説を唱えて伊勢神道を創始した。」
P.144の17~19行目 「北畠親房は伊勢神道を背景にして『神皇正統記』をあらわし、 天皇の歴史をたどりながら南朝の正統性を訴えた。」
 度会家行・北畠親房はともに中世を代表する神道家であり、それぞれの著作とその主張はしっかり確認しておくことが重要である。
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問2「興福寺・延暦寺の僧兵の強訴」(正文択一) 14 正答は(1)
P.96の1~5行目 「……なかでも有力寺院は、自領の荘園から兵士役として徴集した荘
民たちと下級僧侶(堂衆)を中心に、いわゆる僧兵を組織し、その要求を朝廷に認めさせるために、春日社の神木や日吉社の神輿をおしたてて強訴をしたり、対立する寺院と合戦をおこなったりした。」
P.96の下注(1) 「白河上皇は「賀茂川の水、 双六の賽、 山法師、 これぞ朕が心に随はぬ者」(『源平盛衰記』)と嘆いたと伝えられる。このうち、山法師は延暦寺の僧兵をさしている。」
 興福寺・延暦寺の僧兵の強訴は、当時「南都北嶺」といわれて恐れられ、彼らは興福寺の神木、延暦寺の神輿をかついで無理強いな要求をつきつけた。
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問3「吉田兼倶の神道学説と足利義政・日野富子」(正文択一) 15 正答は(2)
P.148の12~16の行目 「吉田兼倶は伊勢神道の神本仏迹説をさらにすすめ、 日本の神を儒・仏の上においてこれらを統合する唯一神道(吉田神道)を唱えて、つぎの時代に影響を与えた。」
P.148の「おもな文学作品」「樵談治要(一条兼良)」
P.142の9~13の行目 「……当時、斯波・畠山の両管領家は相続争いにゆれていたが、これに8代将軍義政の継嗣問題がからんで、義政の弟義視が細川勝元とむすび、義政夫人日野富子と子の義尚が山名持豊(宗全)とむすんだ。……1467(応仁元)年、幕府内部を二つにわけた争いに発展していった(応仁の乱)。」
P.120の13~15行目 「また、 『宇治拾遺物語』『古今著聞集』(橘成季) 『十訓抄』や無住の『沙石集』などの説話集がつくられ、 ……」
P.144の15~17行目 「歴史書では『増鏡』が源平の争乱から後醍醐天皇までの歴史を公家の立場でとらえ、 『梅松論』は武家の側にたって足利尊氏の活躍を描いた。」
 『樵談治要』は一条兼良の代表作で、 日野富子の実子は義視(養子)ではなく義尚である。一休宗純は五山の権威主義に反対し、 民衆的な禅を追及した大徳寺の禅僧である。
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B 14~16世紀の外交に関する問題
問4「応永の外寇と対馬の宗氏」(正しい組合せ択一) 16 正答は(2)
P.84の22~24行目 「……1019(寛仁3)年、沿海州地方の刀伊(女真族)が対馬・壱岐をおかし、さらに北九州に来襲するという事件がおこった(刀伊の入寇)。」
P.180の7~9行目 「尚氏の支配する琉球王国は、 明の冊封を受け朝貢貿易をおこなういっぽう、文禄・慶長の役では秀吉から島津氏への協力を強制されるなど、日明両国の影響下にあった。」
P.137の12~14行目 「……その後1419(応永26)年に朝鮮軍が対馬を倭寇の根拠地と考え、襲撃したこともあったが(応永の外寇)、両国の貿易はそのまま続けられた。」
 足利義満は朝鮮の倭寇禁圧要求に応じて国交を開き、対馬の宗氏の統制のもとに西国大名や博多商人が参加して公貿易が行われた。応永の外寇は朝鮮軍の倭寇根拠地襲撃事件である。
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問5「14世紀の東アジアと日本の情勢」(誤文択一) 17 正答は(3)
P.134の7~9行目 「明では海禁政策がとられ、 一般の中国人の海外渡航や海上貿易を禁止したため、 貿易の道をとざされたわが国では新しい対応策をせまられた。」
P.137の8~10行目 「朝鮮では、 高麗の末期に倭寇を制圧し名声をえた李成桂が、 1392年に高麗を倒して朝鮮を建国し、 李王朝がひらかれた。」
P.134の1~3行目 「蒙古襲来による中断はあったが、 中国・朝鮮との往来はさかんで、
僧侶や商人が往き来し、鎌倉幕府も交易船をしたてて元に派遣し、室町幕府もこれにならった。 
P.134の下注(1) 「足利尊氏・直義兄弟は、後醍醐天皇の冥福をいのって洛西に天龍寺を造営し、夢窓疎石を開山にした。鎌倉幕府が派遣した建長寺船の先例にならって、このとき天龍寺造営のために元への貿易船が派遣された。これが天龍寺船である。」
P.130の6~13行目 「京都によった幕府方では、将軍尊氏が守護の人事などの権力の中
軸をみずからにぎり、裁判や行政など広範な権限を弟の直義にまかせていた(二頭政治)。やがて政治方針をめぐって兄弟の対立がおき、さらに執事高師直がこれに加わって直義と争うなど、1350(観応元)年以降、複雑な争いをくりかえした(観応の擾乱)。」
 建長寺船を派遣したのは鎌倉幕府で、その派遣先は元であることに注意する。
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問6「日朝・日明貿易」(正文択一) 18 正答は(4)
P.134の10~12行目 「国家による貿易統制の利益に目をつけた足利義満は、 1401(応永8)年、側近の祖阿、博多の商人肥富らの使者を明につかわして日本の統一を知らせ、国交を求めた。これに対して、明では義満を日本国王に任命し、以後日本からの朝貢の形で日明貿易が開始された。」
P.135の3~5行目 「義満の外交は先例にとらわれることなく、 朝貢の形式をとったため多くの批判をよび、4代将軍義持のときに勘合貿易は中止されたが、6代将軍義教がこれを再開した。」
P.136の22~24行目 「16世紀なかばには明の海禁政策もゆるみ、 また、 ポルトガル商人の進出もあって、 東アジア海域における琉球船の活躍はやんだ。」
P.137の14~15行目 「……しかし1510(永正7)年、三浦の乱がおこって日朝貿易は衰えた。」
P.137の下注(3) 「三浦とは、 富山浦(釜山)・乃而浦()・塩浦(蔚山)の3港のことで、朝鮮ではここを日本との貿易港に定め、倭館をおき、多数の日本人を居住させていた。三浦の居留日本人は種々の特権が与えられていたが、しだいにこの特権が縮小されていくのを不満として、反乱をおこし鎮圧された。」
 足利義満は明の皇帝から日本国王の称号を付与され、朝貢形式による勘合貿易を開始した。その後、義持の代に屈辱外交として一時中断したが、義教の代に貿易の利を優先させ復活した。15世紀段階で南方貿易で活動したのは琉球船で、ポルトガル・イスパニア船が活躍するのは16世紀以降である。
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第4問 近世の政治・社会や文化に関する問題(配点 17)
A 江戸時代の商品経済
問1「青物市場と運上」(正語句組合せ択一) 19 正答は(4)
P.198の16~17行目 「江戸・大坂では、主要商品ごとに専門の卸売市場が設けられた。」
P.198下注(3) 「大坂堂島の米市場、 江戸日本橋や大坂雑喉場の魚市場、 江戸神田や大坂天満の青物市場などがよく知られている。」
P.209の16~18行目 「(田沼意次は)都市の商工業者や在郷町の商人らに株仲間の設立をすすめ、営業独占を認めるかわりに運上・冥加を上納させた。」
P.176の13行目~P.177の1行目 「その他、 高掛物といわれる付加税、 山野河海の利用や副業に対してかかる小物成、 労役を提供する夫役などがあった。」
 江戸神田・大坂天満から専門の卸売市場として青物市場が、株仲間の公認から営業税としての運上・冥加は自然と浮かんでくる。高掛物は農民に賦課された税である。
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問2「江戸時代の商人の活動」(正文択一) 20 正答は(3)
P.179の下注(4) 「朱印船を派遣した者のなかには、 ……京の角倉了以茶屋四郎次郎摂津平野の末吉孫左衛門、長崎の末次平蔵・荒木宗太郎らの豪商のほか、ウィリアム=アダムズらの外国人などもいた。」
P.198の18行目~P.199の2行目 「流通をになった問屋・仲買・小売の商人の分化もすすみ、問屋・仲買のなかには同業者組合である仲間をつくって営業独占をはかる者もあられた。……17世紀末に結成された大坂の二十四組問屋江戸の十組問屋は、 その代表的なものである。」
P.209の下注(1) 「商工業的性格をもち町場化した集落を在郷町(在町・在方町)といい、これを拠点に流通活動をおこなった商人を在郷(在方)商人という。多くは農村の村役人や地主であった。」
P.191の14~16行目 「幕府や諸藩は、大河川の下流や海岸部で新田開発を積極的におこなった。……17世紀末になると、 町人が開発を請け負う町人請負新田(下注(5) 元禄・宝永期における淀川下流の大坂川口新田や旧大和川跡の新田はその代表的なものである。)がひらかれるようになった。」
 茶屋四郎次郎は京都商人、二十四組問屋は大坂の株仲間で江戸は十組問屋である。徳川吉宗・田沼意次は町人資本に依拠した新田開発に積極的であった。
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問3「江戸時代後期の民衆の暮らし」(誤文択一) 21 正答は(3)
P.206の1~5行目 「17世紀後半以降、の商品経済の発展は、 社会に大きな変化をもたらした。 売ることを目的とした商業的農業の展開によって、 農民は、 農業経営に失敗して土地を失い、賃稼ぎや小作をおこなう者と、 土地を集積し経営を拡大する者とに階層分化していった。」
P.206の下注 「……土地を集積した者は、年季奉公人や日雇いを使う富農経営や、小作人に土地を貸す地主経営をおこなったが、しだいに地主経営の比重が高まっていった。」
P.222の8~9行目 「江戸中・後期には、旺盛な出版活動に加えて貸本屋の活動もさかんとなり、下層の民衆も分化を享受できるようになった。」
P.230の8~10行目 「……東北地方をまわり農民の生活を『菅江真澄遊覧記』としてまとめた国学者菅江真澄雪国の自然や生活を『北越雪譜』に描いた鈴木牧之は、その(地域に根ざした独自の文化)代表的なにない手である。」
P.219の8~10行目 「……疲弊した農村を復興させるため、大蔵永常・二宮尊徳・大原幽学らの農政家が実地に指導にあたり、農政理論を実践した。」
 仙台藩医工藤平助の代表作は、時の老中田沼意次にロシアとの交易を力説した『赤蝦夷風説考』である。
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B 江戸時代後期の文化
問4「当時の世相を風刺した川柳の背景」(正文択一) 22 正答は(2)
P.199の4~8行目 「貨幣鋳造権を独占していた幕府(徳川家康)は、金座・銀座・銭座を設けて金・銀・銭の三貨を統一通貨として発行し、全国に流通させた。」
P.210の9~11行目 「田沼政治は町人の経済力を利用して幕府収入を増やしたが、 株仲間による独占の弊害や賄賂の横行による士風の退廃をもたらし、 世人の批判をあびた。」
P.224の「川柳」 「役人の子はにぎにぎをよく覚え 『誹風柳多留』
P.212の6~7行目 「定信は、 旗本・御家人に文武両道を奨励するとともに倹約令を発し、退廃した士風の刷新と有能な人材の育成をはかった。」
P.213の「寛政の改革への風刺」 「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)というて夜もねられず」
 掲載された川柳から、当該社会(田沼政治)での「にぎにぎ(賄賂)」の横行を読み取ることが求められる。
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問5「定信の風俗統制による弾圧」(正文組合せ択一) 23 正答は(2)
P.223の「おもな文学作品 「〈黄表紙〉金々先生栄華夢(恋川春町)」 「〈人情本〉春色梅児誉美(為永春水)」
P.223の5~11の行目 「文化文政期になると、 ……黄表紙の流れをくむ長編絵物語である合巻では柳亭種彦が、男女の情愛を描いた人情本では為永春水が活躍したが、ともに天保の改革で処罰された。」
P.223の1~5行目 「田沼時代から寛政期にかけ、 江戸の遊里を舞台にした洒落本や、時事を風刺したさし絵入りの黄表紙が流行したが、 人気作家山東京伝が寛政の改革で処罰されると衰えた。」
 恋川春町の代表作は『金々先生栄華(花)夢』(黄表紙)、為永春水の代表作は『春色梅児誉美(暦)』(人情本)。山東京伝は寛政の改革(松平定信)で、柳亭種彦・為永春水は天保の改革(水野忠邦)で処罰された。
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問6「現金かけねなしの新商法をおこなった商家の様子」(正図版択一) 24 正答は(1)
「越後屋呉服店内の様子」の図版(東京 三越資料編集室蔵)
P.229の「寺子屋」の図版(渡辺崋山『一掃百態』)
P.198の「蔵屋敷」の図版(『摂津名所図会』)
P.183の「踏絵」の図版(シーボルト『日本』)
 「現金(銀)かけねなし」は、三井八郎右衛門高利が江戸駿河町(旧店は本町)に開店した越後屋呉服店のキャッチフレーズである。(1)の図版の中央の柱に「ゑちご屋本店」と記されていることに注目する。
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第5問 近現代の経済・政治に関する問題(配点 21)
A 近現代の食糧需要
問1「防穀令事件と製糖業」(語句組合せ択一) 25 正答は(3)
P.272の19行目~P.273の2行目 「日本は朝鮮をめぐって清国と対立していた。……1893年に日本と朝鮮との間で防穀令をめぐる紛議(防穀令事件)がおきたとき、 日本政府は清国に調停を依頼し、 事件を解決した。」
P.273の下注 「防穀令とは、朝鮮の地方役人が出す、穀物の輸移出禁止令。この発令で損害を負った日本商人への賠償交渉が紛糾し、一時は日本政府が朝鮮政府に最後通牒まで出す事態となったが、清の調停により朝鮮側が譲歩し問題は解決した。」
P.250の15~17行目 「1875年、 日本軍艦雲揚が朝鮮の首都漢城(現ソウル)防衛の要地である江華島に無断で接近するという挑発をおこない、朝鮮側砲台と交戦する事件がおきた(江華島事件)。」
P.274の15~17行目 「日本は1895年、台湾総督府を設置し、軍人を総督とし軍政によって抗日抵抗運動を弾圧しながら植民地支配をすすめた。」
 アは朝鮮での日本への穀物輸出の禁止令(1889~93)が原因とあることから防穀令とわかり、イは台湾の主たる物産を想起すれば、自ずと製糖業が浮上してくるであろう。
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問2「1920年代後半から30年代前半期の商工業」(正文択一) 26 正答は(1)
P.314の9~12行目 「……1927年3月、預金の「とりつけ騒ぎ」がおこり、これをきっかけに金融恐慌がはじまった。「大戦景気」で急成長した鈴木商店が破綻し、鈴木商店に巨額の融資をおこなっていた台湾銀行が経営危機におちいった。」
P.300の10~11行目 「……在華紡(下注(1) 上海や青島など中国に進出した日本の綿業資本のことをいう。)の設立など中国への資本の輸出もはじまった。」
P.315の21~23行目 「……世界恐慌の影響が浜口内閣の緊縮政策と重なり、日本経済は深刻な経済不況(昭和恐慌)におちいった。アメリカの恐慌の影響を受け、対米輸出にたよってきた生糸価格が暴落し、農村が打撃を受けた。」
P.325の2~5行目 「とくに軍部とむすびついた新興財閥が重化学工業に進出し、 朝鮮・満州へ活発な投資をおこない、既成財閥も競合して日本経済の重化学工業化を推進した。」
P.325の下注(1) 「……また野口遵の日本窒素肥料会社を中心とする日窒コンツェルンは朝鮮の発電・重化学工業の開発をすすめた。……。」
 在華紡は中国に設立された綿紡績会社。また、アメリカ輸出に依存していた生糸産業はアメリカに端を発した第二次世界恐慌の影響をもろに受け、極度の不況に陥った。さらに日本窒素(日窒)は日産(鮎川義介)・日曹(中野友礼)・理研(大河内正敏)などとともに、コンツェルンを形成し、軍部とむすびついた新興財閥として朝鮮・満州に進出した。
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問3「日中戦争・太平洋戦争期の日本」(年代順配列) 27 正答は(3)
P.332の12~15行目 「1941(昭和16)年12月8日、日本海軍の機動部隊はハワイ諸島に奇襲攻撃を加え、真珠湾のアメリカ太平洋艦隊に大損害を与えた。また日本陸軍はイギリス領とタイ領のマレー半島に奇襲上陸した。」
P.339の15~17行目 「空襲にそなえて学童疎開・建物疎開がおこなわれたが、本土空襲の結果、東京はじめ全国の都市が焼かれ、多数の犠牲者・被災者が出た。」
P.327の13~19行目 「その直後(1937年)7月7日、北平(北京)郊外の盧溝橋で日中両軍の衝突する事件が発生した(盧溝橋事件)。 ……戦火は8月には上海へ拡大し(第2次上海事変)、9月には「支那事変」と改称され、宣戦布告のないまま日本は中国に対する全面的な侵略戦争に突入した(日中戦争)。」
 日中戦争・太平洋戦争は、 盧溝橋事件(1937)~マレー半島奇襲上陸(1941)~学童疎開(1944)へと展開する。
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問4「戦後日本の食糧危機」(正誤組合せ択一) 28 正答は(2)
P.345の19行目~P.346の1行目 「敗戦後、工業生産力は大幅に低下し、農業も米が連年不作となって、衣食住の不足は深刻をきわめた。とくに都市では食糧の配給がとどこおり、食糧危機は大きな政治問題になった。」
P.293の「おもな自然科学者の業績」 「〈化学〉 鈴木梅太郎 オリザニン創製(ビタミンB1の発見」
P.345の21行目~P.346の1行目 「また悪性インフレーションが昂進し、 政府は1946年2月、金融緊急措置令を公布して通貨の収縮をはかったが、一時的な効果しかなかった。」
 1946年5月19日の食糧メーデー(飯米獲得人民大会)には、宮城前広場に25万人余りが集まった。オリザニンの抽出に成功したのは鈴木梅太郎(明治時代の薬学者)で、野口英世(大正時代の医者、黄熱病の研究)ではない。金融緊急措置令は、悪性インフレに対応するために発令された通貨収縮策である。
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B 日露戦争後の日本の朝鮮支配と第二次大戦後の朝鮮半島
問5「漢城と海軍」(正語句組合せ択一) 29 正答は(1)
P.279の15~16行目 「戦後(日露戦争)の1905年の第2次日韓協約では、外交権をうばい、統監府を設置し、伊藤博文が初代統監に就任した。」
P.280の3~6行目 「1909年、 初代統監をつとめた伊藤博文がハルビンで韓国の民族主義者の安重根に暗殺されると、 日本は駐韓軍を増強し、 1910年には併合条約を成立させて韓国を日本領土とし、 朝鮮総督府のもとで、 統治した(韓国併合)。」
P.322の13行目~P.323の1行目 「この事件(五・一五事件)ののち、 元老西園寺公望は
後継首班に海軍大将斎藤実をおし、 官僚を中心とする「挙国一致」内閣がつくられた。」
 韓国併合により首都は漢城から京城と改称された(現ソウル)。初代朝鮮総督は寺内正毅(陸軍大臣・長州出身)で、三・一独立運動後、海軍大臣出身の斎藤実が総督となり、文化政治を推進した。
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問6「第2次日韓協約の内容」(正文択一) 30 正答は(2)
P.299の7~10行目 「1917年4月、アメリカが大戦(第1次)に参戦すると、日本政府
は、11月に石井-ランシング協定をむすんで、 中国における日本の「特殊権益」を認めさせるいっぽう、アメリカが主張する中国の領土保全・門戸開放の原則を確認して、アメリカとの融和につとめた。」
P.279の16~19行目 「また、 同(1905)年、 桂-タフト協定第2次日英同盟をむすび、アメリカのフィリピン統治、イギリスのインド支配を容認するかわりに、日本の韓国支配への両国の承認をとりつけた。」
P.277の3~5行目 「日本をはじめ列国は連合軍を組織して出兵し、 これ(義和団)をやぶった(北清事変) 。」

P.280の10~11行目 「1910年から日本の地租改正にあたる、土地調査事業(下注(2) 調査の過程で多くの農民の土地が国有地に編入され、農民は小作人に転落した。国有地は国策会社の東洋拓殖会社や日本人地主などに払い下げられた。)を実施し、朝鮮を資本主義経済に組み込む基礎をつくった。」
 第2次日英同盟(協約)で、イギリスは日本の韓国保護国化を承認した。義和団事件は1900年に発生した中国民衆の反帝国主義闘争であり、 土地調査事業は1910年以降の朝鮮総督府支配下でおこなわれた土地所有権の確定作業である。
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問7「斎藤実首相在任中の出来事」(正文択一) 31 正答は(2)
P.312の10~13行目 「……1926年からは、張作霖ら北方軍閥を倒し全中国を統一するための北伐(国民革命)が開始された。 1927年4月には上海がひきいる国民党軍の手に落ち、以後国民党軍は華北に進出するが、それは華北や満州に存在する日本の権益をおびやかすことになった。」
P.323の4~6行目 「斎藤内閣は9月、「満州国」を承認し、日満議定書および付属の秘密協定で満州を日本の支配下におき、その実権は関東軍司令官がにぎった。」
P.328の19行目 「……1938(昭和13)年には企画院(下注(5) 「1937年に内閣直属機関として設立され、 総動員計画、生産力拡充計画などを立案した。」)の立案した国家総動員法が制定された。」
P.264の12行目 「(憲法)草案は1888年に枢密院(下注(3) 天皇の最高諮問機関。憲法草案を審議するために設けられ、憲法で常置機関と定められた。議会開設後は藩閥官僚勢力の牙城となった。)で審議され、翌1889年2月11日に天皇の定める憲法(欽定憲法)として公布された(大日本帝国憲法・明治憲法)。」
 犬養毅は「満州国」承認を拒否して暗殺(五・一五事件)され、そのあと後継として首班指名された斎藤実はこれを承認した。枢密院の設置は1888(明治21)年、の北伐開始は1926(大正15)年、 企画院の設置は1937(昭和12)年のことである。
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問8「朝鮮半島の二つの南北国家」(誤文択一) 32 正答は(3)
P.349の12~15行目 「朝鮮では、1948年、 南にアメリカの支援する李承晩を大統領とする大韓民国、 北にソ連の支援する金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が成立し、 1950年には朝鮮戦争がおこった。」
P.350の9~12行目 「1950(昭和25)年6月、 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)軍の南進によって朝鮮戦争がはじまった。大韓民国はアメリカ軍を主力とする国連軍の支援を受け、北朝鮮は中華人民共和国の義勇軍とソ連の支援を受けて、激烈な戦闘が展開された。」
P.358の1~5行目 「1964年に成立した佐藤栄作内閣は、 アメリカのアジア政策に協力し、 1965年、大韓民国の朴正煕政権と日韓基本条約をむすんで国交を樹立し、資金供与などをおこなった。」
 連合国による日本占領が終了したのは、朝鮮戦争(1950~53)中の1951年9月のサンフランシスコ平和条約(48か国との間に締結)である。
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第6問 近代以降における学問や文化に関する問題(配点 11)
A 明治維新以降の欧米文化の摂取
問1「明治維新後の欧米文化の摂取」(年代順択一) 33 正答は(1)
P.249の3~6行目 「そこで中央集権を達成した明治政府は、 1871(明治4)年、岩倉具視を大使とし木戸孝允・大久保利通・伊藤博文らを副使とする大使節団を、条約改正の予備交渉のため米欧に派遣した。」
P.255の19~22行目 「また高等教育については、 政府は外国人教師を雇うとともに、多くの留学生を海外に送り、 西洋の学問・技術の受容につとめた。 さらに、 1877年には、開成所・医学所を母体として東京大学を設置し、師範教育や女子教育のための学校も設置された。」
P.268の下注(2) 「欧州風の社交場として1883年に建設された鹿鳴館が欧化主義政策の象徴であった。」
 岩倉ら遣外使節団は1871年に欧米に向けて日本を出発し、東京大学が開設されたのは1877年で、 鹿鳴館の設立は1883年のことである。
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問2「明治後期の日本の科学」(正文択一) 34 正答は(2)
P.293の「おもな自然科学者の業績」 「〈物理学〉 田中館愛橘 近代物理学を確立」 「〈化学〉 高峰譲吉 タカジアスターゼ創製」 「〈医学〉 志賀潔 赤痢菌発見」
P.348の11~14行目 「自然科学では、日本が「科学戦」でアメリカにやぶれたという反省が強かったため、「科学振興」が唱えられ、1949年の湯川秀樹の日本人初のノーベル賞受賞は、 国民に大きな励ましを与えた。」
 湯川秀樹のノーベル賞受賞のみが、昭和期の自然科学分野における世界的な業績である。
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B 明治時代以降の出版物とその統制
問3「言文一致体と円本の誕生」(正語句組合せ択一) 35 正答は(4)
P.294の5~10行目 「……1885(明治18)年に刊行された坪内逍遙の『小説神髄』は、文学を道徳や政治から自立させ、芸術としての独自の価値を認める文学論を展開した。この主張を具体化したのが、言文一致体で書かれた二葉亭四迷の『浮雲』であった。」
P.302の7行目~P.303の3行目 「文化や情報を伝えるメディアモ発達した。 ……『週
刊朝日』や『サンデー毎日』などの週刊誌、『キング』などの大衆誌、 円本(下注(1) 「昭和初期(1920年代中頃)に改造社・新潮社・平凡社などから出版された1冊1円の廉価本。」)などの低価格本が誕生した。」
 『浮雲』は二葉亭四迷の名著で、言文一致体という新たな形式で書かれた小説である。昭和初期には円本と呼ばれる廉価本が大量出版され、文化の大衆化に大いに寄与した。
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問4「満州事変以降の出来事」(誤文択一) 36 正答は(2)
P.324の14~15行目 「五・一五事件後は「非常時」がさけばれ、思想抑圧は自由主義的な学問の領域にまで及び、1933(昭和8)年には滝川事件(下注(2)「京都帝国大学教授滝川幸辰が文相鳩山一郎により、その刑法学説を共産主義的であるとして、休職処分に付され、これに抗議して法学部全教官が辞表を提出し、学生も反対運動をおこしたが、大学側の敗北におわった。」)がおこった。」
P.252の3~6行目 「…政府は、同(1875)年、讒謗律・新聞紙条例の制定や出版条例の改正をおこない、言論統制を強化した。」
P.337の18~20行目 「日中戦争を批判する見解を発表した矢内原忠雄、ファシズムを批判した河合栄治郎らは大学を追われ、日本無産党・労農派グループも検挙された(人民戦線事件)。」
P.337の下注(2) 「1937年に反ファッショ人民戦線を企図したとして、加藤勘十・山川均・鈴木茂三郎らが検挙され、日本無産党が結社禁止となり(第1次)、翌年大内兵衛・有沢広巳・美濃部亮吉ら教授グループが検挙された(第2次)。」
 新聞紙条例は明治時代に発令された自由民権運動を弾圧するための法律である。
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